34:Buoun Compleanno - 10/11

10

 男はワイングラスを、女は紅茶のカップを置いて、ふと時計を見上げた。子供が部屋から出て言ってから、かれこれ一時間近く経っている。
 東眞は未だノックされない部屋の扉へとちらり視線を走らせて、破顔してくすくすと声に出して笑う。その笑いにXANXUSは何だとばかりに普段から目つきの悪い赤を動かして、そちらの表情を捉えた。
 いえ、とそれに東眞は一言断ってから、返事をした。
「ニコラがとんでもない美人だから、セオが帰りたくない!って言っていたら面白いなぁと思って」
 そうだろうかとXANXUSは地下室のパソコンジャンキーの城を思い浮かべながら、物騒な顔をする。どこをどう見ても、あの無機質な物体が美しいとは到底思えない。そしてもしもあのパソコン(ニコラ)を自身の息子が美人だと称するものならば、そのちっぽけな頭を小突いて、常識と言うものを叩きこむべきだとXANXUSはそう考えた。尤も幸いなことに、セオはこの場にはまだ帰ってきておらず、父親の鉄拳を受けるかもしれない可能性から逃れているわけなのだが。
 XANXUSはセオが、かの狂人の愛人にすがりついて離れない様子を瞼の裏に浮かべて、深い皺を眉間に寄せた。全く笑えもしない冗談である。こう言ったくだらない言葉は流すに限るとばかりに、XANXUSはまだ半分ほど飲み残しているワインボトルを手にとって、グラスの淵へとその口を持ってきた。
 注ぎましょうかと東眞が手を差し出した時に、少しばかり強い様子で扉が叩かれて、入室許可を求める。入るぜぇ、という言葉と共に、銀色の髪が流れ、そしてその腕の中には小さな子供がしがみ付いている。完全に怯えているセオに、東眞はセオ、と声をかけた。それにセオはぱっとスクアーロの肩から顔を上げると、マンマ!と東眞へと手を伸ばす。いきなり上体を乗りだされたので、危うく取り落としそうになったが、スクアーロはそこは持ち前の反射力でどうにかして、無事に母の手に子供を届けた。
 セオは泣き声一つ漏らさずに東眞の首に齧りついて、じぃっと何かをこらえるようにして小さく小刻みに震える。
 そんなセオの様子に東眞はちらりとスクアーロへと視線を移したが、すぐにそれを外した。そして代わりに、セオの背中を優しく叩く。マンマ、とセオは痛いくらいにしがみ付き、ぎゅうぎゅうと締め付けてくる。苦しいくらいの行動だったが、東眞は怒ることはせずそっと抱きしめる。
 母子の光景を眺めながら、スクアーロは一拍躊躇ってから口を開いた。
「悪ぃがボスと話がある。席を外してくれねぇかぁ?」
「構わねぇ、い
「ボス、頼む」
「…部屋に戻れ」
 スクアーロの珍しく真剣な懇願にXANXUSは一度目を閉じてから、セオを抱えた東眞に部屋に戻るように告げた。東眞はそれにはいと返事をして、その部屋を出て行った。二人が減って、部屋の温度がさらに下がったように感じられる。
 椅子に座ることはせず、スクアーロは立ったまま、椅子に座っている男へと声をかけた。
 低い温度の部屋でそれはさらに低く、重くのしかかるようにして響く。赤い目は動かず、スクアーロを映しもしない。一息吸ってから話を切り出したスクアーロはそのまま上司の返答を待つ前に言葉を連ねていく。
「――――――――ボス、やっぱりJrには早すぎるだろぉ。ジェロニモの部屋に入ったらしいが、あの調子だ。マンマとしかいいやがらねぇ。あれで、一体何をあいつが学べるって言うんだぁ。少しずつ慣らしていくならまだしも、いきなり地下室の部屋まで入れるようにするこたぁねぇ。今はまだ、隊員の訓練風景やあいつ自身がそれを玩具程度に利用できるってあたりでいいんじゃねぇのかぁ?」
 そうだろう、とスクアーロはXANXUSに同意を求める。
 正直な話、首にしがみついて泣き声一つ漏らさずじぃと固まっている子供の姿は見るに忍びなかった。
 任務で子供が標的になることはほとんどないが、それを割り振られたこともないことはない。子供を殺すにも抵抗はない。だがしかし、今、これは、任務ではないのだ。まだ子供は二歳を迎えたばかりの、可愛い盛りの子供である。
 一体何が悲しくて、そんな子供に身の毛も弥立つ拷問風景を見せなければならないのか。どう考えても、早い。
 いずれ見なくてはならないものであったとしても、何も今からではなくてもいいと思う。あのベルフェゴールでさえも八歳で入隊である。セオはまだ二歳。如何とも埋めがたいこの六年の差はどうしようもない。前例がないから、という理由ではなく、ただ単純に早いと思わざるを得ない。こんなことを子供に強いたところで、子供が学ぶのは恐怖だけではないのだろうかとしか思えない。
 だがスクアーロの胸中を他所に、XANXUSが返したのは、全く理解しがたい言葉であった。会話が上滑りしており、しかしそれを許される男でもある。
「てめぇの足で、戻ってきたのか」
 ふ、と息を飲んで黙ったスクアーロにXANXUSは答えろとばかりに強い視線を向けて、もう一度同じ言葉を繰り返した。猿でもできる会話、SiかNoのどちらか二択しかない疑問文だったが、スクアーロは少しばかり答えに詰まる。
 低く深く、そして重みのある声がスクアーロの脳味噌を抉った。
「セオは、テメェの足で、ジェロニモのところから、戻ってきたのか」
 一言一言区切られた言葉は、重たい。その言葉の真意を、スクアーロはぞっとしながら感じ取った。そして躊躇いの後に、肯定の返事を返す。それに父親は上出来だ、と一言こぼしてワイングラスを手にした。
「待てぇ!戻ったには戻ったが…あんな調子だって言ってんだろぉが!あれじゃ見せるだけ
 無駄だ、と言おうとしたスクアーロの額にワイングラスが直撃した。紅玉のアルコールが額からだらだらと落ちて、まるで血のように皮膚を伝った。銀色の髪からそれは絨毯へと滴り落ち、丸い染みを作り出す。それよりももっと純粋に赤い瞳が揺れ動いた。
 厚めの唇がゆっくりと動き、体の中で動かされた肺が空気を押し出して、それは口から溢れだして外界の空気を振動させて音を作り、そしてその意思は声を言葉にした。
 燃える炎の色だと言うのにどこまでも冷たく、触れれば凍りつきそうな色の赤にスクアーロは苦々しく顔をしかめた。
 言いたいことは山ほどあると言うのに、一番言いたい言葉はここで封じられている。
 黙りこんだスクアーロにXANXUSはフンと鼻を一つ鳴らすと、新しいワイングラスを引っ張り、その中にワインを注いだ。紅玉の液体は重力に従ってグラスの中で踊りながら落ちる。ごとんと後まだ三分の一程残っているワインボトルが机に戻される。高級さ漂わせるボトルの前の机には、食べかけの料理が置かれていた。そして、その机の端の皿には、パイ生地が散らかっている。誰が食べたのかは、言うまでもない。
「『あれ』を見て、気絶しねぇで、立って言葉が喋れるなら―――――――――十分に素質はある」
 父親の言葉は確かにスクアーロでも納得できた。大人でも、隊員たちでもジェロニモの部屋に入った直後は吐いたりするやつもいるし、三日まともに飯が食べられないやつも時折いる。暫く口を利きたくないと、その部屋で見たことを忘れようと他のことに必死になって打ち込む奴もいる程なのだ。
 それを、あの年頃の子供が、あの部屋での光景を目にし、かつ口がかろうじてきけたというのだから、素質は、あるだろう。
 しかし、スクアーロには納得がいかなかった。自分の足にしがみついてきた子供はやはり酷く怯えていたし、ひたすら母を求めた。一つ間違えばトラウマ、マイナス要素になりこそすれ、プラス要素など考えら得ない展開になっていたのだ。子供であるからこそ、余計に。
 ぐ、と唇を強く噛んで、スクアーロはさらに物申した。首筋を伝うワインは冷たい。
「素質云々の問題なら、余計にもう少し成長してからでもいいじゃねぇか。二歳だぞ、ボス。まだ、あいつは二歳だ。二歳なんて言ったら、ようやくお互いの会話が成立する時期だろうが…ショックで口でもきけなくなったらどうするんだぁ。確かに、武器に触れて慣れさせるってのは俺だって分かるぜぇ。だが、何回も言うが、地下室はまだJrには早いんじゃねぇのか」
 まだ二歳だと繰り返すスクアーロにXANXUSはてめぇは、と深い声で返した。背筋すらも震わすような威圧感を纏った声に、スクアーロは顔を一瞬強張らせる。
「―――――――――いつから、あいつの父親になった。父親は、俺だ」
 父親らしいことなど滅多にしない癖に、とスクアーロは思いつつも、それでも彼に父親の自覚があることには内心で喜ぶ。だがな、とスクアーロはさらに、珍しくも食い下がった。
「そりゃ、Jrの父親はボスだろうよ。だが、子供は親の玩具じゃねぇんだぞぉ。大体東眞にも地下室には何があるか教えてんのか?あいつにこのことを教えていたら、納得するわけが
 ねぇ、と言いかけたスクアーロに今度はワイングラスの中身だけがぶちまけられた。言い過ぎたかとスクアーロは自分の失言を振りかえる。しかし、アーロアーロと懐かれている事を考えると、他人事には思えないのである。はっきり言ってしまえば、可愛いのだ。純粋な行為を寄せてくれる小さな存在が。可愛くて、仕方ない。柄にもなく、守ってやりたいとさえ思っている。
 別にXANXUSがセオを害するとなどは思っていないが、この男は無意識に、そうしてしまうきらいがある。父親と名誉ある男としてがよくよく混じっているが故に。
 武器に触ることは悪いとは言わないにせよ、ジェロニモの部屋にまで出入りさせるのはやり過ぎだと言いたいだけである。もう少し、せめて小学に上がるくらいまでは待ってやってもいいのではないだろうかとスクアーロは思っている。
 そんな考えを頭の中で巡らせているスクアーロにXANXUSは初めて笑った。鼻を軽く鳴らして、相手を卑下するような笑い方をする。
「猿でも分かるようなことぬかしてんじゃねぇ。あいつは、言わなくても分かってんだ。このカスが」
「だ」
「うるせぇ、がたがた抜かすんじゃねぇ。セオの育て方は相談して決めた。変更はねぇ。…あのクソ餓鬼に死んでほしいとてめぇが本気で思ってんなら、今すぐ地下室の出入りを禁止させてやってもいいがな」
 出て行けと最後にその言葉で締めくくると、XANXUSはスクアーロにぶちまけたせいで空になったワイングラスにワインを注いだ。そしてスクアーロはそれ以上何かを言うこともできず、軽く唇を噛んで髪の毛を紅に染めながら出て行った。
 ごと、と机に戻されたボトルには、もうワインは残っていなかった。

 

 抱きつく力はかなり強い。東眞はセオの背中を安心させるように撫でながら、その小さな体を抱きしめた。
 何を見たのかは、知らない。しかし、何かを、見たのは確かなのである。こんな状態の我が子を腕に抱きながらもなお、夫に地下室への出入り禁止を求めない自分は酷い母親だと東眞は思った。しかしながら、XANXUSが一体セオに何をさせたいのか、東眞にも十分すぎるほどに分かっていた。
 セオは、決して安全な身の上とは言えない。外に遊びに出る時すら、命の危険にさらされる可能性は高い。もしも幼稚園で、近くに身内の者がいない場合で襲われた時、人が殺される状況を目の前にしてそこで、思考や動きを停止しては、セオは確実に死ぬ。人の死に慣れろと言っているのではなく、ただ、人の死を見ても動じないようにならなければいけない。必然的に。
 だからこそ、XANXUSはセオをここVARIA各所全ての出入りをセオに許可した。セオが、人の死に対して驚いて全てを止めてしまわないように。決してその命を簡単に落とさないように。
 しかしと東眞は思う。必死になって抱きついてくるセオの恐怖はとても大きなものだったのだろうと。
 普段からセオはよく人に抱き上げてもらったりする、スキンシップが好きな方であるが、離れないために抱きつくというのは少ない。そしてこうも無言なのも珍しい。セオ、と東眞はその背中を優しくさすって、優しくその名前を呼んだ。
 だが、途端、セオはばっと体を上げて、近くにあった本を窓際に投げつける。幸いガラスは割れなかったが、セオはさらに雑誌を掴んで投げようとしたので、東眞は慌ててそれを止めた。
 呼吸は荒く、セオは母親に腕を掴まれたが、や!と声を始めて強く上げる。そして恐怖に怯えきった顔をして、反対の手で東眞の頬を放せとばかりにひっかいた。暴れる子供を東眞は抱きしめることでどうにかして落ち着かせようとする。
「セオ、落ち着きなさい」
「や!やー!!ありさんっ!あり、さん!セオ、たべ、られる…!」
 蟻、と言う単語に東眞はふっと窓際でてこてこと動いている小さな昆虫を目にした。しかし、どう考えても人を食べるタイプの蟻には見えない。だがセオは怯えきり、自分を害そうとするものを排除すべく、恐怖のあまり腕の中で暴れる。セオ、と東眞はもう一度その名前を呼んだ。
「落ち着きなさい。蟻さんは、セオを食べたりしませんよ。大丈夫ですから」
「うそ!うそ!ジェロニモの、ありさん!たべて…たべ、てた!たくさ、ん、たくさん…ねっ、ひとがね、まっくろ、で、ね」
「セオ」
「ほんと、だもん!ありさん、たべたんだもん!セオも」
 セオも、と繰り返したセオの悲鳴に東眞は顔を痛々しく歪め、そして大丈夫です、とセオを強く抱きしめた。暖かな母親の腕の中で、セオはようやく落ち着きを取り戻し始める。ひくっとしゃくりあげて、ぎゅぅと東眞の体に抱きついた。
「蟻さんが来ても、私が守ってあげますから。セオは大丈夫ですよ。それに、あの蟻さんは絶対にセオを食べたりしません。それからジェロニモの蟻さんも、セオを食べたりしませんから、ね」
「だって」
「大丈夫です。ジェロニモが怖い顔してやってきたら、マンマが倒してあげます」
 ね、と東眞はセオの林檎のような真赤なほっぺをその両手で包み込み、優しく微笑んだ。それにセオはぐす、と一度鼻を啜ると小さく頷いて、ぎゅっと東眞の体に顔を押し付ける。その背中を優しくなでながら、東眞はセオ、ともう一度語りかける。セオは顔をあげて、銀朱の瞳を母親へと向けた。
 東眞はその額に手を添えて、くしゃりと柔らかな黒髪をかき混ぜると、すっとセオの視線を窓際の蟻へと向けた。セオはそれにつられて目を向けたが、やはり少しまだ怖いのか、体が僅かに強張る。
「むやみに殺してはいけませんよ。生きてるんですから」
「…ころすって、なーに?」
 息子の素朴な疑問に、東眞はその小さな手を取って自分の左胸、心臓の上に添えさせる。セオの小さな手のひらには、しっかりとした鼓動が伝わってくる。
「ここを動かなくして、冷たくすることです。とても、とても悲しいことです。スィーリオも生きてるんですよ、セオ」
「…スィーリオ…しんだら、つめたくなるの?」
「そうです。スィーリオが死んだら、悲しいでしょう?」
 かなしい、とセオは頷いた。東眞はそんなセオの頭を優しくなでる。
「皆、一緒です。だから、すぐに手を出してはいけませんよ」
「―――――――――でも、ジェロニモ…は、ね」
 戸惑ったセオの言葉に東眞はそれは、とセオを自分の膝に抱え直して、小さな頭をその大きな掌で撫でて、銀朱の瞳をのぞいた。
 そして、セオがもっと大きくなったらと優しく抱きしめた。そしてセオはその母のぬくもりにそっと目を閉じた。