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「叩きだせ」
そう言うと思った、と周囲の人間の意見は見事に一致する。
帰宅早々に見かけた妻の親戚の姿に夫は眉間に更なる皺を寄せていた。東眞はXANXUSが差し出したコートを受け取りながら、そう言わないで下さいと笑顔で返す。
無論、そんな言葉は聞こえないとばかりに、XANXUSは自身の方を恨み辛みが大量に篭った視線で睨みつけてくる青年を見下した。短い黒髪は外の寒さに合わせると、見ているだけでぞっとしそうな寒さであろう。
修矢は睨みつけるようにして見下ろしてくる赤をぎろりと睨み上げた。
やはりこうなってしまったかとスクアーロも東眞も思ったのだが、それをもう口に出すほど馬鹿ではない。このようなシチュエーションは十分に想定内である。むしろ実力行使で叩きださなかった分、ましだったのかもしれない。
睨みつけてくる黒い目からXANXUSはすいと赤をそらして、東眞に一冊のパンフレットを押しつけた。そしてルッスーリアが抱き上げているセオをひょいと首根っこを猫でもつかむようにして持ち上げて、自身の腕に収めた。
「バッビーノ!Bentornat!(おかえりなさい)」
返事の代わりに、その小さな頭を力加減ができていない手でぐしゃと潰すようにしてなでる。しかし、セオの方はもうそれに慣れてしまっているのか(嫌な慣れではあるが)きゃっきゃと嬉しそうに笑うだけだった。
東眞はXANXUSが押し付けてきたパンフレットに目を通す。丁寧にイタリア語の文字の下には日本語訳が乱雑な文字で書かれていた。誰が書いてくれたのか、というのは聞かない方がいいのだろうかと東眞は向けられている大きな背中には小さく笑って、文字を斜め読みする。表紙からも分かったが、どうやら幼稚園に関するものらしい。そう言えば、セオも来年からはもうそんな年なのだと気付く。
「幼稚園ですか…そうなんですね、そう言えば」
「そこに決めた。入園手続きは老いぼれが勝手にやる」
「ティモッテオさんが。はぁ、そうですか」
東眞はぺらぺらとパンフレットをめくりながら、そしてふと手を止めた。
小さく一つの母音を漏らしたのを、XANXUSが聞き洩らすはずもなく、何だと一拍置いてから尋ねる。勿論、何が尋ねられるのかは想像がついていた。だがしかし、向けられたのは視線だけであり、東眞の口が動いたのは、いいえと否定の言葉だけであった。
何も聞かないのかと僅かに眉をひそめたが、聞かないのであれば聞かないで、それでも構わない。それか、彼女は既に分かってるのではないかとXANXUSは疑った。その真意に幾ら気づこうとも、それは無意味だと言うことに。
「沢山友達できるといいですね」
「…」
それは皮肉なのかと口元が僅かに歪む。しかし東眞の言葉はXANXUSの一種複雑な心情をよそにさらに続いた。
「構わないんですよ、XANXUSさん。どんな状態であろうと、友達は、友達に相違ないんです。どんな環境であっても、そこに芽生えるものは同種のものなんですよ。貴方が思っている以上に。それに、この先こちらで生きていくとなるならば――――――――それは、必要になるんでしょう。ティモッテオさんの心配も分かります。自分のせいで、例えそれが本人の意思が働いていなくても、被害が周囲に及べば悲しいのは本人です」
それは、知っていますと東眞は背中の存在を感じながら口にした。東眞が、自分の姉が誰を指して言っているのか、修矢はどことなく、それに気付いていた。
一度、そう言えば、姉に泣きごとを言った記憶がある、と。
友達が欲しいとこぼした記憶はあった。ただ、自分が友達を作るには状況が困難すぎた。自分の影になった同い年の子供たちはあっという間にすげ替えられていっているのを、知っていたからだ。友達ができれば、銃弾が降りかかるのは自分だけではない。大切にしたいものは、守りたいものは、当時幼く弱かった自分には到底持てるものではなかったのだ。
確かに、守るための壁が幾ら傷ついても自分は悲しくとも何ともなかった(昔は、の話だ)けれどもそれが自分を守るための壁ではないとしたら。ただ笑いあいたいだけの存在であれば。結局、友達は作らなかった。作れなかった。必要としなかった。必要とすれば、自分が傷ついた。
「XANXUSさん。そう気にされないで下さい。幸せだと思える場所は、いつだって自分で作ることができます。精一杯に手を伸ばして、逃げることをしないで。そう言う行為はいつだって遅くはない。いつ始めたって、いいんです」
私が貴方に出会えたように、と最後の言葉は舌の上に乗せることはなく、妻は夫の頬に触れた。セオは伸びてきた柔らかな母の手に、マンマ!と嬉しそうに声をあげてそちらに両の手を伸ばす。
そして東眞はXANXUSの手からセオを預かりつつ、目を細め、ゆっくりと微笑む。
「セオ、も。自分から手を伸ばすことさえ知れば、そういった幸せは、手に入れられることができますよ。きっとそれは他の人よりも少し難しいんでしょうけれど、それを羨むことより、手に入れることに全力を尽くす子に育ってほしいものですね」
まるで腹の底まで見透かされたような気分になって、XANXUSは赤い目をするりとそらした。こちらの心配など、全て一言二言で吹き飛ばしてしまう。彼女の人生観は、そういった意味で凄い。
そしてXANXUSはそこでふと東眞の後ろに立っている少年、もう青年であろうか、の姿に気付いた。
「まだ居やがったのか」
出ていって当然だったと言わんばかりの態度に修矢はぴくりと青筋を額に浮かべる。この寒空の下、綺麗な氷像になるのは全く御免被りたいところであるし、それに何よりも。
「おお、居やがったよ。アンタが、姉貴を正月に返さなかったから、態々会いに来たんだ。自業自得って言うんだよ、そう言うの。アンタの短絡的な脳味噌で分かるもんなら、分かってほしいとこだね」
「…人が優しく出ていけと命令した時に、てめぇは出ていくべきだったな。このカス野郎が」
「は!言うこと聞かなかったからってすぐに暴力行使か!アンタの脳味噌もたかが知れてるな。そこのひよ子の方がよっぽど頭いいんじゃないのか?大体俺はアンタの部下でも何でもないし、アンタなんかの言うこと一々二つ返事で聞く必要はないんでね」
「日本は年功序列社会だろうが。年上は敬う、常識じゃねぇのか?」
「お生憎様だな。不幸なことにアンタは俺にとって尊敬する人間には値してないんだよ。この我儘野郎め」
カスが、と短く唇が動いて、XANXUSの手に光が集まりだす。やはりこの展開になるのかと東眞を始め、ルッスーリアとスクアーロは慌ててそれを止めに入った。
「まぁまぁ、ボス落ち着いて!丁度東眞が腕によりをかけて晩御飯作ったばっかりなのよ!今ここで争ったりしたら、そんな東眞の努力も水の泡、よ?それにお腹すいてなぁい、ボス?」
「そ、そうだぞぉ。こんなチビ餓鬼いつだってローストにできんだろぉがぁ!」
「誰がされるか」
「修矢は少し黙ってなさい」
「…姉貴が、言うなら」
ぷく、と修矢は頬を片方膨らませて、城の主の怒りを納めている光景を少し遠くから眺めた。それに、ばーっかと聞きなれた少し腹の立つ声が耳に入る。修矢が振り向くと、その先には金色の髪をさらさらとさせた王子が立っていた。
「ボスに逆らうとか、マジ馬鹿じゃねーの。東眞困らせて楽しいのかよ」
「…困らせてるのは、俺じゃなくてアイツだ」
「ガキ」
「なんだ、
と、といいかけた修矢が見たのはボーダーシャツの背中で、ぐと言葉をのむ。悪いのはあいつではないかと唇を軽く噛む。血が滲む程ではないが。その時、耳にひっかくような咳が聞こえた。それは数回吐き出されて、そして止まる。そして修矢は見た。
赤い目が、ぞっとするほどに深い色で汚れていた。
咳をした張本人は、困ったように笑って平気ですよと手を振る。だが、東眞が言うことなど一切耳に入っていない様子で、XANXUSは東眞をセオごと抱き上げて、無言のまま大股で歩き出す。がつがつと大きい歩幅でその黒い背中はあっという間に小さくなって、角を曲がると消えてしまった。
「…あ、あれ、何だよ…え?」
あの対応はいくらなんでもおかしい。それは修矢にでも十分わかることだった。
確かにあの男の過保護、姉への執着の仕方はある意味異様といえるほどな事は修矢も知っている。だが、あれはおかしい。咳をしたくらいで、あんな目はしない。今までのあの男であれば、酷く不機嫌そうな顔をする程度ではないのだろうか。それが、持ち上げて連れ去った。
「スクア」
「…ところで晩飯はどうなってんだぁ?後何ができてねぇ」
銀色の剣士に修矢は咄嗟に話しかけたが、スクアーロは修矢の視線をするりとかわして話を切り替えた。それにルッスーリアはあらそうねと、まるで何も聞かなかったようにして話を続ける。
「レヴィが机の準備をしてるわ。揚げ物がまだだって聞いてたわよ。でもあれ、随分分厚いジャガイモだったけど…しかも冷めてたわよね?あれは揚げ直すってことかしら」
「なんかしらね―けど、ボスが帰って来てからとか言ってたぜ」
「おい!」
話を聞け、と修矢は無視をしたスクアーロの腕をつかむ。それにスクアーロは一度振り返ったが、その表情は普段と変わりない。
「何だぁ、ボスと東眞かぁ?あいつらなら大概あんな調子だぜぇ。今更驚くこともねぇだろぉ。餓鬼もできて心配加減の度合いが引き上げられでもしたんじゃねぇか?」
気にすることでもねぇ、とスクアーロは修矢にそうそっけなく返す。それでも納得いかないといった様子の修矢の肩にルッスーリアが手をまわして、ぐいと前方に押し出すようにして歩きだす。
「さ、ボスも行っちゃったし、今のうちに食卓に着いちゃいましょ。着いちゃったらボスも許してくれるわよ」
何故だか、奇妙な迷路の中に迷い込んだような感じを覚えながら、修矢は自分の足で床を歩く。
そんな修矢をベルフェゴールは後ろから見て、ふいとどこか苛立ちの見える口元でけ、と吐き出した。それにマーモンが、仕方ないさ、と小さくベルフェゴールの腕の中で答えた。
XANXUSさん、と東眞はセオを抱えた状態で自分を抱きかかえる腕を強く叩く。しかしながら、その屈強な腕がどうこうなるわけでもなく、そして足も止まらない。
「XANXUSさん!」
「」
強い声を張り上げるようにして叫んで、XANXUSはようやく足を止めた。赤い瞳がするりと動いて、ライトの下の灰色と黒の中間色の目を見つめた。
「大丈夫です。少しつっかえただけですよ。この間チャノ先生に治療をしてもらったばかりなんですから。そんなに心配されなくても大丈夫です。それに修矢も来ていますし、私は立っていなくてはならないんです」
「…」
「下ろして、下さい」
東眞の言葉にXANXUSは不愉快気に眉間に皺を寄せたが、渋々と東眞の足を床に着けさせた。腕の中のセオは、先程の父親の気配が恐ろしかったのかどうなのか、ひくりと喉をしゃくりあげた。
「倒れでもしてみろ、ベッドに縛り付けるぞ」
腕を組んで、酷く不機嫌そうにXANXUSは東眞を睨みつける。そんな瞳に東眞は困ったように目を細めて、そして微笑んだ。大丈夫ですときっと何回言ったところで、彼が心配することを東眞は知っている。今の自分の言葉ほど信用がないものはないのだから。
柔らかい靴を足に収めたまま、東眞はすいと廊下の上で靴底を滑らせるようにして、キッチンへと向かう。数歩歩いて立ち止まり、そこに立ち止まっているXANXUSに振り返った。やはりまだ、納得がいないと言わんばかりの顔をしている。
「折角作ったんですから食べて下さい。それに、少し面白い食べ物も作るんですよ。あと、今日は片付けはルッスーリアたちに任せて、すぐに寝ますから。そんな顔をされないで下さい」
東眞の言葉にXANXUSは深い溜息を一つついて、首を僅かに横に振った。そしてがつがつとブーツを鳴らして、東眞の横まで行き、その手で腕の中のセオを掴みあげると、自分の腕に抱え直す。
「行くぞ」
前を向いた赤い瞳に、東眞は静かにはい、と二つ返事をした。