34:Buoun Compleanno - 11/11

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 ああどれほどの時間が経ったろうかと、ジェロニモは緩やかに時計のない部屋で深く長く細い息を肺から押し出すようにして流し出した。吐きだされた息は血生臭い部屋の中にずるずると拡散し、砕けた骨や肉片の中に吸い込まれた。そしてジェロニモは、はぐんとその世界の中でパニーノを食べる。顎を上下に動かせば、割られたパンの中に挟まれているルッコラや生ハム、トマトや卵などが歯によって押し潰され、唾液で溶かされていく。
 蟻と一緒に食事、などとまぁそんな可愛げのある光景ではないが、それと同じ行動をジェロニモは取っていた。
 残念なことを一つ上げるならば、聞こえてくる音楽は自分が好きなクラシックではなく、息も絶え絶えな悲鳴とも呼べない断末魔である。憐れだとも思わず気の毒だとも思わない思えない。部屋をきしませるようにして鳴り響くその音楽は、目が見えない分余計に耳に響く。部屋にあふれかえった音は、そこから出て行こうとばかりに様々ところへと、隙間を埋めるようにしてぎしりと鳴る。
 耳介から外耳道を突き抜けて鼓膜を凄まじい勢いで振動させると鼓室に飛び込んだ音は、耳小骨が三倍にも音を膨れ上がらせて内耳へと伝えた。そして蝸牛のリンパ液が音に震え、電気信号によって脳へとそのクラシックとは到底呼べない悲鳴が脳味噌に伝わる。この間は、非常に短い。
 今度、とジェロニモは思う。今度この部屋に音響設備でも整えられるように申請しようかと。何しろあのジャン専用の部屋などは完全設備がされているのである。だとするならば、この部屋にも多少の趣味を盛り込んでも文句は言われないのではないか。
 だが少し考え直してジェロニモは最後まで食べきったパニーノ、指先に付着したパンのかけらを舌先でつまみ取って食道へと流す。
 ジャンがあの異常な我儘と通せているのは、単に彼にはそれがないと色々と困る事象が発生するからであって、それによって任務に支障が出かねないからである。しかしながら、自分にはクラシックがないと困ることは一切発生しない。そしてジェロニモは仕方ないとぼやき、考え方を変えた。こんなところで少しも美しくない光景と共にクラシックを聴いたところでいいことは何もない、と。それならばいっそ、聞く時間は短くとも、自室の整った状況穏やかな気分で聞いた方がよい。
 そうだそうだとジェロニモは頷いて、指先がかすかに動き、椅子に縛られた状態で転げている男を眺めた。
 肌の下、脂肪の下の筋繊維が蟻に食われることによって覗いている。あ、あ、と短く悲鳴じみた声が弱弱しく空気を震わせていた。
 人は一般的に大きな獣、とりわけ肉食獣を恐れる傾向にあると言っても間違いではない。
 しかしながら実際に恐ろしいものは、肉眼で完全にとらえ切れる大きな獣ではない。確かに破壊力もケタ違いで恐ろしいだろう。だが、真に恐ろしいものは小さきものだ。
 そう、ジェロニモは思っている。
 大きな獣は銃弾で簡単に撃ち殺せる。的が大きいために仕留めやすく、また大型獣が群れで攻撃をしてくるのは少ない。それはつまり、一頭二頭仕留めてしまえば、それですべてが終わると言うことである。だが、小さい生物は違う。網目をかいくぐり、踏みつぶしきれないほどの大群で押し寄せられれば、振り払うこともできず一撃で殺されることもなく、じくりじくりと毒のように浸透し殺される。
 それはある意味、毒や細菌などの目に見えない恐ろしさとは違う、目に見えるが故の恐怖と言うものが存在する。それは、耐えがたく恐ろしい。
 本来捕食者である人間が、被捕食者である側に抵抗の術なく貪り食われていく。痛みと恐怖にあがき悶え苦しみ抜きながら。
 ジェロニモはすぅと膝を折って、蟻に食われつつある男へと目を向けて語りかけた。
 こちらが欲しかった情報は、既に自白させている。自白させる、というよりもいとも簡単に自白したと言う方が随分と正しい。それもそれで仕方ないことではあるかとジェロニモは考え直した。何しろここは、拷問室なのだから。
「―――――――よぅ」
 白濁とした目が溢れかえる恐怖の海に浸りながら、こちらの瞳へと向けられる。視線が合って、男の唇が微かに動く。その色を無くしている唇の上を蟻がかさかさと這って行った。痛みを感じなくなることはない。匣兵器、蟻の牙のそれにはそういった類の分泌液が常に潜んでいる。気絶することも許さず、食われる痛みに心までをも浸食されながら、男は骸に、否、骨へと姿を変えていく。血の一滴までも昆虫の腹に収められつつ。
 ひくん、と男の喉が動いてか細い声を出した。否、出そうとした。しかしジェロニモは口元を歪めただけに終わる。その男が開いた口の中から溢れだしたのは、真黒な大群であり、それが何を意味しているのか、ジェロニモはよくよく知っていた。
「ちぃと、食い意地が張りすぎてんじゃねぇのか?」
 随分と早い挨拶じゃねぇか、とジェロニモは男の口から溢れた蟻に語りかけた。男の腹には、ぽっかりと穴が開いていた。皮膚を食いちぎって行く蟻は、その穴にどんどんと詰め込むようにして内臓を食っていく。
 いつ男が食われたのか、いつ男が死んだのか、いつ男が意識を失ったのかをジェロニモは知らない。知らないが、男が骨の髄まで恐怖を味わったのは知っている。
 ぷちゃ、と男の目玉が弾けて溶けた。蟻が、眼球の穴からも姿を現す。一面を黒く染め尽くす蟻の群れの中、ジェロニモはゆるりと足を進めた。踏み進めたブーツの先を蟻は自分の意志を持ってか持たずか、さっと避けて踏みつぶされないようにした。
 さて、とジェロニモはいつだったかセオを送り出した扉の前に立つ。そして真っ黒の蟻の山を背中に語りかける。残さず食えよ、と。そして一歩外に出る。一匹の虫もいない空間に放り出されたジェロニモの背後で自動的に扉が閉まった。
 扉の向こうの部屋の中央では、黒い山がもそもぞと動き、山から出ていた人間の手は、それすらもあっという間に黒に消えた。

 

 こうだ、という声の後で、大きな手が小さな手の上に重ねられ、正しい武器の持ち方を教える。実弾は入っておらず、大きさ自体も随分と小さいそれだが、作りはひどく精巧で、銃弾さえ入れることができるならば、それは人を命を奪う武器となるだろう。
 珍しい父親の指導のもと、セオはきらきらと嬉しそうな顔をしてその膝の腕で正しく銃を持ち直す。
 セオにとって、その人の命を奪う武器は今だただの玩具にすぎない。先日のあの恐怖におびえていた姿が嘘のようだとスクアーロはその姿を見て思った。そしてセオは、驚くべきことにあれからもちょくちょく地下室に遊びに行っている。尤も、ジェロニモの部屋に入っていないようだが。
 それでもジャンの部屋に遊びに行って、時折戦利品だとばかりに母親にフロッピーを渡している(無論その後、ジャンが悲惨な顔をして慌ててそれを取り戻しに来るわけだが)
 ぼんやりとその光景を眺めているスクアーロの隣でゆっくりと腰を落ち着け、焙じ茶を飲んでいる東眞は唇を動かし、声を発した。穏やかな声とは裏腹に、言っている内容はひどく真剣なものである。
「少しずつ、こうやって体が覚えて行くんでしょう」
 セオは、と呟かれた母親の言葉にスクアーロはコーヒーを傾け、熱めのそれを食道へと流す。
 東眞の目はXANXUSがセオに武器の使い方を教えているほうへとまっすぐに向けられていた。あのジェロニモの件を、東眞は何も言わない。それがどういう意味なのか、スクアーロにはやはりよく分からなかった。
 母親ならば、と母親を一括りするのは間違っているのかもしれないが、それでも我が子が恐怖に泣き叫ぶような状況をやはり母は好まないのではないだろうが。そう、スクアーロには思えてならない。無論、コーザノストラの妻の役目は、言われずとも夫が何者であるかを察し、産まれた子供を立派なマフィオーゾとして育てることにある。
 だがしかし、東眞は違う。
 確かに彼女はコーザノストラの妻であるし、実際夫であるXANXUSがどういう人物で、どういう立場の人間かも知っている。それでも彼女は結局のところ一般人ではないのだろうか。だから自分たちに、セオをセオとして見てくれるように頼んだのではないだろうか。
 と、スクアーロには思えてならない(本当のところは分からないのだが)そんな男の感情を知ってか知らずか、上司の妻は喉を動かし、肺を動かす。言葉を紡ぐ。
「選択をするということは、決して何もなしにできることではありません」
「だが、時期ってもんがあるんじゃねぇのかぁ」
「時期が来た時に、選択できるだけの力がなければその選択は無意味なものになります。それは、間違いなく全てを狂わせる。そして、選択するために一番大切なものは自身の命です。それがなければ、選択すらもままならない。セオが選択をするために必要なものは、まず生きていること。そして、この世界がどういうものかを肌で感じておくことです。それがなければ、選択をすることはできませんし、選択の意味すらもなくなる。一度しかない選択ならば、それが後悔に繋がらないように祈ります」
 そう言うものなのかとスクアーロは小さく返す。父親は、ごんと子供の頭に拳を落とした。何度言ったらわかると怒声が響き、子供の眦にはじわりと涙が浮かんだ。助けを求めるようにマンマ、と小さく唇が動いたが、珍しく父親の膝から退くことはしなかった。代わりに投げ捨てようとしていた銃を、結局父親からのプレゼントが嬉しかったのだろう、それを取り直してもう一度同じ動作を繰り返す。
 空の弾倉を取り付け、遊底をめい一杯引いて放す。引き金を引く。弾丸がでる(今は弾丸を入れていないために出てこないが)今は自動式拳銃を使っているが、近いうちに回転式拳銃を与えることは容易に知れている。と、いうよりもスクアーロ自身、すでに小さなそれが購入されているのを知っている。
 そしてXANXUSは同じ動作を飽きるほどに、セオに繰り返し教えている。この子供が成長しきる頃には、間違いなく脊髄反射如き速度でセオは銃を撃てるようになるだろう。それはもう、自分の腕と同じような感覚で。今はまだ、自分の命を守るための武器でしかないそれも、いつかはボンゴレのための牙となる。
「そんなものかぁ」
「知っておける間に、知っておいた方がいいこともあるでしょう。遅すぎると後悔するよりは、早すぎたと後から訂正した方がずっといいです。死んでしまっては、元も子もありません。私はセオに生きていて欲しいんです。あの子が、やるべきことをやらなかった故に命を落とすのは、耐えられません」
「そりゃ、自業自得ってやつだろぉ」
「いいえ」
 いいえ、と東眞は繰り返す。
 きゃぁきゃぁと拳銃を玩具に遊ぶ子供の笑顔は可愛らしい。
 上からスクアーロは斜め下へと向けられている女の顔を見下ろす。滑らかな黒髪は、下へと流れていた。己の上司と同じ黒の睫毛がぱつんと小さく動く。唇が、そっと動かされる。
「抵抗も反抗も、幾らでもできるように。したくともできない状況だけは、作りません」
 ふっと東眞の瞳に影が落ちる。その影の中に瞬時に潜んだ、感情のない彼女の義弟の表情をスクアーロは捉えることはない。だが、それでも十分に東眞の意図は、スクアーロに伝わった。
 セオが、かの子供が、他の誰でもない、自分の意思でどの道を選ぶのか、それをするだけに必要な力を準備させたい、と。
 もしもと東眞は続ける。
「大きくなって、もしもセオがこちらの世界に来なければ、こちらの世界を選ばなければ、私たちは恨まれるかもしれません。幼い頃に見せた光景が、その体に染み込ませた光景が、日常生活に影響を及ぼさないとは言い切れません。いいえ、及ぼすでしょう。魘されるかも知れない、苦しむかもしれない。それでも――――――、それでも私は、XANXUSさんがセオに今与えるものを、共に支えます」
「生きていて、欲しいから、か?」
「生きていて欲しいからです。セオはすでに、ここにいる時点でもはや一般家庭との基盤が違います。血の匂いを嗅いで育つことになる。そして、否が応でも硝煙の臭いを体に染み込ませます。私がセオに与えられるものはとても少ないです。そしてそれは全て、この世界においては、一欠けらも役に立たないでしょう。生きていくための知恵には一つもなりはしません。それらの知恵と勇気と力は、全てXANXUSさんからしか与えることができません」
 それはそうだろうとスクアーロは思う。彼女の優しさも温もりも、所詮この世界では塵同然にしか扱われない。そんなものを持って戦場に立てば命を落とすのは、間違いなくそれを持った人間である。
「セオが、自分の意見を言える子供に。あの人が、セオに力を与えるならば、私は発言する強さを与えます。人の意見に耳を傾け、そして何が一番大切か『自分の意思』で考えられるような子供に、育ってほしいものです」
「―――――我儘に、育つかもしれねぇなぁ」
 そりゃ、とスクアーロはくつんと鼻で笑った。そんなスクアーロの隣に座っていた東眞は、ゆっくりと席を立つ。
 一歩足を踏み出した女の背中をスクアーロは見た。小さく、細い。XANXUSが日々どれほどの力加減で抱きしめているのか、想像できそうなくらいに、頼りない。それでも彼女の背筋はまっすぐに伸びている。それをそう見させているのは、おそらく彼女が揺るがないからに他ならない。
 東眞は銃の使い方で遊んでいる夫と子の元へとたどり着く。母の登場にセオはきらきらと目を輝かせた。そして持っている銃を見せて、セオね、と言葉を弾ませる。
「すっごーいの!」
「ぬかせ」
 すごいですねと母の同意の言葉と、父親の真逆の言葉ではあるが、そう不機嫌ではない言葉を耳が拾う。
 自分の考えが間違っていたとは、スクアーロは今でも思っていなかった。それでも、彼らには彼らの考えと行動の元に、子供を育てている。やがてそれが子供にどのような影響を及ぼすかも全て理解した上で。もしかすると、子供から一生憎まれるかもしれない可能性も承知の上で。
 ず、とスクアーロはまるで日本人のように飲み物をすすった。コーヒーは苦くて熱い。否、少しばかりぬるくなっていた。負けるなぁ、と小さくつぶやいたその口元は小さく笑っていた。

 

 誰もいない静かな部屋で、ジェロニモは言葉を紡ぐ。クラシックの音楽は未だ耳に届かない自分の城にあった。赤い瞳が静かにこちらを見ている。そしてジェロニモは、自身が見聞きしたことを全て上司に告げた。
「―――――で、終わりでさぁ。後始末は心配しねぇでくだせぇ」
「するか、カス」
 そして赤い目の百獣の王を従える男は、瞳のない男が口にした言葉を脳内でまた繰り返す。幾度も幾度も、それは数年前からしつこいくらいに耳にしているファミリーの名前。そして、未だ始末するリストに上らない名前。
 コモ。
 不愉快だ、とXANXUSはグラスの中のウイスキーを飲みほした。そして任務はあるかと尋ねたジェロニモに、ないと短く答えて返した。