37:子供の我儘 - 4/5

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 ようやく止まった車の扉を部下が開けるのを待てずにXANXUSは扉を蹴り破るようにして開け、そのまま履いていた革靴を鳴らしながら、床を蹴りつけて前へと進む。背中から追ってくる、XANXUS様という呼び声を無視して、扉の奥、そして廊下を駆け抜ける。軽く羽織っているコートが走る速度に合わせて前方から吹く風でざらざらと揺れる。
 遠い、とXANXUSは思った。玄関から自分が愛おしむ女の部屋がこんなに遠いと思ったのは初めてである。限界まで鍛え上げられている体は多少の運動では悲鳴を上げたりなどは決してしないのだが、普段よりも動悸が早い。任務中のどんな激しい動きにでも耐えうる心臓が、悲鳴をあげている。
 らしくもない悲鳴をXANXUSは無視した。
 はっは、と短い呼気が口から溢れるようにして零れてまた泡のように消える。まるでそれは命の泡のようである。一瞬で浮かんでは、一瞬で消えてしまう、そんな儚いもの。普段差し伸べられる腕は自分の腕よりも一回りも二回りも細く、指はやはり人を殺すことに長けてはいない指で男の指と比べると、すぐにでもばきりと折れてしまいそうである。視線はいつでも見上げてやってきて、凭れかかってくる体は小さくて軽い。それはきっと世間一般のどんな女にでも通用する様な事柄なのだろうが、それを強く感じるのはあの女だけなのである。
 あの女は容易く折れはしない。どんな亀裂が走り、全身に隈なく罅が入っても壊れることをよしとしないのだろう。だから、壊れる時は一瞬で壊れる。ゆっくりと壊れたりしない。本当に、一瞬で、刹那、瞬きほどの時間で女の体は崩れ落ちる。女が崩れ落ちるのは、そして崩れ落ちた破片が散らばるのは、きっと自分の躯の上であろう。それまで、女は罅割れぼろぼろになりつつもそこに立ち続ける。
 だがしかし、女がどんなに頑張ろうとも、ひび割れたガラスに指先が触れれば、やはりガラスは崩れるものである。一度衝撃が走れば一瞬で砕け散るその存在は、脆いのだ。きっと、女が思っているよりもずっと。大丈夫という言葉で覆い隠しても、それはただの詭弁にすぎない。
 は、と短い息を吐き捨てて、XANXUSは近づいた扉を無理矢理鍵がついていたとしても押し壊す勢いで跳ね開けた。
 視界に広がったのは、白いシーツに横たわる女と、その隣で悠然と立っている有色の男。普段であれば、起き上がって言われる言葉が、今日は寝たままの姿でXANXUSの耳へと伝わった。
「お帰りなさい、XANXUSさん」
 思ったよりも調子がよさそうなその声に、XANXUSはほっと胸を撫で下ろす。よかった、と、今心底そう思っている自分がそこにいた。ベッドの傍らに添えつけてある椅子に腰をおろして、白いシーツの中で、しかし思っていたよりも血の気の少ないその顔色に眉間に皺を寄せた。それに、そんな顔されないで下さいと困ったような答えが返ってくる。
 そこにシャルカーンが、何がデスカと溜息交じりの相槌を加える。
「死にかかッタヒトの言葉じゃないデスヨ。マッタク…次、ナンテ言葉、言わせないで下さイネ。ボスもJrの教育チャントしないとダメデス。兎も角、今日一日は絶対安静、忘れないでクダサイ」
「分かってます」
「…ソノ言葉、信じてもイイデスカ」
「確かに。セオを追いかけませんから」
 セオ、と言う単語に胸がざわついたが、東眞はそれを押さえこんで難しい表情をする。上から落ちてくる赤いルビーの色に、少しと断って口元の筋肉を動かした。
 シャルカーンは溜息を一つついてから、軽い音を奏でつつ部屋を出て行く。部屋には一人の女と一人の男、女の夫と男の妻が残って、緩やかな会話を互いの口から言葉を発生させることで成立させる。
「心配させてしまったようです。すみません」
「…死にかけたってのはどういうことだ」
 その質問に東眞は色々です、と曖昧に答えをはぐらかす。それを追求するようにXANXUSは言葉に僅かに苛立ちを含ませる。
「セオが、何か関係しているのか。あの餓鬼が何かしやがったのか」
「寂しかったんです。怒らないでください、ほんの少し、寂しいって思うくらいの我儘は許されます」
 許されるものか、とXANXUSは眉間に深い皺を寄せた。大体この部屋に立ち入ることは禁じていたと言うのに、入ったこと自体も拳骨ものである。さらに、母親の状況を鑑みずに何かをしでかして、その上この場にいない。子供と言えど、もうそろそろ自分が何をしているのか、また周囲の出来事も理解できる年頃なのだから、寂しいだけのそんな理由でこの女を死に至らしめることは、許されない。怒られるべきである。
 ぎり、と歯を噛んだXANXUSに東眞は困ったように目を細めた。
「幸い、私は生きてます。結果が全てです。私はこうやって生きていますし、あなたと話すこともできる。明日や明後日、あなたの声を聞いて笑って、セオを胸に抱きしめて、あなたの腕で幸せをうたうことができる。それで、いいじゃないですか。明日は、今日とは違うんですから。子供の小さな我儘くらい、聞いてあげましょう――――でも、」
 でも、と続け、東眞はその顔を僅かにくしゃりと歪めて、悲しげに笑った。
「産まなかったらよかったのに、は…少し、効きました」
 こぼれ落ちそうになった涙を指先で一つぬぐい、XANXUSは眉間に深い皺を寄せて溜息をつく。頬に触れた片手を元の落ち着く位置に戻して、ゆっくりともう片方の手と合わせた。そして、笑うな、とXANXUSは両の合わせた手をきつく握りしめて、目線を下に落とした。

 

 どこにいやがるとスクアーロはその小さな小さな子供の姿を探す。すると、そこで遠くからやはり犬の鳴き声が聞こえた。まさかなと思いつつ、スクアーロはそちらへと足を走らせる。そしてその犬がかりかりと倉庫の扉をひっかいていた。ちらりと犬を見下ろせば、犬はここだと言わんばかりに大声でわうと一声吠えた。
 セキュリティ認証が必要な部屋なので、流石に犬は一人で入れない。スクアーロは認証を済ませて扉を開くと、中に足を踏み入れた。その足をくるりとすり抜けるようにしてスィーリオは中に飛び込む。だが一見してもセオの姿はない。怪訝そうに眉間に皺を寄せたが、スィーリオが戸棚に前足をかけて、わおうわうんと上に向かって吠えた。それに合わせて目を上げると、戸棚の一番上、本当に子供一人が小さく丸まれば入れる程度の隙間、天井と部屋の突当りの戸棚の上の間にセオは膝を抱え込んで肩を震わせていた。
 上には目がいかないものだな、とスクアーロはそれを切実に感じつつ、Jr、と肩を震わせる子供に声をかけた。
「下りてこい。怒鳴ったりはしねぇから」
「…や、だっ。だって、マンマ…!マンマ、おれのこと、きらいなんだもん!」
 そんなわけがあるか、とスクアーロは思う。セオの母親も父親も、特に父親は愛情表現が非常に不格好で不器用なのだが、母親はセオのことを「本当に」慈しみ、愛おしいと心底思っていることは、スクアーロは知っていた。スクアーロだけではなく、VARIAの幹部は全員その事実を知っている。彼女は、冗談ではなく本気で命をかけてセオを産んだ。
 そんな彼女が、セオを可愛くないと思うはずもなく、また、それを差し引いても彼女はセオを愛していた。
 セオはそんなスクアーロの内情や、母親のことを知らずに言葉を涙声で紡ぐ。
「おれなんか、うまなかったらよかったんだ!」
「セオ!!」
 言っていいことと悪いことがある、とスクアーロは思わず、愛称ではなく本名で怒鳴りつけた。それに、ひくっとセオは銀朱の目を大きく見開いて、眼下のスクアーロへ怯えた目を向ける。だって、とその唇が困り果てたように震える。まだまだ自分の説を理論立てて説明できる年でもなし、さらに半ば衝動的な発言であったために、自分の弁護ができてない。
 だって、とセオはもう一度繰り返して、滅茶苦茶で支離滅裂なことを口にし始めた。
「だって…っマンマ、きてくれないん、だもん…っ!おれ、がんばったのに…!みんな、きてくれるって言ってたのに、どぉしてぇ?おれだけ、どーしてぇ…っ。スクアーロだって、ルッスーリっぁだって、きてくれるって、言ってくれた、のにぃ…マンマ、へやに、いるだけじゃん…っすわってるのに、どっして、だめなの…?お、れが、きらいだから、でしょぉ?」
 ぐすぐすともう涙で顔がぐしゃりとしているセオにスクアーロは溜息をついて、取り合えず下りてこい、と手を伸ばした。セオはその伸ばされた手にどうしようかと迷った後、ほらともう一度声をかけられて、ぐすぐすと泣きながら上から落ちてきた。それをスクアーロは両腕で抱きとめて腕に抱える。随分と、重くなった。
 セオはわんわんと泣きながらスクアーロの胸に顔を押し付ける。鼻水と涙が隊服についているであろうことを想像しつつ、スクアーロはまぁ仕方ないかと諦めた。足元では、スィーリオがはっはと舌を出して尻尾を大きく振っていた。そこでスクアーロは、スィーリオには東眞の番を命じていたことを思い出したが、どうせ東眞がセオを探すように命じたことは明白であった。この犬にとっての順位は、自分は東眞よりも下なのかとスクアーロは少しがっかりしながら、腕の中のセオへと視線を戻す。
「Jr、兎も角東眞のところへ行くぞぉ。てめぇが言わなくちゃいけねぇ言葉は何か分かってんなぁ」
「…やだ…行きたくない。おれ、行きたくない」
「我儘言うんじゃねぇ」
「だって、マンマ。こんどこそ、おれのこと、きらいになったよ。おれ、マンマに、ひどいこと、言ったもん」
「それくらいであいつはお前のことを嫌いになったりはしねぇから安心しろぉ」
 やだ、とそれでも縋りついてくるセオにスクアーロはやれやれと溜息をつく。父親にこれでもかと言うほどに怒られるのは目に見えているので、自分が叱りつけては立ち直れない可能性も高い。
 さてどうしたものかと考えていると、ココニ居ましタカと、独特のイントネーションが響く。セオのぼろぼろとこぼす涙を胸で受け止めながら、スクアーロはシャルカーンの方へと目を向けた。それに、シャルカーンはその腕の中で震えているセオへとその笑顔を向け、それからスクアーロへと目線を戻した。
「東眞サン、持ち直しましタヨ。マ、死にかけてまシタケド」
「う゛おお゛ぉ゛い、シャルカーン。言葉を選べぇ」
 セオがいるというのに、わざわざ死を連想させるような言葉を紡ぐ必要ない。スクアーロは眉間に深い皺を寄せて、シャルカーンの言葉を咎めた。だが、シャルカーンはさらに続ける。
「危なかったデスヨ?アナタがワタシを呼ばなかっタラ、誰も発見しなかッタラ―――死んでマス」
「シャルカーン!」
「マンマ」
 セオの震える声に、スクアーロはいい加減にしろ、とシャルカーンを怒鳴りつけた。だが、セオは既にその言葉を耳に入れており、それはもう返ることはない。あ、とセオはマンマと小さな声で繰り返した。
「マンマ、死んじゃうの」
「サァ」
「―――――マンマ!」
 非情な返答にセオはスクアーロの腕から飛び降りて、その小さな体で駆けだす。あっという間にその姿は部屋の中から消え、スクアーロはセオが飛び出した扉へと慌てて目を向けるが、姿は既になく、足音は遠い。ちぃ、と一つ舌打ちをして、スクアーロは扉に手袋をはめた手をかけ、そして銀色を揺らし、その瞳ではっきりとシャルカーンを睨みつけた。
「シャルカーン!てめぇ、言い方にもものがあるだろうがぁ!!」
「選びまシタヨ?ワタシハ」
 しれっとした様子が、スクアーロの短い導火線に火をつける。いい加減にしろ!と激しく大きな声が部屋全体を震わせた。しかし、その程度の声など聞き慣れているとばかりに、スクアーロの前に立つ男の表情が変化することは一切ない。糸のような目、逆三角を思わせる笑顔のその顔。それで、シャルカーンは言葉をそのまま紡いだ。
「いい加減ニ、するのはドッチデスカ?」
「な」
 笑顔であるが故に、言葉が冷たい。吐息すらも凍らせるような笑顔のまま、シャルカーンはスクアーロに告げる。
「甘やかしスギデス。アナタも東眞サンモ。死ぬところダッタンデスヨ。イツカ?ヤガテ?今、気付かなくてはならないコトデショ?子供の我儘デモ、限度がありマス」
「――――…あいつは、よく俺も知らねぇが、そんなに大した我儘言ったこともねぇ。そんな子供が小さな我儘一つ言って部屋飛び出して、今回のことは不運な偶然が重なっただけだろぉ。限度も何も」
「ソレガ、甘やかしてルと言うンデス。一つの我儘が全てを崩壊サセル。ワタシ、今のVARIA、結構気に入ってるンデスヨ。この空気、嫌いじゃないデス。ワタシはネ、スクアーロ」
 すいと近づいた顔にスクアーロは僅かにのけぞって顔をしかめた。
「ボスにとっての煩いは少なくしたいんデス。ボスは、ボスでなくてはナラナインデスカラ」
 子供が好きな、糸目で頭髪のない、アジアの服を隊服の上からきているという奇妙な男の言葉にスクアーロは返答を失って歯を噛みしめた。怒鳴りつけることもできるが、それは根本的な解決にならない。発言は間違ってはいない。だが、スクアーロには納得いかなかった。
 まだ、子供なのだ。
 そうスクアーロは思う。東眞がセオを膝の上に乗せて本を呼んでいる時、セオが母の足にしがみついて父親の拳から逃げている時、XANXUSがセオの寝顔に片手を乗せる時。そんな家族の瞬間に、スクアーロはどうしようもなく、安心する。あの男にも、安心できる家庭ができたのだと、気を抜くことができる場所ができたのだと。それは嬉しい。そして、セオが子供であることを享受しているその家族を微笑ましく思う。確かに、銃の使い方やしごかれている時はそうでないだろう。だが、所詮は子供で、母を恋しがり、父を誇りに思う、そんな年頃なのである。
 だから。
「…だが、あいつはまだ子供だぁ。餓鬼には餓鬼の歩き方があるだろうがぁ!」
 どん、とスクアーロはシャルカーンと肩をぶつけてそのままセオの後を追いかけた。その背中にシャルカーンはクスと笑い、それを長い袖元で多い隠す。そして足元で尻尾を振っている犬へと目線を下ろして、くすぐるような声で笑った。
「ドッチが父親か分かりまセンネ」
 アレデハ、と大きな袖がスィーリオの頭を撫で、それにスィーリオは鼻を持ち上げて、嬉しげにくすくすと鼻を鳴らした。

 

 ただ、とセオは思う。
 ただ、ほんの少し我儘を言ってみたかっただけなのだと。回りの全員が、皆皆両親が来てくれると普通に言うものだから、まるでそうでない自分が疎外感を感じて。愛してくれていないと思った。他の皆が、大好きだから来てくれると言っていたから。だから、母は自分を嫌いなんだと結論付けた。衝動的に。死ねなんて思ってない。大好きなのに、愛してるのに、もっともっと抱きしめて欲しいのに。
 躓いて転んで、セオはぐす、と鼻をすすった。そしてまた走る。
 セオ、といつだって優しく受け止めてくれたのに。セオ、といつだって名前を呼んで頭をなでてくれたのに。本だって読んでくれて、寝る前にはおやすみのキスを。起きた時にはおはようのキスを。美味しいご飯と美味しいお菓子と、たっぷりの愛情を。一人が怖い夜は一緒に寝てくれて、沢山の話を聞かせてくれて、元気な時には一緒に外に買い物に行ったり、散歩に行ったり、遊びに行ったり。大好きだって、いつもいつもいつもいつも、いつも、言ってくれていた。
 なのに。
 ごめんなさい、とセオは繰り返す。マンマごめんなさい、ともう一度繰り返した。繰り返し過ぎたせいで、いい加減に劣化しそうなほどに、それでもセオは心の中で繰り返す。大好きな大好きなマンマのために。
 そしてセオは、飛び出した扉を押し開けた。白いシーツに埋もれた母親とその隣で項垂れている父親の姿を、セオの銀朱ははっきりと映しだした。
「マンマ!」
 マンマ、とセオは項垂れて拳を握りしめている父親の隣までかけて、そして瞬間的にぞっと体を震わせた。赤い目が、怒っていた。全身が震えて、肌が暴威の恐怖を感じて鳥肌を立てる。一歩、足が後退する。XANXUSさんと東眞は男を制止する言葉を発したが、それは何の意味も持ちはしない。セオは、胸倉を大きな手で掴まれ、そして、瞬間的にはじけた痛みに吹っ飛んだ。どん、と小さな体が床に投げ出される。
「セオ!」
「寝てろ」
「XANXUSさん、殴らないでください。セオは、」
「寝ていろ」
 訴える東眞を見向きもせずに、XANXUSは凶悪とすら表現できるその面差しで小さな自分の子供を見下ろした。まだ白い乳歯が床に転がっている。セオは口の中に広がる血の味と顔を縛りつけるような痛みに涙をぼろぼろと流した。しかし、黒い影を作り出す父親の方がより恐ろしい。ひ、とセオは一つ上ずった声をあげて、尻餅をついたまま逃げるように下がる。
「―――てめぇは、自分が言ったことがどういうことか分かってんのか…!」
「ごめ、なさ、い、お、おれ、おれ」
「てめぇは!」
「ボス!」
 激しい怒声に首をすくめて、縮み上がったセオを守るようにスクアーロの声が割入る。スクアーロは強い憤りと怒りを孕んだルビーに一瞬気押されかけたが、ボス、ともう一度今度は緩やかに声を押さえて、セオとXANXUSの間に入った。
「そんなに怒ってやるなぁ。こいつだって、悪気があったわけじゃねぇ」
「退け、カスが。そいつは、やっていいことと悪いことの区別もついてねぇ」
「寂しかっただけだろぉ!餓鬼が寂しがるのがそんなに悪いことかぁ!そりゃ、東眞の体調考えられなかったのはあれだが、もう反省もしてるし、こいつは随分と苦しんだ。ボス、これ以上怒ってやるんじゃねぇ」
 転がっている乳歯に目を向けて、スクアーロは苦しげにセオを弁護した。だが、その後ろで、ごめんなさいと泣き声が響く。幼い泣き声が響く音に、スクアーロは首を回し、XANXUSは少しだけその怒りをさましながら、スクアーロの向こうにいるセオへと視線を下ろした。
 セオは両手で涙をこぼしながら、ただ謝る。
「ごめん、なさっい、ごめんなさい、ごめんなさい…っおれ、おれっマンマに、いてほしかった、だけ…で、こんなこと、なるなんて、思って、なくて、マンマ、大すき、なのに、だいすき、マンマ、大すき…っで…。みんな、マンマきてる、けど、おれだけって、マンマ、おれのこと、うえっぇっえ、ええ―――――ぇえ」
 とうとう言葉が通じない程に泣き出してしまったセオにスクアーロもXANXUSも言葉のやりどころを失う。セオは大口を開けて、涙をバラバラと落とす。口の端からは殴られた拍子で歯が抜けてしまったために血が流れていた。泣いている子供には敵わないのか、XANXUSも振りあげていた拳を下ろした。そして膝を折って、泣いているセオと目線を合わせる。スクアーロは二人が対面しやすいように体を脇に寄せた。
 XANXUSはセオ、とその愛しい名前を呼ぶ。セオにセオはぐすぐすと泣いて、落ちる涙を袖で拭いながら父親へと目を向けた。
「二度と、言うな」
「…ごめんなさ、い。も、言いま、せん。ぜったいに、おれ、言い、ません」
「てめぇの口が裂けても、言うな。あいつは、命をかけて、てめぇを産んだんだ。誇りに思え。てめぇを産んだ母を誇りに思え。―――俺が、殺せと言った命を、てめぇの母親は命をかけて守った。いいな、二度と、言うんじゃねぇ」
 言うかどうか、一瞬迷った言葉をXANXUSは躊躇った後に口にした。セオはそれに敏感に反応して、ゆるりと口を動かす。
「バッビーノ、は…おれが、うまれなかったら、いいと、思った、の?」
「あいつが、死ぬなら。生きて産まれるかどうかわからねぇ餓鬼の命と、今生きているあいつの命なら、あいつを取った。産まれなかったらいいとは、思ってねぇ。お前の誕生は――――喜んだ。嬉しかった」
 ぼつぼつと父親と息子の間で互いを確かめる言葉が交わされていく。スクアーロはそれを横で聞きながら、どんな気持ちで自分の上司がこの言葉を口にしているのだろうかと思った。それは、彼の過去故に。それを承知でこれを口にしているのだから、この男の心境は計り知れない。苦しいのだろうか、とそう感じる。
 XANXUSの言葉にセオは、軽く唇を噛んで泣くのを止めた。
「おれ」
 小さな手がぎゅぅとズボンの裾をきつく掴む。
「おれ、バッビーノ、大すき。だって、マンマがたいせつだったん、だよね、それ。おれ、バッビーノも、ほこりに、思う。マンマも、ほこりに思う。おれ、ごめんなさい。ごめん、なさい。もう、もうもう、わがま
 ま、と言いかけた声をベッドの上からセオと言う声が遮った。困ったような顔で笑っている母へとセオの銀朱は向いた。そしてXANXUSは何とも言えない苦虫を噛み潰したような顔をした。東眞は助力を請うような視線をXANXUSに向ける。それに最終的に溜息を一つついたXANXUSは東眞の元へと歩み寄り、体を横にするのを手伝った。東眞はそうなることで、長く伸ばせるようになった両手を、父に引っ付いてきたセオに伸ばす。
 伸びてきた手にセオは顔を下に向けた。情けなくて顔があわせられないと言った様子のセオに、東眞はセオともう一度声をかけて、やはり動かすことがまだ辛い体を一生懸命に動かすとその小さな体を両腕で包み込んだ。もうこんなに大きくなったのだ、と東眞は喜びで目を細める。
「いいんですよ、我儘くらい言っても」
「でも!」
「いいんです。それくらいの我儘なんて可愛いものです。それに、一緒に居たいって言ってくれないと、私も寂しいです。セオ、あなたを産めて、私は嬉しいですよ。あなたが私の子供で嬉しいです」
 一拍置いて、東眞はセオの体に寄りかかるようにして抱きしめる力を強くした。
「あなたを産めたこと――――誇りに思います」
「マン、マ」
 ごめんなさい、とセオは一度止めた涙をまたぼろりとこぼして、自分から母親にくっついた。マンマと泣き続けるセオに東眞はちらりとXANXUSへと目をやり、そしてその目を嬉しげに細めた。XANXUSはその笑みを視界に入れて、一度目を閉じ憮然とした面持ちでベッドの端に腰掛ける。のしりと重たい体がベッドの端にかかってベッドが僅かに揺れた。そしてXANXUSは東眞に抱きついているセオの首根っこをひっつかんで持ち上げると、ベッドの上へと放り投げた。
 セオはぽすんと尻餅をつくようにしてベッドの上に乗る。その足からXANXUSは靴を無理矢理引っこ抜くと、今日だけだとぶっきらぼうに告げた。
「寝ろ」
 父親の言葉にセオは目を大きく丸くし、そしてきらきらと輝かせて、東眞のすぐわき、布団の下に潜り込んで母親の体にひっついた。そして、嬉しげにひょこんとシーツから顔を出すと、東眞の胸に顔をうずめる。
「大すき!」
「私も大好きですよ、セオ。XANXUSさん、イタリア語の絵本、読んでくださいますか?」
 聞きたいです、と強請ったそれにXANXUSはまた一つ溜息をついて立ち上がると、すぐ左の本棚に置いてある薄い絵本を一冊、二冊手に取り、ベッドの端に戻った。そしてそれを一冊開ける。そしてもう一冊を右手に持って、容赦なくスクアーロに向かって投げつけた。吸い込むようにその本はスクアーロの顔面に激突する。悲鳴が上がった。
 そしてスクアーロは条件反射のように何しやがる!と怒鳴りつけようとしたが、それはXANXUSの言葉によって遮られた。
「いつまでそうしてやがる。出て行け」
「…そうしてやらぁ」
 家族の憩いを邪魔するのは無粋であることにスクアーロは気付いて、鼻を鳴らすと扉を後ろ手に閉めて部屋から出た。出る直前には、自分の上司の低い声がたどたどしく、絵本を読むそれが耳に届いたのだが。