哲とシルヴィオ - 2/6

2

「ほら、眠るな、哲坊」
 こつ、と頭をたたかれて―――ならいいが、煙草の火を軽く押しつけられて哲は悲鳴をあげて体を起こす。すでに桶に張られた水が隣に置かれている時点でおかしいのだが。
 痛みに顔をしかめながらその水に手を突っ込んで哲はシルヴィオを睨みつける。だが睨みつけるだけで何も言わない。
「俺が座学受持ってやるなんて信じられねー事態だぜ?神のごとき授業を受けて感涙こそすれ居眠りは感心しねーな」
 良く聞けよ、とシルヴィオは続ける。
「この組は特別でな。拳銃の使用をあの爺が許可してやがる。関東の親睦会で表向きは拳銃使用禁止になってる―――が、実際のとこそんなくだらねぇ規律を守ってる組はどこもねぇ。あくまでも表向きってことを頭に置いとけ。哲坊、お前まだ持ってねえだろ?」
 シルヴィオの問いかけに哲は一拍置いた後首を縦に振った。その反応にシルヴィオは頷いて、まぁその内渡されるさと続けた。
「現組長はかなりのやり手でな。ここ一帯を仕切ってるわけだが、小さい組ながら綻びが一切無い。親睦会に顔出しはしているが、名目上だ。どんなにでかい組もここだけにゃ手をださねぇ。反対に深手を負わされる始末さ、俺も一度目にしたことあるんだが…なんともえげつねぇ」
 ああ思いだすのも嫌だ、といった風ないいように哲は少し驚く。
 目の前の男には怖いものなど一切ないと思っていたからだ。あれ程の力を持っているのに。シルヴィオはそんな哲の視線に気づいたのか、ああ、と付け加えた。
「本当に怖えのは力じゃねえよ、哲坊」
「…なんですか、なら」
「知恵さと決断力だ、それに力も加わったら最強だろうな。あの組長なそれが不思議なほどに備わってる。神は二物を与えずっつーけど…一体どこのどいつの言葉だ。ま、もっとも出来のいい息子は与えちゃくれなかったみたいだがな」
 そう言ってシルヴィオは話を区切って、もとの路線に戻した
「で、だ。だがこの組はナワバリを広げることをしてねーから、他が連結して攻めることもない。ま、あの爺さんにとっちゃ同盟組もうがなんだろうが自分の陣地に踏み込んだやつはぶち殺すんだろうなぁ…あー想像したくねえ。おっとまた話がそれた。どこまで話したっけな」
「縄張りを広げない」
 手短に告げた哲にシルヴィオはそうそう、と指を振るう。
「そういう組だから独自の綱領が…あーと、掟が存在する。これを破ったものに与えられるのは」
 一拍置いてシルヴィオの瞳が不気味なくらいに暗い光を宿す。哲はその色に思わず息を飲んだ。シルヴィオの口からその言葉が発されずとも、何が言いたいのかわかる。
 「死」ただその一言だ。
 喉が唾を嚥下して動いた。一つ、と低く真剣な声が哲の耳にもぐり込む。
 潜り込んだ声は心の臓を鷲掴み、決定的な恐怖を刻み込んでいく。全身の重みに押しつぶされそうな感覚をその身に受けながら哲はまっすぐに瞳を据えた。
「薬には手を出すな。二つ、義なき殺しをするな。三つ、弱者なれば命を賭して守れ」
 分かり易いだろ、とシルヴィオは先ほどの緊迫感を一瞬で解いててそう告げた。二つ目以外は何とも言えないほどにヤクザらしくない、というか想像していたものと違う。
 驚いた哲の顔を見てシルヴィオもまぁなぁと納得したような声を漏らす。
「俺もこいつにゃ驚いたさ。大抵の極道の収入源はクスリだしな?それを絶つってんだから、結構きついもんがあると思うんだが…そうでもないのが不思議なんだよな、ココ。この俺でもよく分からん。どうやって切り盛りしてんだろーな。ま、しっかり刻みこんどけ―――お前がこれに刻まれねーようにな。取敢えず今言ったことだけはしっかり覚えろ。質問は?」
「…なんで、俺に」
 教えるんですか、と哲は一番気になっていたといをした。
 まだ盃もかわしていない人間にこんな話をするのはおかしい。哲はただ初老の男、この組の組長に連れてこられただけだ。それに今までの話方から察するに、このシルヴィオ・田辺もこの組の組員とは到底考えられない。
 シルヴィオはその質問にさあな、とだけ答えた。
「俺は与えられた仕事をこなしてるだけだ。一つ与えられる情報なら、あの爺さんはお前と盃を交わしたがってるってことだ。それに、お前にそれだけの価値を見出してる。あいつは怖ぇぞ、骨までしゃぶりつくされる」
「…」
「こっちは未確定ではっきりとした確証はねえから情報とは呼べないが…あの爺さんの息子に子供いるの知ってるか?」
 その言葉に哲は首を横に振った。そんな内情を自分が知るはずもない。うん、とシルヴィオは煙草をくゆらせて、煙を吐きだす。
「思うに、お前はその餓鬼の守役になる」
「…俺が?」
「そ、お前が。それと―――――いや、いい。こっちは俺のただの妄想だ」
 何か言おうとしたそれをシルヴィオは手を振って止めた。さて、とシルヴィオは大きく伸びをする。そして哲に向ってにやりと笑い、そして告げた。
「頭使った後にゃ、なんか腹に入れるに限る。ほら、行くぞ」
「どこに」
「うまいもん食いに。それと口のきき方、忘れてんぞ」
「…どこにですか」
「新境地を味わわせやる」
 にっと笑ったシルヴィオに哲は怪訝そうな顔をして、その背中を追いかけた。

 

「どういうことですか」
 哲は連れ込まれた店の椅子でぎんっとシルヴィオを親の敵か何かのように睨みつけた。その視線を受けながらシルヴィオは、あ、と口を動かして、手にしているものをひらひらと軽く哲に向けて振った。先が重いその金属器は適度な感じで揺れる。
「食べねーのか?」
 旨いぞ、というシルヴィオをさらに強い視線で睨みつけて、哲は周囲を見回す。好奇の視線が突き刺さっていた。
 無理もない、と哲は思う。
 方や派手なブラウスのスーツ姿の男、方や指先はもとより、頬や鼻先にも絆創膏を施しており、包帯を頭にまで巻いている始末の男。この二人を見て不自然だと思わない人間はいまい。そして、なによりもこの店。
「…ふざけているんですか」
「誰が」
「貴方です、田辺氏」
「人の好意を素直に受け止められねーやつは成長しねーぞ」
 と、言ってシルヴィオは手元のフルーツで愛らしく飾られたパフェを口に突っ込んだ。それにうんうんと頷く。それから哲の前に置かれている、パフェよりもずっと簡素な、けれども小ぶりでこちらも同様にキュートな食器に入れられたものを、再度指す。
「大体そいつはお前が頼んだんだろうが」
「まさかこんなものが出てくるとは思いもよりません。俺はこう、」
 こう、と続けて哲は手で小さなカップを形作る。シルヴィオは目の前のパフェを片付けながら哲の動きを観察する。哲はぷちっと何かを折る動作をする。まさにぷっちんぷりん。
「皿の上にこうやって乗ってくるものだと思ってたんです」
「別にそれでもいいが、お前飲食店がコンビニのぷっちんぷりん客に提供すると思ってたのか?」
「…プリンなんてみんな一緒でしょう」
 幼い頃に慣れ親しんだお菓子の名前を口にして哲は視線を逸らす。そうしている間にシルヴィオはパフェを食べ終わって店員にブラックコーヒーを頼む。
 甘いのは好きだが、甘さが続くのはそう好きではないらしい。それに加えて店内は禁煙。仕方無い、とシルヴィオはコーヒーで口寂しさを紛らわす。
「とっとと食えよ。それで俺に煙草を吸わせてくれ」
「肺がんになっても知りません」
「お、なになに?俺の体の心配してくれるわけか。やっさしーね、哲坊は」
「一般論です。気分が悪くなるのでそういう誤解はやめてください」
 哲は腹立たしげにそう言いきって、小さなスプーンをようやく持って、目の前のスウィーツに手をつける。柔らかなそれをスプーンの先にもって、開いた口まで運び、そして口を閉じた。
「…あ」
 おいしい。
 ぽろ、とこぼれた本音に哲は慌てて口を噤む。そしてそれから先は無言で目の前のプリンを食べた。
 前に座っているシルヴィオがコーヒーを嗜みながら、にやにやした目を哲に向けてくる。他の好奇心よりもそちらの方が性質が悪い。かち、とスプーンを置いて哲はごちそうさま、と断る。シルヴィオは食べ終わった哲に声をかけた。
「もう一個注文してやってもいいんだぞ?お兄さんが奢ってやる」
「…いりません」
「見栄っ張りはいいことねーぜ?ほらほら、俺が優しいのなんて今日限りかもしれねーぞ?」
 コーヒーを片手にしたり顔のシルヴィオから目の前の空になった容器に目を落して哲はぽつりと呟いた。あまりにも小さな声なので、シルヴィオには届かない。ん、何?と笑ったシルヴィオを哲は睨みつけて再度告げた。お願いします、と。
 そしてシルヴィオはもう一つ同じものを、と注文をして、笑った。