41:兄として - 5/5

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 締まりのない顔しやがって。
 しかしスクアーロはそんな顔で可愛い可愛い、目に入れても痛くないほどに妹を構い続けているセオを横目で見ながら、苦笑い零した。そんな顔を彼がする理由も全く分からないでもないのだ。小中大、髪の毛の塊とセオとそれから犬が揃って遊んでいる姿を眺めていると、ここが暗殺部隊の本拠地であるという事実をうっかり忘れそうになる。何とも言えず微笑ましく、どちらかと言えば好みでない書類へと目を通しながらスクアーロは銀糸に笑みを飲み込ませた。
 その隣にブラックのコーヒーがカップに注がれ丁寧な仕草で置かれる。長い、腰のあたりまである髪を器用な動きで避けながら、スクアーロはコーヒーを置いた女へとイタリア語で礼を言った。
「Grazie」
「どうぞ、冷めないうちに」
 この女ももう随分と、というよりもすっかりこの場になじんでしまっている。スクアーロは東眞が初めてここに訪れた時を思い返しながら、コーヒーに口をつけ、添えつけとして差し出された林檎のクランブルケーキをフォークで頂く。
 母の来訪にいち早く気付いたのか、セオはぱっと顔を上げてマンマ!と満面の笑みを浮かべた。スィーリオに髪の毛を噛まれているラヴィーナの手を引っ張って母の下へと走り、そしてスクアーロが食べている皿をじぃと見つめてにんまりと嬉しげな笑みを作る。期待のこもった視線に、東眞はテーブルに置いたトレーの上、残り二つずつの皿とコップをセオとラヴィーナの前に置いた。髪の毛からひょいと手が伸びる。しかし、それがコップに伸びる前に、小さな子供の口からラヴィーナ、と手を伸ばした子供の名が飛び出た。
 セオはラヴィーナの小さな、紅葉のような手を柔らかに引いた。
「merenda(おやつ)の前には手洗いしないとな、ラヴィーナ」
「すっかりお兄ちゃんですね、セオ」
「そう?えへへ…。ほら、ラヴィーナ」
 母に褒められ有頂天になっているセオは頬をぽっと桃色に染めながら、小さな妹の手を行こうと引いた。それにラヴィーナは一度名残惜しげにテーブルの上のお菓子を眺めたが、大人しく兄の言葉に従い手を洗いに向かった。小さな背中が二つ扉の向こうに消える。
 スクアーロは二人の足音の最後を聞き終え、半分程ケーキを胃に収め、手にしていたフォークを皿に置いた。そして二人の子供のいた場所に今もまだその大きな体を横たえている犬が大欠伸しているのを視界に入れつつ、随分とと笑った。
「長くなるんだなぁ」
「何が、ですか?」
 夫の右腕である男の言葉に東眞は眼鏡の奥にある目を動かして問い返した。それにスクアーロは、てめぇがここに来てからだぁと息を吐いた。
「懐かしいなぁ」
「そんな昔を振り返るなんて、スクアーロも存外年を取りましたね」
「俺は生涯現役だぜぇ?俺の腕は、あいつを最強にし続ける」
 男としての誇りか、あるいは他の何かであるのか、東眞などには見当もつかなかったが相槌は一つ返した。それにスクアーロはそうだぁと笑い、話を少し巻き戻す。昔話を懐かしむ時点で俺も随分と年を取ったと思いつつ、スクアーロはぽつんぽつんと足音が聞こえ戻るまでの暇潰しがてらにでもと、話を零した。東眞からすれば、それは誰よりもXANXUSの近くにいる男からの視線の話で、酷く新鮮なものであった。
「あのボスが!突然何を思ったか、ぽっと出のてめぇを仏頂面で『俺の女だ』なんて言い出しやがったもんだから、空いた口が塞がらなかったぜぇ。俺の中じゃ今でも笑い話になる。その上!てめぇときたらボスの命令何食わぬ顔で断って椅子で窓ガラス叩き壊した上に、やってみました、だとぉ。今だから笑い話で済むが、ボスがあの時に気まぐれ起こしてなかったら、てめぇは今頃消し炭だったなぁ」
「これが運命のいたずらってやつでしょうか。でも、あの時はスクアーロも真っ青な顔して私に訂正を促したじゃありませんか」
「そりゃお前。消し炭にされた女の後始末すんのは誰だと思ってんだぁ」
「そうでしたね」
 それもそうだとあっさり納得しているあたり、この女もどこかねじが外れているのかもしれないとスクアーロは口をへの字に曲げた。いや、この女も考えてみればはなからこちら側の人間であったのだと思い直す。だからこその、現在までのあらゆる場面でのあの反応だったわけで。思い返すようにしてスクアーロはまた笑い、そしてコーヒーを再度口につけた。程好い苦さが口に広がる。それを緩和するように、甘いクランブルケーキを一口、舌の上に乗せた。
 白いカップの中を泳ぐ液体に目を細めながら、スクアーロは話を緩やかに続ける。昔話にふけるのもたまには悪くないと肩を揺らす。
「色々、あったなぁ」
「色々ありました」
 ぱたぱたと二人分の子供の足音がこちらに向かってくるのを耳にし、東眞は目を穏やかに微笑ました。
「子供にも恵まれて」
「餓鬼についても大騒ぎだったなぁ。尤も、今となっちゃ」
「酒の肴になりますか」
「笑い話だ」
 当人としては今も笑えないと東眞は口元に緩やかな弧を描いた。その背にどんと重たい体重がかかり、顔の両脇から子供の両腕が伸びてくる。母が我が子の名を呼べば、子は大層嬉しそうに顔をほころばせた。その隣でそわそわと髪の毛を揺らしている子供もそろっている。子供と言えど、中身は少しも見えない。黒い顔布だけが髪の隙間から時折覗き見える。セオを背に負ったまま母は小さな子供の長い髪に手を伸ばし、ものを食べるのに差しさわり無いようにと、髪の毛をその小さな女の子の口元が出るくらいの高さにまで結わえ上げた。長い顔布のために少女の顔は一切見えないものの、それでも髪の毛に食べ物や飲み物が付くということはなくなった。すこし捲れば、目は見えないものの小さな口がぱくりと覗く。
 セオはラヴィーナの手を嬉しそうに引くと、自分の隣に座らせた。銀色の髪の毛の隣に、淡い茶色の髪がすとんと腰を下ろす。少し前であればこんな光景を目にすることはなかったとスクアーロは思いつつ、セオが大層嬉しそうにラヴィーナの前に東眞がおやつにと持ってきたジュースとケーキを引っ張った。そしてケーキをいそいそとフォークで一口大に切り、ラヴィーナの口元に持って行った。尤も、その口は顔布で遮断されていたために、非常にちぐはぐとした光景になっていた。笑顔でケーキを差し出してくる兄に妹はどうしようかとうろたえているのは目に見えてわかった。右を向き左を向き、困ったように首を傾げた。顔布を上に少し持ち上げて食べさせてもらうのか、それとも自分でフォークを受け取り食べるのかどうかを迷っているようだった。
 東眞とスクアーロはそんな可愛らしい光景を眺め、顔を見合わせてほくそ笑む。ラヴィーナ?とセオは困っている妹に食べないのと続け、そして少し迷った後、ぱくりと差し出したケーキを自分の口の中に放り込んだ。そして、Buono!(おいしい)と笑う。本人は毒見のつもり、もしくは自分が食べて美味しいと見せれば、ラヴィーナも食べると想定していたのか、にこやかな笑顔をラヴィーナに向けた。だが一方、ラヴィーナは髪の毛の間から二つの小さな手を出し、小刻みに震えて見せた。余程自分の皿の中身を食べられたその衝撃が凄まじかったのか、震える小さな両手で一口食われたケーキの皿を掴む。体、もといその髪の毛を震わせケーキを髪の毛の中に覆い隠し、おいおいと震えた。声は一切あげられないのだが、その分ボディランゲージが豊かであるが故に胸を抉るような光景がその場に落とされた。セオと言えば、ラヴィーナがどうしてそうなったのか全く訳も分からず、首を傾げて喉を鳴らした。
「ラヴィーナ?ラヴィーナ?えっと、その、どうしたの?」
 悲しみに打ち震える妹を見て、セオは救いを求めるようにスクアーロ、そして母へと視線をやった。しかし二人は顔を見合わせるばかりで何も言ってはくれない。反対に楽しそうに顔を逸らして肩を震わせる。要するに、笑っていた。マンマぁとセオは情けない声を上げる。暫く瞬きを繰り返して、二人に救いを求めていたものの、それが差し伸べられないと察したセオはケーキを抱えて打ち震える妹に、ごめんねと咄嗟の謝罪を述べた。尤も許される様子は一切なく、髪の毛の塊はただただ悲しく震えるばかりである。
 必死に謝る様子のセオと悲しみに暮れるラヴィーナの様子が、多少の申し訳なさはあるものの、やはり面白く、スクアーロと東眞は顔をそむけたまま肩を震わせ笑っていた。だが、それは一つかかった大きな影に止むこととなる。東眞は顔を上げ、お帰りなさいと声をかけた。それに帰省者は返事をせず、スクアーロを一睨みするとその隣に座っているスクアーロを上から凄まじい眼光でもって睨みつけた。誤解を避けるため、スクアーロは慌てて手を振って否定する。セオと言えば、ラヴィーナに謝るのに必死でその場に一人増えたのに気付かない。
 だが。
「…ッ!!!!いっぅあ…!」
 容赦ない一撃が拳に込められ、黒い髪の上に落とされた。それはあたかもゼウスの一撃が如く。覚えのある衝撃にセオは涙目になりながら、恐る恐る視線を持ち上げ、殴った犯人を潤んだ瞳で見上げた。そして、震える声音でその名を口に乗せる。
「バッビーノ…」
 何をしているとばかりの眼光で睨まれ、セオはぶるりと背筋を震わせた。これは、と言い訳のために口を開く。しかしその前に、もう一度強く頭を殴られた。今度こそ殴った男の息子は机の上に潰れた。林檎のクランブルケーキは子供の顔に押し潰された。しかしそれも一瞬で、顔にケーキの断片をつけながらセオはすぐさま顔を上げた。そして非難めいた視線をXANXUSに送る。振り上げられた拳を今度は受け止めようとしたが、それが憤怒の炎を纏っていることに気付き、青褪めてそこから飛び退る。ソファの座る部分が焼け焦げた。
 XANXUSは震えるラヴィーナへと視線をやる。そして手を伸ばし、スクアーロの前に置かれていた、まだ半分ほど残っているケーキの皿を指先で動かし、震える髪の毛に移動させた。舌打ちが髪の毛の塊に落ちる。
「食え」
「う、う゛ぉお゛い、ボス。そりゃ、」
 俺のだと、そっと続けようとしたスクアーロにセオが飲みかけていたジュースをグラスごと投げつけた。宙を舞ったグラスは銀糸の男の鼻をへし折らんばかりに強烈な勢いでめり込む。反動に合わせ、絹糸のような髪が躍った。しかし、いくらその状況を美しい言葉で飾ろうとも、原因と結果はあまりにも間抜けなものである。どうしようもない。当然のごとく、一度は吹っ飛びそして落ちてきたグラスをスクアーロは片手で受け止め、上司に向かってがなり立てる。無論その反論がなされる前に、二つ目のグラスが飛んだ。セオはそれに、あ、と手を伸ばしたが少しばかり遅かった。ラヴィーナのグラスは見事に中身ごとスクアーロに激突した。言うまでもなく、中身は飛び散り、ソファと男を濡らした。
 丁度その時、髪の毛の塊が顔を、正しくは頭部に当たる部分を持ち上げた。隠されていた皿がひょっこりと顔を覗かせる。そして、その視線は養い親であるXANXUSに向けられていた。スクアーロと東眞は、XANXUSの行いがセオと全く同じであることを内々のうちに悟った。震える毛玉はいっそ憐憫の情すら催す。小さな手が、セオの時と同様にかたかたと微振動しながら、体躯のしっかりとした男に伸ばされている。スクアーロは膝の上に転がった空のグラスをもう片方の義手で持ち上げ、ちらと東眞へ視線を送る。新しく入れましょうかと言葉の代わりに視線で返したが、不幸にもその場にはジュースはなく、一度キッチンに戻らなければそれは手に入らなかった。
 XANXUSは伸ばされた手へと眉間に皺を寄せながら見下ろす。それにセオはひっそりと父親の服を引っ張り、囁いて呟く。
「バッビーノ…それラヴィーナのジュースだよ」
「…」
 息子の囁きにXANXUSは誰にも分からない程微妙に顔の筋肉を強張らせた。泣きわめいたりしないラヴィーナの震えはXANXUSの心に何かしらの影響を与えたのかは不明であったが、忌々しそうに舌打ちを盛大に鳴らした。ジュース一つで何をそんなにと腹立たしいのは、もとより堪忍袋の緒が短い男からしてみれば、ひどく単純なことであった。
 セオのジュースもラヴィーナのジュースも既にもうない。あると言えば、スクアーロの飲みかけのコーヒーのみである。もう一度舌打ちをかまし、XANXUSはセオが持っていた潰れたケーキに今度は手を伸ばすと、そのケーキをスクアーロのコーヒーにぶち込んだ。そして、傍にあったスプーンで乱暴に混ぜる。勿論溶けるはずはない。乱暴に混ぜたために、机の上に黒い液体が飛び散る。そして、その白いカップをラヴィーナの方へとずらす。中身は全く無残であり、思わず目を背けたくなるものだった。もはや嫌がらせの何物でもないように見えるのだが、東眞とスクアーロ、父親の性質を良く知っている人間からすれば、単に彼がラヴィーナのジュースを駄目にしてしまった対価として、甘いコーヒー、もといコーヒーにケーキをぶち込んだものをやろうとしただけに過ぎない。単なる気遣いである。それなりにラヴィーナのことを目にかけているようなのは、彼の今までの行動からしても明らかであった。時折、その方向性が間違っていたりする場合もありはした。
 ショックやらなにやらで震えも通り越して完全に硬直してしまったラヴィーナに、XANXUSは口を開き怒鳴り付けようとしたが、それに合わせるようにラヴィーナが動き始めて黒い男を見上げる。顔は一切見えないものの、顔布の動きによって自分を見上げていることをXANXUSは悟った。実際にラヴィーナの目を写真のみであったが、見たことのあるXANXUSはあの羊のような瞳孔が横に引き伸ばされた目を思い出した。そして、その視線が自分に向かって、純粋無垢に注がれているを感じる。非常に、居心地が悪い。開きかけた口を閉じ、舌打ちを鳴らして背を向ける。そして、おいとスクアーロにハンカチを貸したばかりの東眞に声をかけた。
「はい」
「飲みてぇ」
「…はい、今すぐ」
 その飲むの対象がテキーラなど酒の類ではなく、先程駄目にしてしまったジュースであることを悟る。では、と東眞は素直でない夫に続ける。
「XANXUSさんのものも持ってきます」
 そうしろともどうしろとも言わず、XANXUSはセオを蹴り飛ばし、呆然としているラヴィーナの隣に乱暴に腰を下ろす。セオは顔面から絨毯に突っ込んだ。機嫌の悪そうな養父をラヴィーナは横から矯めつ眇めつ、しかし暫くすると気が済んだのか、先程XANXUSが差し出してきたスクアーロの分のケーキを小さな手で鷲掴みにし、顔布の奥へと消した。もくもくと咀嚼に合わせて髪の毛の塊が揺れ動く。
 起き上がったセオはソファに落ち着いている、XANXUS、ラヴィーナ、それから既に拭いてはいるものの、ジュース塗れにされたスクアーロを交互に眺め、俺の座るところは?と要請した。そして、東眞が戻ってくると同時になされたその要求は、父親の一撃によって再度絨毯に飲み込まれた。飼い犬がふんふんと倒れ込んだ己に鼻を押し付ける様子にセオは少しばかりではなく、盛大に泣きたくなった。しかし最後は母である東眞がもう一切れ持ってきてくれたケーキに顔を満足げにほころばせた。

 

 ローガンは不機嫌そうに口をへの字に曲げていた。くそ、と悪態をついで手にしていた筆箱を教室の床に放り投げる。そんな子供の背中に、馬鹿ねと嘲笑うかのような調子の声がかけられた。ローガンはその宝石のような瞳を声のした方へと移動させる。するとその先には、同じように美しいアメジストの宝石が二つ、埋まっていた。
「…なんだよ、嘘つき女。言いたいことがあるなら言えよ」
「がきくっさい」
「なんだと!」
「言いたいこと、言ってあげたわよ?」
 ふふんと楽しげにイルマは口角を持ち上げて笑う。それにローガンは右側の顔面の筋肉を引き攣らせて拳を握りしめる。
「セオに相手されないからって拗ねてるんでしょ?ばればれよ」
「ばっ、馬鹿言うな!なんで俺があんないけすかない奴に構ってほしいなんて思わなくちゃなんないんだよ!一緒に遊びたいなんて思ってないんだからな!」
 思ってるじゃない。イルマは腹の底でそう思いながら、へえと軽く返すのみにした。鼻息を荒くしながら肩を揺らすローガンに、イルマは机に座ったまま、子供よねと煽るように言葉を連ねる。まるでその光景は演説でも聞いているかのようだった。
「成績も中の上でー運動神経もそこそこで?顔もそんなに悪くないし、友達だってたぁくさんいる。パパーはドンだし、マンマは美人。何一つ欠点のない自分の言うことを何一つ聞いてくれないやつがいる。あまつさえ!自分の誘いを断った。あんたのプライドずったずただわ?ローガン・ハワード。さっきのあなたたちもすっごく見物だった。ま、見物だったのは、セオじゃなくてあなただけどね、ローガン」
「…黙れよ、女のくせして」
「あーあー嫌だわ。そうやって二言目には女のくせにって。こっちの男はそんなのばっかり。セオは、違うけど?」
「あいつと俺を比べんなよ!」
「コンプレックスの塊」
「え?何?こんぷ…」
 小学生には難しい言葉にローガンは思わず聞き返し、しかしすぐに顔をこれ以上ないほどに真っ赤に高揚させて、うるさい!とイルマが何も言っていないのにもかかわらず怒鳴りつけた。その単語を知らないにせよ、それが皮肉をもって言われたことであることはローガンにも承知であった。
「こ、こんぷれっくすだろ!それくらいしし、し…知ってる!」
「そうなの。ところで、ローガン。あなた、今日は午後の授業も受けるの?マンマが家でおいしいケーキでも焼いて、待ってくれてるんじゃない?自慢の、マンマが」
「ま、ママを馬鹿にするな!」
「褒めてあげたのよ。勘違いしないで」
 嘘つけ。ローガンはイルマを睨みつける。口から出てくる言葉は八割以上信用のならない嘘つき女である。ローガンはイルマが嫌いであった。何かとセオにくっついて回っているのも気に食わないし、それをセオが邪険にしていないのも気に食わない。色々、ローガンにはよく分からないけれど、沢山ものが気に食わないのだ。腹が立って仕方ない。しかし、女に手をあげるのは立派なマフィアのすることではないと教えられたので、ローガンは拳を握るに留める。
 イルマは首を傾け、柔らかな髪を肩の上に乗せた。
「そんなにセオ嫌い?」
「きっ、きら、き……だい、だ、大嫌いにき、きまっ…」
「友達になりたいならそう言えばいいのに。今時、好きな子苛めるなんて流行らないわよ」
「セオなんか嫌いだ!まあ?あ、あいつが俺に友達にしてくださいって頭下げてやるなら、か、考えてやらないでもねーけどな!」
「ばか」
 夢見がち過ぎるローガンにイルマは一言そう言い、ひょいと机の上から飛び降りた。そして、平行線上にある怒鳴ろうとしたローガンの目を見た。まっすぐに、まるで感情の薄い瞳に見詰められ、ローガンはたじろぎ、数歩後退りする。ぐっと顎を引いた。
「なっ、なんだよ。やんのかよ」
「嫌よ。私がそんなことするはずないでしょ。セオにちょっかいかけるのやめたら?見てて面白いけど」
「何で俺がセオにちょっかいなんてかけなきゃなんねーんだよ。あいつがふっかけてくるんだよ!」
「ローガン」
 ねぇ、とイルマは冷ややかな声で、しかしうっすらと口元に笑みを刷いてクラスメートの目を覗き見た。くるりとした目にしたから見つめられ、ローガンは硬直する。それを楽しむようにイルマは喉を数度鳴らした。
「あなたって、私よりも嘘つきね。下手だけど」
 そう言うと鞄を片手に引っ掛けて、イルマはステップを踏むように扉へ向かい、そしてくるりと扉の枠を軸に回る。顔を覗かせ、ローガンにまた明日と笑った。明日も学校はあったろうかとローガンは呆然とする。そして、ポケットから響いた携帯の着信音にびくりと小さな体を震わせた。ポケットから携帯を取出し、電話をかけてきたのが母親だと知る。そして、口をへの字に曲げる。
 別に。
 ローガンはそう思う。あいつのママを馬鹿にするつもりなかったんだと。しかし、ちっとも言うことを聞かなくて、馬鹿にされているような気がして、口をついて出てくるのは、セオにとって一番弱い家族の悪口である。ローガンには他にセオを馬鹿にする要素がない。頭も顔も悪くないし、運動神経はぴか一である。友達がいないことを以前詰ったら、だからとどうでもよさそうに返されてしまった。
「…おればかじゃねーもん」
 友達のなり方なんて、分からない。ローガンは自分の靴を見下ろした。友達はなるものではなく、勝手によってくるものだとローガンは思っている。ローガンのパパーってすごいなとか、マンマ美人だなと誉めそやされたり、流行最先端の服を着ていたらカッコイイ!と目を輝かせてくれたりして。ゲームを貸したり、家にパーティーに呼んだり。そうしていたら、友達は自然にできていた。
 しかし、ローガンはその輪の中には銀朱の目をした少年だけがいないことにいつも気付く。その目を向けられるたびに、自分がひどく惨めになる。友達がいなくても、平気で毎日を楽しそうに暮らしているセオを見ると、とても悲しくなる。憎たらしくなる。ずるいと思う。楽しそうどころか、自分以上に満ち足りているように見える。ローガンは思う。自分が持っていて、セオが持っていないものは沢山ある。友達、おもちゃ、社交性など。それでもセオは少しも悲しそうに見えないし辛そうにも見えない。だから、ローガンはセオが嫌いだった。なんだか沢山のものを持っていなくて可哀そうに思えて手を差し伸べてやったのに、反対に、可哀そうな視線を向けられた気がしたような。そんな気持ちに陥った。セオが視界に入るといつもそんな気持ちに駆られる。
 ローガンはどんと椅子に座った。そろそろ午後の授業が始まる。
「セオなんて、大嫌いだ」
 友達なんてなりたくない。
 ローガンはそう呟いて、震えっぱなしの携帯にでた。ママの、優しい声が聞こえた。母の声を聞いた少年は、何故だか無性に泣きたくなった。

 

 ポケットに入れていた携帯電話が震える。顔に斜めに走る傷を持つ男は、眼前に座っている青年に一言、失礼しますと断ってからそれを取る。画面に表示された名前にさも不機嫌そうに眉間に皺を寄せたが、諦めたように通話ボタンを押すと耳を寄せた。顔は引き攣っている。言うまでもない。修矢はそれを隣で眺め、軽い溜息をついた。
「ご用件はなんでしょうか。田辺氏」
『手短に伝える』
 普段のような軽薄さは一切感じられない。哲は緊張感を全身に走らせる。自分が知っているこのシルヴィオ・田辺という男がこういう声を出す時は、全くよろしくない出来事の前兆である。何でしょうか、と哲は緊張感に満ちた声で答えた。
『手当たり次第だ、気を付けろ』
「…は」
『こっちも忙しい。じゃあな』
 ぶつんと電話はあっさりと切られた。哲の異変を察したのか、修矢は筆を止め自分の右腕へと視線を注いでいる。そこに障子をあけ、藤堂が茶を三つ持ってきた。茶菓子も盆に乗せられている。そして、藤堂は言った。
「戦争が、始まりますよ」
 その一言で、十分であった。修矢はただ静かに、頷いた。