41:兄として - 4/5

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 人を殺すしかない能。
 人を殺すためだけに作られた存在。話せば人の肉を破裂させ、見れば人の心を破壊する。何のために生きているのか。ただ人を殺すためだけに。殺人兵器と称した方が余程似合いの呼称である。XANXUSは純粋にそう思う一面を有していた。暗殺部隊の頂点に君臨する男は窓の上から、庭に転がっているまるで藁の塊のような物体を眺めて下した。
 その姿は異様、否、異形である。一度は目を通した記憶として残っている写真をもう一度呼び起こす。単純に引き出しから引き出せた記憶は、いっそ悍ましい結果であった。人の形、もっと言えば、人の子供の形をしているが故に相手に油断を生ませ、庇護欲をかきたてる。髪さえ切れば、それはまさにそういう存在だろう。おそらく髪を切らなかったのは、兵器として登用する前だったからに他ならない。ころりと庭で飼い犬であるスィーリオと戯れれば、遠目に見れば犬が干し草にじゃれているようにしか見えず、近くで見れば、小さな手足が犬の顔を物珍しげに触っている。殺しても構わない相手と、殺してはいけない相手を区別するだけの知能は十分に備わっている。尤も、スィーリオを殺せばセオは怒るのだろうが、それでいて殺されることはない。
 わん。犬が吠えた。どうやら足で尻尾を踏んだらしい。ころころと慌てるように遠ざかる。しかし、毛玉はそこで一度停止し、ころり。ぱたり。外界へと開け放たれた門へと近づいていく。出ていくな、という命令は下していない。能力を使用するな、と命令しただけである。だが、監視もなしで外に放り出すほどXANXUSもまた愚かではなかった。カス、と携帯電話を耳に押し当てて銀色の剣士へと命令する。喧しい、耳をつんざくような返答がなされるのは承知の上であったので、電話は声が返ってくる前に、ある程度距離を持たせておく。あのカスの声帯の方が余程人に害を与えているような気がして仕方がなかった。
『どうしたぁ、ボス』
 今から飯を食うところだと聞いてもいないことをわざわざ答えてきたスクアーロに、XANXUSは後程グラスと言わず酒瓶をプレゼントしてやることを決める。胃に、ではなく、頭に。直撃路線であった。
 今日はパスタだぜぇとやはり頼んでもいないことをべらべら喋る魚類の舌を引き抜いてやりたい気分に陥りながら、低い声で命令を下す。長年にわたる経験によって培われた勘か何かか、スクアーロは電話越しであっても、流石にそれの前兆は受け取り、先刻まで騒ぎ立てていた声をそっと抑え、Siと了解の返事をした。無論初めから、この部隊にはNoという返事は存在しない。
 持っていた携帯を閉じることで強制的に会話を切断すると、掌に収まるそれを机の上に放り投げた。くるくると回転しながら、机の端にある置き時計にぶつかって止まる。視界の端では、髪の毛の塊がそわそわとしながら、外界へと姿を消したのが映り、それを追うように、銀色の鮫がするりと塀を伝っていった。
 どこに、と、そう柔らかな声が響く。女は始めから室内にいた。ただ、言葉を発さず、穏やかに窓際で編み物をしている。
「どこに行くんでしょうか」
 ウンともスンとも答えず、XANXUSは東眞へと視線を動かす。編み棒の先から落ちているマフラーのような、それとも他の何かなのか、編み物に造詣が深くないXANXUSにそれは判別できはしなかったものの、しかし何かを編んでいることは分かるので、視線でそれは何だと問いかける。口を動かすのも、喉を震わすのも別段億劫なわけではなく、ただ、それで伝わるから男はそうしているだけであった。そして女もそれで良しとしていた。
 東眞は軽く編み棒を持ち上げて、落ち着いた色の毛糸を引っ張る。
「マフラーです。ラヴィーナの」
 あの毛玉の。そんなものをしなくても、十分に髪の毛で防寒は果たされているだろうとXANXUSは思いつつ、回答として軽く眉間に皺を寄せた。ふん、と短く鼻を鳴らす。
「髪、括っても大丈夫でしょうか」
「顔には布がかけられてある。それを捲りさえしなけりゃ勝手にしろ」
「長いからルッスーリアが喜びそうです」
 そんなものなのかと、XANXUSは東眞の話を聞きながら思った。髪の端につけてある鳥の羽などの飾りは俗にいうファッションの一つであり、それをすることによって自分を引き立たせることはしているものの、楽しいと感じたことはついぞなかった。XANXUSは楽しいのかと問うてみた。すると、眼鏡の奥の目の眦がすいと少しばかり下げられ、笑いの表情を作る。
「一緒にやりますか?」
「やらねぇ」
 馬鹿馬鹿しいとばかりにXANXUSはいつの間にか置かれていた紅茶に口をつけた。程好く美味い。窓の外を眺めながらカップを傾けていると、ふと耳にもしかしたらと小さな期待を含んだ声が響いた。
「セオを迎えに行ったのかも知れませんね」
「ああ?」
 訳が分からず、XANXUSは東眞へと少し声を荒げて問う。不機嫌というわけではなく、単なる習慣、もしくはただの癖であることを知っていたので、東眞は怯えることもなく、先程の言葉の真意を告げた。真意、というよりもただ昨日見た光景を口にするものではあったが、それでもXANXUSには十分理解できる内容のものであった。
「学校に興味があるみたいで。セオがいない時に教科書やノートを開いて眺めてましたよ」
 そんなことを言っても、あの人を殺すだけに作られた存在が学校生活など送れるはずもない。東眞もそのことは承知の上のようで、XANXUSに学校に通わせてくださいとは言わなかった。かの生物兵器がどうであるということは重要ではなく、その存在自体が問題なのである。
 刃物でもなんでも人を殺せる道具は日常生活においてどこにでも転がっており、それこそ濡れた紙一枚でも人は十分に殺せる。しかし、それは俗に言う「正しい使い方」をしていないから起こる現象であり、使い方さえ学べばそれと共生していくことはできる。だが、それは人を殺すことを目的に作られていない物体にのみ、通用する詭弁である。共生できないものも存在するのだ。誰が何を望もうとも。例えば、飼い馴らされたと言われたからと言って、ライオンを人の中に解き放ったりはしないだろう。確かに、飼い馴らされたライオンは人を殺さないかもしれない。しかし、人は彼らが保有するその圧倒的な暴力性を忘れてはならない。飢餓に追い込まれればライオンは人を食うだろうし、心底腹を立てれば人に襲い掛かる可能性は必ずしもないとは言い切れない。だから、その可能性を考慮して、人はライオンを自分たち人間の群れに放り込むことはしない。あの化け物も、同じことである。特に、あれは人の子供と姿形が酷似しているために、人の恐怖心を薄れさせる効果も持っている。牙を抜かれたライオンに見えても、顎の力は強力で、太い前足には鋭い爪もある。あれは、一瞬で数百の命を奪い取れる、ひどく温厚で、しかし凶暴な化け物だ。
 XANXUSは二口ほど飲んだ紅茶を皿に戻した。かちんと陶器がかち合って小さな音を立てる。塀を泳いだ銀の鮫の姿はもうない。東眞が見たという、セオの勉強道具に興味関心を示した兵器に何か、ABCの本でも買い与えてやろうかとXANXUSはそんなことを考える。家庭教師、VARIAに所属する人間であるのなら頭もよい。必要最低限のことを勉強させることはできる。一般の家庭教師など雇えば、一つ間違ったときに肉塊に変化する場合もある。情報漏洩の危険性も考える。一番の問題は、今現在あの髪の毛の塊のような生き物の知能が一体どれくらいあるのか、ということであろう。XANXUSは軽く喉を鳴らし、テストでもやらせてみるかとも考えた。おそらく、日常生活における最低限のことは教育されているとみて間違いない。そして言語能力の高さも有していることだろう。
 XANXUSは目を細めた。
 力の使い方を覚えれば。そんなものは幻想である。放射能を常にばらまいているようなものを箱に閉じ込めずにどこに閉じ込めておけばよいのか。声はともかく、あの目ばかりはどうしようもない。哀れな生き物だろう。
 それを愛してしまっている女がいるのだから、これもまた傑作だとXANXUSはその怪物のために毛糸の帽子だったか、マフラーだったかを編んでいる女へと視線を向けた。だがしかし、この女程に冷静で、ある意味残酷な人間もいないのかもしれない。あの化け物の危険性を全て納得した上で親としてあることは、つまるところ、責任を負うことを覚悟していることになる。我が子に向け、引き金を引くのを躊躇うことはないだろう。それはまるで、自身が息子であるセオの頭をぶち抜く覚悟をしているのと同じように。世間一般になら、非道と罵られる行為に違いないそれをする覚悟というのはなまじっかなものではない。
 どんな人間でも生きる権利はあるなどという綺麗事はこの世界では成立しない。だからこそ、どんな人間も生かすならば、生かすことを選択した人間には責任が伴う。それは酷く恣意的であると罵ることができるのは、暗闇の深さを知らない人間の戯言であるのをXANXUSは知っている。本来殺すべきであったが生かしたことによって殺された人間が出たならば。その殺された側の係累は。それを「どんな人間であっても生きる権利がある」などと言って許せるのは偽善者か、それともただの馬鹿か、笑える博愛主義者である。マタイ福音書のように右を叩かれれば左の頬を差し出しなさいなどという聖職者はこの世には存在しない。人の心というものは、それ程単純にはできていない。
 それもまた、この血を血で洗う世界に生きるものの定めであるか。
 こつんと、指輪が嵌められている指先で机を軽く叩き音を出した。その重さにXANXUSが何かを考えていることを悟ったのか、東眞は問いかけるのをやめ、そしてまたゆっくりと編み棒を動かし始めた。相互理解によって生まれた静寂な空間を、XANXUSは大人しく受け入れた。

 

 人の目につかない屋根を移動しながら、スクアーロは同じように裏路地をするするとごみを掃除しながら歩く髪の毛の塊を監視していた。監視していろ、手を出すなと命令されたので、それに従ってはいるものの、スクアーロはラヴィーナ、幹部連中はそろって上司が呼ぶようにラーダと呼ぶのであるが、を目で追い、そして気付かれないように気配を消して追っている。時折、路地の死角から飛び出してきた野良猫や溝鼠に驚いてかさかさ回っているのを見ていると、馬鹿と一声かけたくなるが、それはぐっとこらえ、大人しくその様子を眺めている。逐次報告はいらぬとも言われていたので、やはり眺めているだけであった。
 さて、とスクアーロは髪の毛の塊がゆるゆると本部から動いている方向に何があるかを想定して、ああと唐突に気付く。これは、裏路地を行ってはいるものの、セオの、彼女の兄が通っている学校がある方角である。命令されているからか、それとも自制しているかのどちらかは分からなかったが、幸か不幸か行く先に人肉が散らばることはなかった。尤も、そんなことになりかねない状況に陥れば、自分が割入り、あの兵器を一時機能停止に追い込むつもりは当然スクアーロの頭の端に刷り込まれている。監視とは、そういう意味である。
 やれやれと銀色の鮫は普段あまり泳がない太陽の届く浅瀬をひらりひらりと進みながら、まるで目でも見えないかの如く時折壁にぶつかって転げて進む異形を目印にしていた。彼女の視力はいまだ計測されていないが、あまりよくないのかもしれない。もしくは、あの髪の毛の奥にかけられている布のせいかもしれない。今度ボスに相談しておこうかとスクアーロはそんなことを考えた。
 そんなことを考えているスクアーロの耳に、からんと鐘の音が聞こえた。時計を見ればもう下校時刻である。わっと大小幅広い年齢の子供たちが扉から我先にと飛び出してくる。午後の授業は希望者のみであるから、多くのものは午前で帰宅して昼食を食べるのが一般である。
 ようやく裏路地からひょっこりと、地面に引きずりがちの髪の毛を随分と汚した塊が現れた。暗がりから現れために、まだ子供たちの反応はしない。ラヴィーナはそこで一度立ち止まり、あまりの子供の多さにおろおろとうろたえているようにスクアーロには見えた。VARIAに在籍している子供なぞ、セオくらいのものであるので、この反応は全く持って通常である。しかし、髪の毛の塊は一度止まった後、意を決したようにうろ、と動き始めた。学校の手前の道路を車が走り抜けた。また止まる。尤も、轢き殺されるような反射神経では断じてない。道路を渡り切り、正門に近づくと、流石に子供たちもその異様な生き物に気付くようになった。動揺がざわめきとなって広がる。とは雖も、あまりにも奇妙な、化け物染みた存在であるので近づく者はおらず、遠巻きに眺めているものがほとんどであった。だが、その中で、子供の輪を押しのけるようにして出てきた子供が一人いた。あの餓鬼は、とスクアーロは記憶の糸を手繰り寄せる。確か、ハワードファミリーの子供であったように覚えていた。あのセオを珍しくも激怒させた子供である。
 子供は一度屈むと足元にあった小石を拾い上げ、そして躊躇なく彼らから見た化け物に向かって投げつけた。ごくごく普通の反応だろう。好奇心の強い子供の行動は二つに一つである。一つは手にとって調べる。もしくは徹底的にいじめ倒す。そして、子供は連帯感が驚くほどに強い。一人が投げつければ、他の者もそれにつられるようにして抵抗を見せない化け物に小石やら小枝やらを投げつけ始めた。そんなものである。ラヴィーナは小さく蹲り、防御の姿勢を取った。
 事の成り行きを静観しつつ、いつでもラヴィーナを止められるように、スクアーロは全身の神経を研ぎ澄ませた。

 

 鞄を肩に負った時、セオはふっと校庭が騒がしいのに気が付いた。校庭の子供が一斉に集まっている光景はいっそ異様である。流石に興味を持ち、セオは窓枠に立って高い位置からそれを見下ろした。遊んでいるのではない。誰彼、皆手に足元の小石や砂、小枝を持ち、それらを中央に向かって投げつけている。目は良い。セオはさらにその中央を見た。浅い土の色と同化してしまっているそれを最初は見極められなかったが、セオはそれが何であるか理解した途端、戦慄した。
 ラヴィーナ。
 そして湧きあがったのは、周囲の人間が殺されるというそれよりも、もっと純粋な感情であった。俺の妹に。何を。
 セオは窓から飛び出し、校庭の地面を踏むや否や人ごみに向かって駆け出す。退け、と輪になっていた子供たちを押しのけてセオは苛立ちを募らせながら前へと進んだ。集団ヒステリー程恐ろしいものはないと、本部にある書籍を眺めながらいつものように思っていたが、まさかそれに近しいものを目の当たりにすることになるとは思いもよらなかった。は、と息を吐く。
「ローガン!」
 嫌がる妹の髪の毛を引っ張った少年の名を怒鳴る。黒髪の少年の突然の妨害に、赤髪の少年は一瞬怯えたように肩を震わせた。周囲が水をうったように突如静まり返る。セオ、と少年の口から言葉が発される前に、セオはラヴィーナの長い髪を掴んでいたローガンの腕を鷲掴み、その手のひらから妹の髪を落とさせた。放せよ、という言葉すら用いない。小さな、頭を押さえる両手が全てを物語っていた。寄って集って。
 ローガンはセオに捕まれていた手を振り払う。そして唇を尖らせ、くいと顎でセオが庇うようにして後ろに隠したラヴィーナを指す。
「なんだよ…そいつお前のなんかかよ。きっもちわりぃ」
「俺の、妹だ!」
 一瞬、その言葉に淡い茶色の髪がゆるく揺れる。しかし、セオの狭まった視界にそれが入ることはなかった。
 地面に唾を吐きつけた少年の胸座につかみかかり、地面に押し倒す。背中を強く打ちつけたローガンは、肺から息をぼっと吐き出す。感情に任せて腕を振り上げる。憎たらしい。手加減して殴ればいい。子供の、喧嘩をすればいい。自分はもう力加減を覚えている。セオは拳を軽めに握り直した。だが、その手は宙で止まる。
 腕に、触れる小さな手。
 後ろから伸びた小さめの手は、セオの腕を両側からそっと押さえていた。乱暴に振りほどけば、振り払えないそれではない。セオは、軽く唇を噛む。振り上げた拳をセオはゆっくりと解いて下した。殴ってみろよ腰抜け!と組み敷いたローガンが喚いているが、何故だろうか、もうどうでもよかった。しかし、ローガンはと言えば、そんなセオの態度に完全に苛立ちを覚えた。瞳が激昂で歪み、唇がめくれ上がる。
「はん!そんな気持ち悪いバケモンが妹だなんてな!お前のママはやっぱ出来損ないだ!」
「出来損ないだと」
 やはり半殺しにする。
 ある程度の感情コントロールはもうできる。マンマを侮辱された。いつぞやのように。NIPと貶められたあの時のように。セオは拳を握り直した。殺しはしない。それはしてはいけないことをセオは既に学んでいた。だからこそ、しない。しかし、許される範囲の暴力を加えることをセオは決めた。
 銀朱の瞳に灯った暴力的な側面にローガンは思わず自分の口を押え、失態を悟る。振り上げられた拳が振り下ろされれば、間違いなく鼻はへし折られる。咄嗟にローガンは両腕を顔面の前で交差させ、ぎゅっと目をつぶった。だが、衝撃は来ない。その代りに、柔らかな糸のような感触が顔、腕、知覚感覚の備わった組織に触れ落ちた。そして、セオは自分の胸と、そして押し倒しているローガンの体の間に割り込んだ小さな体に言葉を失くしていた。前か後か分からない。ただ、髪の毛の塊がちょこんと乗っている。自分に向けられているのが背中であると気づいたのは、その毛髪の塊の前方が軽くたわんだからであった。それは、ローガンの顔を覆い隠している。何を、と言いかけて、セオはふっとそこで気が付いた。
「ラヴィーナ」
 駄目だ、とセオは髪の毛の中に手を突っ込み、その細い腕を掴んだ。本当に、細い。培養液の中で育てられた、発育不全の体である。
「や、やめろよ!どけって!」
 足をばたつかせ、両手で顔の上を覆っている小さな体を退けようとローガンはもがいたが、小さな体から伸びた細い腕は服に皺が寄るほどにしっかりと掴んでいる。セオが掴んでいる右腕はその腕の細さとは対照的にびくともしない。痛い、とローガンの声が響く。もう片方の手でどうやら閉じている目の瞼を抉じ開けようと探っているらしい。周囲を取り囲んでいた子供たちは怖くなったのか、いつの間にやら逃げ出していた。
 ぱちん、と肌を叩く音が髪の毛の奥からくぐもって響く。開けないことに腹を立てているのか、それとも、自分の目を見ないことに腹を立てているのか。どちらにしろ、ラヴィーナに許可されている攻撃手段というのは、純粋なる打撃と、そして精神を破壊するそれのみである。
 断続的に響く肌を打つ音に混じって、う、うと嗚咽が響きだす。恐怖が臨界点に達した様子だった。泣きだせるあたり、まだローガンはラヴィーナの目を見ていないことでもあった。ラヴィーナが単独で来ているはずもなく、近くには監視役の誰かもいるだろう。死体を作ろうとしない限りは、彼らは現れない。しかし。セオはラヴィーナをその長い髪の毛ごと、背中から大きく抱きしめた。両腕を自分の腕で抑え込む。小さな背中はセオの胸の中にすっぽりと収まった。ローガンの顔を覆っていた髪が後ろに引き、顔に蚯蚓腫れを残した顔が覗いた。引っ掻きもしたようだった。
「ラヴィーナ。駄目だよ」
 何もわからぬまま人を傷つけることほど愚かしいことはない。そして、それこそ自分を損なうものもない。セオはそれを自らの経験からよく知っていた。退けって、とひときわ大きな声が上がり、ラヴィーナを抱えたまま、セオはローガンの上から尻餅をついて転がった。こちらを一つも見ないセオにローガンは唇を噛み、羞恥で顔を赤く染めると逃げるようにその場を去った。
 セオは小さな体をきつく抱きしめる。
「駄目なんだよ、ラヴィーナ」
 逃げ去った少年を追おうと動いていた足と手が次第に動きを止めていく。ぱたん、と緩やかに両手が脇についてようやく止まった。駄目だともう一言繰り返した時、上からかかった影に気付いてセオは顔を上げる。銀色の長い髪の毛が、まるで鮫の尾のようにまとまって揺れていた。
「スクアーロ」
「迎えに来たぞぉ」
 何やらあったみたいだが、と低い声がうなり、しかし小さく口元を笑みに添えると、セオが抱きしめているラヴィーナを抱えようと両手を伸ばした。だが、髪の毛の間から伸びた両手はセオの交差している腕をしっかりとつかんで離さない。セオが両手を放しても、その手に連れられるようにしてやはり離れない。スクアーロの伸ばされた腕を嫌だとラヴィーナは頭をふるりと振って拒絶した。そんなラヴィーナにセオは驚いたように目を大きく丸くした。そして、ちらりとスクアーロを見上げる。スクアーロはそれに、ゆるく笑うと肩をすくめて見せる。
「Congratulazioni, fratellone(おめでとう、お兄ちゃん)」
 その言葉に、兄と呼ばれた少年は視線を一度妹へと落とし、小さく表情をほころばせた。