34:Buoun Compleanno - 8/11

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 椅子に男が座っている。座った男は縄で縛られている。しっかりと縛られ、椅子に括りつけられていた。そしてその椅子がある部屋は薄暗く、そして固い、フローリングや畳などではない床、金属でできた床で構成されていた。天井から吊るされた、壁に立てかけられた、床に置かれた、一般人が見てもそれが何であるのか、どことなくわかるような血の臭いをこびり付かせた拷問器具は、薄暗い明りの中でぼんやりと立っていた。
 椅子に縛られた男は気を失っているのか、はたまたはじめから気付いていないのか、ぐったりとした様子で首を垂れている。
 ガラスの目の男はそんな男の様子を眺めながら、ふい、と一つ息を吐いた。そのごつりとした指先には、糸目の男から預けられた細い笛が一つおさまっている。ジェロニモはそれを口に添え、すぅと息を吸い込む。しかしその吸い込んだ息を笛へと吐き出すことはしなかった。そして、ふと部屋の時計を眺め、そして腹を片手で押さえる。
「――――――…長丁場になりそうだねい…腹ごしらえ、しとくかい」
 腹が減っては戦はできぬ、とジェロニモは持っていた笛を机の上にことんと置いて、そしてその部屋を出て行った。

 

 ふと東眞は愛しのパソコンに頬ずりして止まない男へと声をかける。あの、とかけられた声にジャンはふとそちらを振りかえる。愛する者との行為を邪魔されたことに少しばかり眉を顰めてはいたが、そこまで不快には思ってはいない様子で、東眞の問いかけにはきちんと答えた。
「結局、何をされたんですか?」
 東眞の言葉が先程の行為を指している事実には十分理解が及ぶのか、ジャンはああとうっとりとした様子で愛すべき彼の愛人の自慢を始めた。いっそ異常とも呼べる彼の仕草や行動が幾ら不自然であっても、もはや慣れたものと周囲の人間が彼が本題に入る前の要らない修飾語は流して聞いた。無論それは東眞も例外ではなく、自身のパソコンを褒めたたえる部位の言葉だけは綺麗に聞き流す。
 と、まぁとジャンは思う存分彼の愛しの人、ニコラ(もといパソコン)を褒めたたえた後に本題にはいる。
 全く長い前置きであったが、彼が地下室から出てくること自体まれなので、このような惚けを聞くこともそうそう多くはない。
「Jrの声紋チェックをしたのさ。その情報を、ここ本部の認識チェックがなければ入室できない個所にインプットさせた。勿論このイザベラからニコラに情報を送って、そこから僕のニコラがそれ以降の作業を全て彼女自身で行ったんだけどね。
 ここは基本『生』の声とそれから身体チェックを上部監視カメラで同時にチェックして、本人確認をしてるわけだ。ああ、これも勿論麗しのニコラがしてるんだけど」
 ニコラ、という単語が出てくるたびに、ジャンは恍惚とした表情で体を震わせる。これが町中であれば、ちょっとした変人扱いである。幸いここは街中ではないのだが。ジャンの説明を聞かずとも理解しているXANXUSは(尤もこの贈物を考えた張本人であることも手伝っている)椅子に深く腰掛けて、ワイングラスを傾けていた。
 長々しい賛美の言葉を聞くのにもいい加減耐えかねたのか、スクアーロが分かりやすく言えぇ!と怒鳴りつけるが、ジャンは失礼だなと鼻を鳴らすに終わらす。そして、また華麗なる言葉を彼の彼女につけながら話を続けていった。全く煩わしいことこの上ない。
「で、だ。ニコラがその作業を済ませたから、奥さん、君の子供はここ本部の今までは入れなかった個所はどこでもはいれるようになっている。ちなみに奥さんの声紋等は既に取っているから、どこでも入室可能なのは一緒だね。Jrが今までは入れなかった部屋は結構あるんだよ。
 例えば重要資料室、それから隊員の訓練室、これに準じて個々の部隊部署にも今までは入室不可能だった。それに武器庫。Jrが今まで可能であった移動範囲は来客用の部屋と一般仕様の共同場しかない。つまり、VARIAの本質に触れる機会は今までなかったのさ」
 後は、とジャンは周囲を見渡して、面識があるかどうかは知らないけれどと前置きをした。
「ジェロニモ率いる拷問部隊の部署。あそこは凄まじいからね、色んな意味で。まぁ、俺でも、あそこに好んで足を進めるのはちょっとした変人じゃないかと思うよ。苦痛に満ちた断末魔と懺悔の響きのメロディーを聞きたいならば、お勧めするけれども。尤も奥さんがそんな趣味の持ち主だった記憶は、僕にはないけれども」
 薄い笑いを浮かべながら、ジャンはそう括った。そしてその空いているほうの掌で、座っているセオの頭をポンと撫でた。それにセオはきらきらと目を輝かせて、嬉しげに眼を細めて笑う。無邪気だ、とジャンは嗤う。
「この子は、これからどう成長するんだろう。僕たちの本質に触れて、それから後もこうやって無邪気に笑い続けていられたならば、それはすごいことだよ。そして僕は同時に思うね。その中でなおも笑っていられる、そんな少年になれば―――――――――彼は立派なマフィオーゾになれるって。奥さんは反対かい?可愛い可愛い息子が俺たちの仲間になるのは、そんなに嬉しくないかい?腹を痛めて産んだ子供が
「やめろ」
 低い声と赤い瞳の制止にジャンは語り続けようと、止まらなかった話をそこで止め、Siボスと了承の意を示した。そして、言葉を失っている東眞に、ごめんね奥さんと朗らかに笑う。東眞はそんなジャンの言葉に、一拍置いてからいいえと答えた。
 言われずとも、既にそんなことは理解の範疇ではあった。無論、言われて、さらに圧し掛かる事実でもあったが。
 セオは立場的に修矢とよくよく似ている。ただ一つ違うことと言えば、セオには周囲に己を理解する人間がそろっていると言うことである。心を閉ざす必要もなく、ただあるがままの己であれるだけの時期を彼は確実に過ごせる。自分、を確立するだけの時間は間違いなく用意されている。自分が形成されず、ただ迷い、周囲の評価の中だけにしか存在できなかった修矢とは違う。
 思考の中に身を落として目を細めた時、セオの、ね、という幼い声が響く。その小さな存在は、ジャンの長くたれさせた隊服の端を掴んでくくいと引っ張っており、期待に満ちた目をそちらに向けていた。
 ジャンは、なんだいと肩をすくめて眼鏡の奥で楽しげな表情を作る。子供は嫌いではないらしい。それにセオはあのね、と返した。
「ニコラってきれい?マンマより?」
 何てませた餓鬼だ、とスクアーロはその台詞を聞いた瞬間にそんなことを思った。だがそんなスクアーロたちの心情など完全に無視をして、ジャンは勿論さ!とさも当然のように(彼の価値観に添えば、無論それは当然の事実である)身振り手振りを加えて演説を始めた。
「ニコラに勝る女性などいないよ。あの魅惑的な声、そして黄金律さえも思わせる見るもの全てを惹きつけるボディ!さらに誰にも負けない聡明な頭脳を持ち合わせ、慈悲深く、かつ笑顔までも朗らかで美しい…まぁ、まだ幼い君には分からない次元の話さ」
 幼かろうが幼くなかろうが、誰がお前の心境が分かるものかとスクアーロをはじめとした幹部は見事にその意見を一致させた。電子的な機械音、角ばった無機質の直方体の一体どこにそんな魅力などを感じろと言うのか。土台無理な相談である。
 だがセオはそんな熱狂的なジャンの演説に、頬を赤らめて、すごいと一言感想を漏らした。全く綺麗に騙されている。そして東眞の服を引いて、きらきらとその目を好奇心に輝かせながら、小さな手でジャンを指差した。
「マンマ。セオ、ニコラみたい!」
「…ちょっと、涎を垂らす子供を僕とニコラの愛の巣に招き入れろっていうの…?」
 セオの反応にジャンは先程の熱演はどこに行ったのか、かなり嫌そうな顔をする。
 彼にとって子供と言うものは埃と汚れの塊、つまるところ、彼の愛しのパソコンたちの天敵に他ならない。だがしかし、愛の巣というのはいくらなんでも言い過ぎではないだろうかと、場にいた人間は、彼の完全に統制された地下室を思い浮かべながらぞっとした。
 XANXUSはセオをちらりと見やり、そしてジャンのほうを見た。その口元にはうっすらと笑みが浮かんでいる。普段の無理難題染みた要求をのまされているので、そのあたりの報復とばかりにXANXUSはいいだろう、と口元を歪めた。上司の了承にジャンは悲痛な悲鳴を上げる。ボス!と悲嘆にくれた声はいっそ哀愁さえも誘うものであった。
 は、と男は高慢染みた笑いを鼻から漏らし、そして丁度いいじゃねぇかとオレンジ色の男へとその真赤な目を向けた。断ることのできそうにない頼みにジャンは深く深く溜息をついて肩を落とした。
「てめぇの自慢のニコラが本当にこの餓鬼を通せるのかどうかもチェックして来い」
「ボス、僕のニコラに失敗なんてありえない!」
「うるせぇ、ぐだぐだ言わずに連れていけ」
 ついていけ、とXANXUSはセオの背中を小突いた。それにセオは目を眩しいほどに輝かせて、ジャンの足にぺったりとしがみつく。それにジャンは最終的に諦めて、仕方ないとこれ以上ないほどにがっかりした。しかし思いだしたように、付け加える。
「ジェロニモも丁度最中だと思うけど、見ても僕は責任取れないよ。ボス」
 ジェロニモ、という単語にXANXUSは目を細めて、そいつの責任だときっぱりと言いきった。そんな対応にジャンは、それならいいんだけどねと一言返してから、セオの先を歩きだした。足の長さと速度の関係で、セオは必死でついていく形だが、ジャンも時折足を止めて待つ。微笑ましい、とは少しばかり言い難い光景にその場は何とも言えぬ失笑で包まれた。ぱたんと扉が閉ざされる。
 やれやれという笑い声が部屋にこぼれたが、それは低い声によって一蹴される。声の持ち主へと周囲の視線が集中し、そして言葉の真意を一瞬だけ探った。
「出ていけ」
 主役もいねぇと取って付け加えられたような言葉に周囲はざわと僅かにざわめいたが、その言葉に逆らう理由もないので一度スクアーロたちは顔を見合わせ、そして部屋を出ていく。子連れの男もデハ行きまショウカ、とその小さな子を腕に乗せたままその部屋を出て行った。
 東眞もよくわからずに部屋から出ようとしたが、その腕を強い力で掴まれ、引き止められる。ソファから伸びている手が、痕が残りそうな力で服の下の腕をしっかりとつかんで放さない。
 東眞はあの、と声をかけようとしたが、それよりも先にルビーの瞳が動いて、厚めの唇が、てめぇは残れと命令する。そして未だ佇んでいる自身の養父へと赤い目が向けられた。その真意を、ティモッテオは承知しているのか、私はと緩やかに口髭を動かした。
「そろそろボンゴレ本部に戻らなければ、ね。家光にも実は無理を言って来ているんだ。ああ、そうそう東眞さん。セオが私のプレゼントを開いたところを是非ビデオにとって、郵送してくれないかい?あの可愛い顔がほころぶ瞬間をおさめた一生の思い出が欲しいんだけれども…」
 駄目だろうか、と優しげな笑顔で言われて、東眞は分かりましたと了解の返事をした。それにティモッテオはGrazie milleと老いた顔に皺を寄せて喜びを表現する。そして、他の者同様部屋から出ていこうとして、ふとその動きを止める。立ち止まったティモッテオの背中に赤い目が向けられるが、ティモッテオは一言、XANXUSと呼びかけた。
 机の上に未だ並べられている料理はもう随分と減っており、声が充満し、反響するだけのスペースは随分と広がっていた。呼ばれた名前にXANXUSは返事こそしなかったが、目を動かすことで聞いているのを示した。ティモッテオは我が子の反応を確認した後、ゆっくりと扉を押して、廊下へと通じる隙間を押し開ける。
「お前に、任せるよ」
「―――――――当然だ」
 東眞とXANXUS、二人を残して消えてしまった気配にXANXUSは前の椅子を指して、座れと腕を放して命じる。よくよく分からないまま、東眞はその指示に従ってその柔らかなソファに腰を据えた。
 十分な間が開けられ、そしてXANXUSは口を開いて会話を始めた。
「これで、セオは、俺たちがどういう存在かを身をもって体験していく」
 セオ、と珍しく名前を呼ぶ父親の姿に東眞は真意を測りかねる。ただ、XANXUSが言っていることは、十分に理解できている。今回渡した、彼からセオへのプレゼントはまさにその象徴であったに他ならない。
 黙って続きを待っている東眞にXANXUSはワイングラスを机の上に置いて話を続けた。喉仏が声に合わせて動く。
「それから身を守る術を教え込んでいく。反射的にできるまでに。そして俺たちがどういう存在で、どうあるべきかを、言葉にせずとも身につけさせていく」
「選ぶのは、セオです」
「自己選択ができるまでの成長期間に俺たちが教えるのは、名誉ある男がどういうものか、だ」
 それはつまり、セオが選べる範囲が酷く狭められていることを意味している。約束が、というよりも以前言っていたことと話が違う、と言いかけたが、そうではない。彼は、XANXUSは以前から「そう」言っていた。
 自分たちが、名誉ある男が、コーザノストラがどういうものか、というのは。
 どういう意味か分かるな、と口にせずとも問われているのは東眞の耳に届いていた。
 決して決められたルートではないにせよ、ほぼそのルートで育てられていくと言うのだけは間違いがない。それは悲しいことなのだろうかと東眞は思う。自分の義弟は、一本道でそのようになるように育てられた。けれども、(途中紆余曲折あったものの)彼は彼の成長に誇りを持って生きている。そして東眞自身も、それを認めている。
 しかしながら、修矢の場合は、彼が最終的にそれを「自ら」選択している。セオの場合はどうか。東眞にはまだ分からない。セオが、将来どの道を選択するのかは、分からない。
「それでも、セオに選択権はあるんですね」
「ある。あいつが、この道で生きていけないと判断され、判断すれば、あいつはこの世界にもはや一歩も近づくことは許されねぇ。ただし、一度でも足を踏み入れれば、選択をすれば、変更はねぇ。一度だけの選択権だ。選択をすれば、それっきりだ。後は、立派なマフィオーゾになるか、それか、一般人として生きるかのどちらかだ」
 夫の言葉に妻は顔をあげて、その赤い瞳をまっすぐに見つめる。まっすぐな、どこまでも対等さを求めてやまないその瞳に、赤い瞳が僅かに細められた。
「セオがもし、一般人として生きていくと決めたならば、XANXUSさんはその背中を一緒に押してあげてくれますか。蔑むことなく、息子を今後も大切に思い、同じように接してくださいますか」
「俺たちは、
「XANXUSさんは、どうなんですか」
 コーザノストラの男としての返答をしようとしたXANXUSの言葉を東眞は遮ってはっきりとそう告げた。あなたはどうなのか、と。
 自身の意見を求められて、XANXUSは一度面食らったように顔をしかめたが、背中をソファにしっかり埋めて、長く息を吐き出す。たった一つの呼吸であると言うのに、その呼吸はひどく長いようにすら感じられた。喉が息を吸い、そして吐き出される。
 東眞はXANXUSの言葉を黙って待つ。以前からの傾向だが、思考することをはさむと、XANXUSの返答は随分と遅い。だからと言って、答えをせかすように口を開けば、すぐに口を閉ざしてそれ以降は何も言わない。
 赤い目が、思考を終えて、深い、もはやほとんど黒に近い灰色へと向けられる。
「――――――――――――当然、だ」
 長い逡巡の後、吐き出された言葉に東眞は心底ほっとする。しかしそれで、男の話が終わったわけではなく、切られた言葉の後にさらに言葉は続けられた。
「だが、覚悟しておけ。もしも、セオがこの世界を捨てた時、それ以降であいつがこちらのことを一言でも口にした場合」
 す、と息が吸われ、そして赤い目は驚くほどに冷たい炎となる。

「あいつを殺すのは――――――――――――――俺か、てめぇだ」

 その覚悟はしておけ、とXANXUSは東眞に告げた。
 伝えられた言葉の重みに、東眞は自身の服を強く強く握りしめる。唾を飲み込んで、すぅと顔を上げた。
「あいつが、こちらに来てインファーメのカスにでも成り果てたら、俺が、殺す」
 てめぇにはやらせねぇ、と言外に告げて、XANXUSは口を閉じた。そして今度はこちらの、東眞の対応を待つ。何を言っても変更のないことではあるのだろうが、それでも答えは聞いておこうという姿勢が見て取れた。東眞は一度深く息を吸い込み、その瞼の裏に目をつむれば簡単に思い描ける愛し子を見た。
「あの子がどの選択をしても、私はセオの背中を押します。成長した時に、それを決定できる時に決めるのはあの子であって、私ではありません。それまでの教育方針は、セオの身を守るためには必要不可欠だと私も思います。周囲に守られても、最終的に自分を守らなくてはならない時は、来るかもしれません。そのための予防線として、XANXUSさんの行動に口は出しません。ただ、」
 ただ、と呟かれた言葉をXANXUSは黙って待つ。東眞は一拍置いてから、顔を上げた。
「ただ―――――セオを、セオとして、見てあげて下さい。貴方が組織するものにいずれ入るかもしれない者、としてではなく。勿論訓練を施す時に、そう言った目で見るのは仕方がないと思います。それでも、それ以外の時は、父親として、接してください」
 単純であって、最も難しい事。それは自分の義弟に最も枯渇しており、そしてそれがなかった故に、一番苦しんだ事実。
 妻の言葉に赤い瞳がゆるりと細められ、閉じられた。ワイングラスをごつりとした指先が掴み取り、喉へと紅玉の液体を胃へと注ぎこんだ。それが全て食道を通り、胃におさまった後、XANXUSは空になったグラスを机に戻す。そして、ああ、といつものように短い返事をした。
 空になったグラスに、東眞は透ける深い緑のボトルから紅玉のワインをとろりと注いだ。