34:Buoun Compleanno - 2/11

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 一番恐ろしいこと。恐ろしいことは、存在しない。恐怖することもない。怯えることもなければ、涙することもない。そういうくだらない感情は、全て捨ててきた。焼き捨てた。
 ただこの胸に残るのは、苛烈な怒り、という感情だけ。
 そこに、何かが落ちてきた。上から降ってきた。暖かく包み込まれた。落ちてきた女は俺が必要ないと思って投げ捨てて、踏み躙ったものを丁寧に拾い上げて、今もそこに立っている。
 だから、
 女が隣にいる時、俺、は今更ながらに不必要なものを受け取って、それらの感情を示すことができる。女がいなくなれば、それは女と一緒になくなるものであり、そして消えてしまうものであるから、自分はまた必要なものだけを持って立っている。
 無論自分にとって不要なものだけを持っているだけ女なのだから、それがなくなったところで、不都合は一切生じない。生じないのだが、女は自分の側にいて当然であるし、側にいないのもまた、不愉快である。
 そして、自分にとって当然の女は嫌いだとのたまった。血に振り回されるのは馬鹿らしいと。自分はまさにその中心にいた人間である。完全に振り回された。欲しいものは決して、何をどう頑張っても手に入らない。この身に流れる、血、というただそれだけの全くもってくだらない理由のせいで。努力も何もかも、それの前では無意味になった。
 話さなくても構わないと以前言っていた。言いたい時に、伝えたい時に、それでいいといった。目の前の自分で構わないとも言っていた。だが、それでも伝えておきたいことではある。そして聞きたいことがある。その答えは聞かずとも、想像できるものだが、声にして口にして言葉にして聞いておきたい。
 男は女と違って、目に見えない耳に聞こえないものは信じない合理的な性格なのかも、しれない。

 

 おい、とXANXUSは椅子に座って本を呼んでいた東眞に声をかけた。それに東眞ははいと返事をして本から目を離して、名前を呼んだ本人へと視線を向ける。食べ終わったアップルパイと飲み終わった紅茶に気付いておかわりですかと声をかけようとしたが、どうにもそういう雰囲気ではないので口を噤み、待つ。
 まるで電話のようだと東眞は思った。目の前の男性は、呼びかけの後、一拍二拍逡巡してから言葉を発する。何かを選ぶかのように。
 呼びかけの後、十数秒というたっぷりの時間を置いて、男の口から漏れ出たのは、深い溜息だった。それでも女は男の言葉を待つ。目の前の男が、自分の愛する夫が、何かを言いたいのは重々に分かっていたから。
 名前を呼ぶでもなく、呼びかけの言葉をかけるでもなく、ただ一本の空気だけが二人の間に残っていた。そしてXANXUSはごとんと机の上に一つの武器を置く。人の命を奪う武器。Xの、自分にとってはある一種のトラウマとも呼べるべき文字を置いた。
 黒く、そして赤く重たい拳銃はごつりとした手の下に敷かれている。東眞の目は、それを静かに見ていた。
「いつか、」
 そうXANXUSの唇が動いて音を紡ぐ。その声があまりにもどこかに心を置き忘れてしまったような声で、東眞は声を反対に失う。それに気付いているのかいないのか、XANXUSは緩やかに肺を動かし、喉へと空気を通し、舌と唇と、それから歯で言葉を作りだした。
「――――この部屋には、盗聴器も監視カメラも、ねぇ。今は誰も部屋に寄せつけてねぇ。そして俺は今からてめぇに話をする。どういう意味か、分かるか」
「机の上に、銃を置いて、ですか」
 想像以上に冷たい声にXANXUSは一瞬眉を顰めた。しかし、すぐにそれを冷静な顔に戻すと、そうだと答える。
 ず、と銃が真っ平らな机の上を滑り、引き金の上にまっすぐに伸びた人差し指が置かれた。トリガーには掛けられていないが、男の力をもってすれば、それは、あ、という間も必要とはせず銃弾が銃口から飛び出すことは容易に知れた。
 赤い目が黒と灰色の中間色、どちらかと言えば黒に近い目を見て、もう一度そうだと繰り返した。
「俺は銃を突きつけられたくらいで意見をころころ変える女を妻にした覚えはねぇ。銃で撃たれたくらいでてめぇの言葉を翻すやつを自分の女にした覚えもねぇ。命が危ねぇからと仲間を売るやつを、自分の隣に据えた覚えも、ねぇ」
 かちん、とトリガーに指がかかり、机と平行に置かれていた銃が垂直に持ち上げられる。銃口は静かに、音もなく、東眞の額に向けられた。二つの目が見ていた。
「この話を、誰かにしようものなら、殺す。てめぇが俺を拒絶すれば、足を撃ち抜き、飼い殺す」
 真剣で嘘のない、コーザノストラ、マフィオーゾ、そしてVARIAのボスとしての顔を妻に向けた夫に東眞ははい、と返事をした。マフィオーゾは引き金に指をかけたまま、話を続けた。二拍ほど置いて、赤い目が一度瞼の裏に隠れて、それからまた現れる。
 静かで、どこまでも深く美しい赤は、これからされる、する話を口にするのを酷く嫌っているように、東眞には見えた。
 喉が動き、それはたった一音ですら発するのですら苦しげな様子さえ見て取れる。それでも男は、コーザノストラの男は口からゆるりと言葉を紡ぎ出す。
「あの老いぼれと俺は、血が、繋がってねぇ」
 親子ではない、とは言わなかった。その件に関しては、男の中でもう決着はついている。
 あの男は、ひたすらに不器用なコーザノストラのドンは、残酷で残忍で、それでいてかつ優しく愚かだった。それだけの話だった。そしてそんな男は、自分の「育て」親なのである。「産み」の親では決してありえないが、かの老人は、自分の「育て」の父である。
 女の反応を取り立てて待つこともなく、男はゆるゆると言葉を糸のように紡ぎ続ける。
「『俺の』妻である意味を、てめぇはあの式場で嫌というほどに理解したな」
「はい。目も、耳もありますから」
 互いに口にはしないが、そこには、コーザノストラ、という言葉が深く沈みこんでいた。まっすぐな目と、まっすぐな言葉だけが、嘘偽りなくその場に転がり落ちる。
「ボンゴレは、何よりも『血』を尊ぶ。この意味も、分かるか」
「分かります」
「もう一度言うが、老いぼれと俺には血の繋がりは――――――――ねぇ」
 この言葉を何度も何度も、繰り返し口にするたびに、男の瞳が歪むのを女は苦しげに見つめていた。ナイフで自分の古傷を何回も何回も抉りつけるようなXANXUSの行動を、東眞は静かに、静かに見つめた。何も言わず、ただ、大人しく。
「あの老いぼれを殺そうとしたこともある。殺されそうになったことも、ある。そして俺は、此処にいる。―――――――――――俺に、言いたいことはあるか」
 かつ、と引き金が僅かに動く。東眞はす、と息を飲む。冷たい空気が気管を通り、肺へと流れ込むと体を冷やす。そして静かに唇を動かした。有難う御座います、と。その言葉に赤い目がゆるりと動く。向かい合わせで座っている椅子の上で東眞は微動だにせず、頭を深く下げた。
 銃口の先は、動かず、そのため壁へと向けられることとなった。感謝を示す言葉と行動の意味が分からず、XANXUSは動揺を赤に混ぜた。東眞は顔を上げると、動かさなかった表情に何とも形容しがたい笑みを浮かべた。
 同情でも憐れみでもなく、ただ、それは不思議な笑顔だった。
「私は、XANXUSさん。貴方の側にいますよ」
 女の唇から洩れる言葉にXANXUSは喉を軽く動かす。男の低い言葉が声となる前に、女はさらに言葉を紡いだ。
「言いました通り、私は貴方の側にいます。貴方が何者であれ、どんな地位の人間であれ、何をしてきた人間であれ、何をする人間であれ。私にとっての貴方は、ただ、そこに、今私の目の前に座っている貴方だけです。全てを捨てることもしません。全てを拾うこともしません。ボンゴレが何を尊ぼうと、私が尊ぶのは、ただのXANXUSさんでしかありません。だから、側にいます」
「――――――驚かねぇな」
 ぽつん、と溢された言葉に東眞はまぁ、と今度ははっきりとした苦笑をこぼした。
 向けられていた銃は既に男のホルダーへと戻されている。
「私の唯一の武器ですから、これは」
 それにXANXUSは怪訝そうな表情を浮かべた。東眞はそうですよ、と静かに言葉を続ける。
「体力も人並み以下で、戦闘にも参加できず、頭脳もそこそこ。どう頑張っても皆さんの足手まとい以外の何ものでもありません。私が作れるのは、明かりのついた部屋と、暖かい料理。でも、限られた状況情報の中で、それがどういう構造をしているのかを理解する判断能力だけは、あります。それだけは私の武器です。どんな時でも自分が取り得る最大限の手段を選びとるための、武器です」
 東眞の言葉に、そういえばそうだったとXANXUSは一番初めの出来事を思い出す。してやられた時のことだった。あれでもしも相手が殺し屋だったり、同じコーザノストラの一員だったならば、あんなこともなかった。しかしながら、相手が一般人の、普通の女であったからこそ気配を探るのを怠ったという点がある。それを、理解していた。
 そうだったな、とXANXUSは唇を動かして言葉にした。
「結婚する前に、二人揃って濡れ鼠で帰ってこられましたよね。あの出来事の時に、二人のお話を聞いていれば何となく。勿論、ティモッテオさんは全てを話したわけではありませんし、ただのドラ息子の悩みでしたよ?」
「…ドラ…」
 ドラ息子、という単語にXANXUSはむと顔をしかめたが、東眞はくすと笑っただけだった。膝の上で重ねていた手が、少し寒いのか、するりと擦り合わされた。
「今この話をされたのは、スクアーロとの話を聞いていたからだとは、思いますけれど」
 図星を指されてXANXUSは一瞬言葉に詰まる。
 それに東眞はやっぱりそうだったかと思いつつ、言葉を続けた。
「何度でも言いますよ。貴方がどこの誰であれ、どんな人であっても、私の中の貴方はただ一人です。ひょっとして、セオのことも気になってました?」
 続けられた言葉にXANXUSは眉間に一つ二つとしわを寄せた。お見通しなのが、少しばかり気まずい。何か必死に考えていたこちらが馬鹿みたいに思える。
 東眞は一つ微笑んで、そうですねと冷えた指先にほうと息を吐きかけた。
「貴方と育んだ命だから、欲しかったんです。あの時とは、違いましたから」
 あの時、というのが無理矢理ことに及んだことを指すのは自明なので、XANXUSはふんと鼻を一つ鳴らす。指先をすり合わせて、東眞はまだ冷たい指先を温める。
「XANXUSさんに相談しなかったというのは、私が悪かったんですけれど。それは過ぎたことですし。でも決して、貴方の遺伝子が欲しかったわけじゃなかったんですよ。それに、子供は授かりものですから。授かったものを、自分から手放したくなかったんです。XANXUSさんとの、子供を堕ろしたくは、なかったんです。嬉しくて嬉しくて、他の誰でもない貴方との子供だったから、誰よりも大切で愛しい貴方との子供だから欲しかったんです」
 遺伝子が欲しければ人工授精でもしますよ、と東眞は笑った。やけに生々しい発言にXANXUSは反対に面食らう。
「産めてよかった。産まれて良かった。XANXUSさんとの子供。私の子供。大切な、二人の―――――…宝物」
 そうでしょうと微笑まれて、XANXUSはその赤い瞳をゆっくりと細めた。そして相変わらず冷えたままの東眞のその細い指先を自身のごつりとした手で掴み取ると、そのまま自分の頬に引き寄せた。
 冷めた指先は、消えることのない深いただれたような傷跡に触れる。
 触れられても構わない、とXANXUSは思った。自分が捨ててきたものを持つ女にならば、「この」傷を触れられても構わないと思った。触れても、許せると思った。どんな傷でも痛みでも自分だけの痛みを、言い方は悪いが押し付けることができると、思った。そして、彼女の痛みも苦しみも、押し付けられても構わない、と思った。
 東眞は空になっているもう一つの手を傷のないほうの頬にそっと添えた。そちらも随分と冷えている。つられるようにしてXANXUSはもう片方の手でその手を覆いこむ。
「いろ」
 俺の、隣に。
 言葉にはあらわされなかった言葉もきちんと汲んで、東眞ははい、と微笑んだ。
 そして、珍しく、本当に珍しく女の方から男の方へと唇を寄せて、そして触れるだけのキスを交わした。だが男としてはそれでは物足りなかったのか、離れようとした女の唇に噛みつくように口付けた。は、と呼気が合間に漏れる。
 冷たい指先を温め合うかのように絡めて、繋ぐ。強く引き寄せ、そして流れるように椅子に倒した。欲しい、と強く思っている。
 どうせ、誰も呼ばない限り来はしない。場所が場所だが、構いはしない。美味しく頂いてしまおうともう一度唇を食べようとした時に、ぴーと喧しい連絡音が鳴る。
 放っておけばよかったが、案件が一つかかっているのでXANXUSは嫌々ながらも受信ボタンを押した。
『ジェロニモ。今、帰りやしたぜ。ボス』
「…」
『ボス?聞こえてやすかいねー?』
 最悪だ、とXANXUSは思いつつのっそりと押し倒していた体を上げて、受信ボタンに最大限の苛立ちを込めて、このカスがと言い放った。それに受信機向こうの相手は、からからと何も考えてなさそうな声で笑う。
『そいつは失礼しやした。それで、俺ぁどうすりゃいいんで?取り敢えず、ボスの部屋に行った方がいいですかいね』
 その言葉に男は押し倒した女を見下ろし、そして机の上の依頼書を交互に見る。深い溜息を一つついて、部屋に来い、と命令して通信を切った。
 そんな夫に妻は苦笑して、それから一言声をかけた。
「紅茶、お代わりいりますか?」
「…アッサムのミルクティー」
 くそ、と吐き捨てたXANXUSは机の上の一枚の紙を取りあげ、そしてミルクティーを用意しに行った背中を眺めて、そしてもう一度溜息をついた。服に少しだけ移った優しい香りに目を細め、そして指先残る柔らかな感触を思い出し、XANXUSは舌打ちを一つ、依頼書を忌々しそうに睨みつけた。

 

 色の濃いサングラスをかけた男は通信機を耳から離して、Grazie、と銀髪の男にそれを返す。ほう、とスクアーロは白い息を一つ吐きだして、そして小さな子供を足元に、雪だるまの下半身に腰かけた。
「そいつぁ、ボスの子供かい?」
「おおよ。大体てめぇ帰ってくるのワンテンポ遅ぇんじゃねえのかぁ。シャルカーンの野郎が怒ってもしらねぇぞぉ」
 その言葉に男は足元の子供を大きな手で持ち上げて、すとんと自分の肩乗せて肩車をする。セオはその高い位置にきゃっきゃと声を上げて喜んだ。
「名前はなんてーんだ、バンビーノ」
「セオ!セオ、セオ!」
「そうかい。セオ、ってぇのかい」
 ボスにそっくりだなあと笑うと、男は子供を肩車したまま、首を持ち上げて子供を下から見上げる。見上げる、というが、男のサングラスの下の目には瞳がない。二つのガラス玉がはめられた目は、良く冷えていた。
「セオ。アーロ、Jrって呼ぶの!」
「Jrねぇ。そいつぁまた格好良い名前じゃねぇか」
「ボスにそっくりだろぉ?顔だけな。中身も百面相もちっとも似てねぇがなぁ」
 スクアーロの問いかけに、男はそうさねぃ、と肩を揺らす。セオは揺れた肩の上で、慌ててバランスを取るべく、男の短い髪に縋りついた。
「おじちゃん、は?名前は?」
「…おじちゃん…。これでもお前さんのパパーと殆ど変わらないんだぜ。バンビーノ」
「めっ!セオ!」
「おう。悪かった悪かった」
 頭の上で怒られた男は口元を楽しくさせて、また笑う。
 そしてスクアーロはそんな男にとっとと行った方がいいんじゃねぇかぁと勧めた。それに男はそうだなあと笑った。セオを肩車したまま、そして男はゆっくりと雪に足跡を残しながら進み始める。セオは慌てて振り返って、アーロ!と呼んだ。
「だるま!作って、ねっ!」
「おーおー、まかせとけぇ」
 ひら、と手を振ったスクアーロにセオはにこっと顔をほころばせて、男の頭にもう一度しがみつく。そして男は思い出したように、そうだそうだと笑った。
「俺ぁ、ジェロニモってぇんだ。ジェロニモ・ロッシ。よろしくな、バンビーノ」
 それに肩の上の子供は、セオ!ともう一度自分の名前を強調し、男はこりゃすまねぇとまた笑った。