33:進路相談 - 2/7

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 かじかんでしまった手と体を中から温めるために渡されたホットミルクの入ったマグカップ。
 修矢はふぅと一つ息を吐いてその熱い内容物を少しばかり冷まそうと努力する。猫舌ではないが、いやに熱そうに見える。そしてちらと小さな子供を膝に抱きかかえている姉の姿を見て、何とも奇妙な気持ちになった。
 黒髪に、釣り上がりがちの目。銀朱の瞳とその子供大きさだけが、自分がこの世で最も嫌いな男との一線を引いている。しかしながら、この子供が成長したりなどすれば、ああもうそれは、間違いなく殺意さえ覚えるほどの男に成長することだろう。
 修矢、と優しい声で呼ばれて、修矢はちらと視線を上げる。そこには優しい姉の姿があった。どこかで心を落ち着けながらホットミルクを二口ほど飲んで、前方にある机の上にそれを乗せた。やはりまだ寒いようで、それから立ち上る湯気はふわふわと白いままである。
「マンマ、だーれ?」
「修矢…おじちゃんですよ」
「お、おじ…っ!」
 間違ってはいないのだが、この年でおじちゃん扱いは御免被りたいところである。案の定少し離れたところから弾けた、馬鹿にしたような笑いが響いた。
「おじちゃんだってよー!しし、おーじちゃん!」
「…うるさい」
 セオ、と呼ばれてその小さな子供は小さな手を大きな修矢に向かって、仲良くしようというよりも半ば好奇心に近いそれで手を伸ばした。だが、見れば見るほど「あの男」に瓜二つである。きっとかの男が小さい頃はこんな外見だったに違いないと彷彿させるほどには、似ていた。
 修矢は伸ばされた手をはたき落としたい気分を必死にこらえつつ、指先に触れた柔らかな感触に口をへの字に曲げた。しかし、その手はすぐに離れる。なんだろうと思い、ちらと子供の方へと目を走らせれば小さな子供はどこか泣きそうな顔でこちらを見上げている。怯えたように手を引っ込めて、母親の腹にきゅぅとしがみ付くとマンマ、と甘えるように声を出した。
 東眞はそんなセオの背中を優しくさすりながら、修矢と困ったように自分の弟へと目を向ける。別に責められているわけではないのだが、その困ったような目は苦手だと修矢は軽く唇をかんだ。
「怖い顔してるよ、修矢」
「し、してない」
「眉間にそんなに皺寄せて不機嫌そうにしてれば、子供は逃げちゃうんだから。こんなに可愛いのに、ねぇ」
「マンマーぁ。おじちゃん、こわい」
「だから、誰がおじちゃ…っ!」
 んだ、といいかけて修矢はそこでぐっと言葉を押しとどめる。
 このままでは先程の二の舞といっても間違いではない。ごほんと一つ息を吐いて、その小さな頭をポスポスと叩いてみる。髪の毛はふわふわと柔らかく、指先にほんのりとした感触を与えた。
 セオはそんな修矢に先程の顔を一転させて、柔らかい笑顔を向けた。だが修矢にとってはそれは憎い男の奇妙な笑顔に他ならない。何故姉貴の遺伝子を濃く受け継がなかった、と修矢は心底思った。
 東眞はくすくすと笑いながら、修矢の指先にふと触れてああ、と声を上げる。そして、その手をすいと両手ですくいとって、温めるように細い両手で包み込む。あ、と修矢はその行動にほわりとしながら目を細める。小さい時に、よくよくやってくれていたことだった。
 寒さでかじかんだ指先を自分よりも一回り大きな手でそっと包み込み、そして温めてくれた。それが今はもう彼女の手は自分の手よりも一回りも小さい。それでもその温かさだけは変わらない。冷えてるね、と姉の声がかかり、弟はうんとほっとしたような顔で微笑んだ。
 それを遠方から眺めていたベルは非常につまらなさそうに唇を尖らせる。隣でコーヒーに口をつけていたスクアーロはやれやれといった様子で肩を軽くすくめた。これで彼女の旦那が帰ってきた場合のことを考えるとあまりいい様子は全く思い浮かべることができない。あまり、どこではないのだが。どちらにしろ彼が、桧修矢という少年が来たことによって、またひと騒動ありそうではある。
 コーヒーを片手にスクアーロはすっくと立ち上がって、二人が座っているソファに近づく。カップを持っていないほうの手をどしりとソファの背もたれにつけて、うお゛ぉ゛い、とほのぼのとした空間を破壊した。もしも、これで東眞の隣にいたのが修矢ではなく、XANXUSだとしたならば、確実にグラスが飛んできていたであろうが、幸い彼はかの男ではない。
 二人のどこか同じような雰囲気を思わせている目がつるりと滑ってこちらを見る。
 何が似ているのか、といわれれば外見的には全く、もう隣の少年が成長したために似てはいない。けれどもこの二人は目元がよくよく似ている。形が、ではなく雰囲気が、という意味で。対照的ではあるのにな、と思いつつスクアーロは口を開いた。
「で、てめぇは何でこの寒空の下こっちにわざわざ来てんだぁ?」
 スクアーロの質問に修矢はむっと顔をしかめながら、吐き捨てるように当然だろ、と言った。以前は少し懐かれていたようだが、今ではなぜか少しの敵対心が見られる。余程正月東眞を返さなかったのが堪えているのか。
「一日!一日俺は空港で姉貴を待って夜を明かしたんだからな…どうせ、どこかの誰かが、ああ、誰とは言わないさ!でもその誰かが間違いなく姉貴をこっちに引きとめてるんだっててのは想像ついた」
「あーご、ごめんね?」
「…姉貴には、怒ってない。俺はあの男に怒ってるんだから」
 気にしなくていいよ、と修矢は東眞には、多少拗ねたような空気はあったがそう返した。
 これは修矢とXANXUSがあった途端乱闘の予兆が立ったのだろうか、と東眞とスクアーロはそう感じた。今ここにXANXUSがいないのは神の采配なのかもしれないと、無心人であるにもかかわらず二人はそんな風に思う。
「…で、まさかとは思うが、それだけでこっちに来たわけじゃねえんだろぉ?流石に」
「何か電話じゃ話しづらいことでもあったの?」
 修矢が現在どういう立場の人間かは分かっているので、二人はそんな言葉を返す。そして彼がただ姉恋しさにわざわざイタリアにまで理由もなく足を運ぶこともないと言うことも、既に分かっていた。
 スクアーロと東眞の言葉に修矢はまぁ、と小さく返す。
「ちょっと…その、将来のことについて」
 電話越しに相談してもよかったのだ、と修矢は思っている。ただそれをしなかったのは、したくなかったからであり、聞かれたくなかったからでもある。そして、現在自分の手をやわらかく包んでくれるこの二つの手に意見を請いたかっただけなのだろうと。
 体を預けているソファの程良い柔らかさ。ホットミルクはまだ湯気を立ててそのまま机の上に固い物体に入ったまま置かれている。自分から遠く離れてしまった大切な存在を思いつつ、修矢はその手の中でずっと手が冷たいままだったらいいのにとそんな風に思った。
 黙り込んでしまった修矢に東眞は一瞬怪訝そうな目を向けたが、そっとその手をはずして、随分と大きくなった弟を抱き寄せる。短く切られた黒髪がくすくすと頬の皮膚をこすった。膝に乗せているセオは覆い被さるようにしてきた修矢の体に驚いたのか、さっと東眞の膝の上から降りた。それでも母親のそばから離れるのは躊躇われたのか、きゅっと小さな手を長いロングスカートに結び付けたが。
 黒髪の、姉の懐かしい香りに混じる男の香りに修矢は少し腹を立てたが、それでもそこには柔らかな姉がいた。
「まだ言ってなかったね。おかえり」
「…ん、ただいま」
 ただいま、と修矢はもう一度繰り返して、まるで子供のころに戻ったように東眞の体を抱きしめた。気のせいか、随分と細くなったように感じる。そして小さくなったようにも感じた。それは自分の成長のせい。
 が、とたん激しい音がして、うんざりしたような声が上がる。
「あー!壊れた!」
「何やってんだぁ、ベル」
「東眞ーマグカップ壊れたー!絨毯も汚れたー」
 ベルフェゴールの声に東眞は修矢から手を離して、そちらの方へ向かうために立ち上がる。
 あっという間に無くなってしまった姉のぬくもりに修矢はぎん!と凄まじい勢いでベルフェゴールを睨みつけた。修矢の視線に気付いたのか、ベルフェゴールは絨毯を拭いている東眞の隣で、にやぁ、と口元を笑わせた。
 わざとだと言うことは明白で、修矢の頭にかっと血が上る。あわや血の海になるかと思われたが、そこはスクアーロは咄嗟に止めに入る。こんなところでそれは御免である。東眞が困るのも目に見えているであろうし、というのも理由の一つではあるが、何よりも恐ろしいのは我が上司なことは間違いない。
「気をつけて下さいね。火傷はしてませんか?」
「…ちょっと、手首にかかったー…し、王子火傷の手当ての方法とかしらねーし。なー東眞、どーしたらいーんだよ」
「流水で冷やした方がいいですね。修矢、私は少し…修矢?」
「嘘吐きだ!!そいつ手首なんかにかかってなんかない!」
 スクアーロが手で止めて入るが、口まで止めることは不可能である。我慢ならないと修矢はぎりっと歯がみした。べーっとその東眞の見えないところで舌を出しているのがさらに癇に障るようで、その拳を握りしめる。
「げーっ、大体お前見てすらねーじゃん。人を嘘つきよわばりすんなっての。ばーっか」
「――――――っ!!こ、の」
「ま、待て待てぇ、落ち着けぇ!」
 置いていた刀を入れている袋にとうとう手をかけた修矢にスクアーロはぎょっと目をむく。それに呼応するようにベルフェゴールもやんの?と口元を歪ませて、その手に大量の銀色の武器をどこからか取り出す。
 勘弁してくれ、とスクアーロはそんな二人に泣きそうになった。
「ベル、てめぇも」
「修矢、下ろしなさい」
 響いた声の冷たさに、ぞっと部屋の温度が数度一気に下がったような錯覚に襲われる。眼鏡の奥の瞳は、どこまでも冷たい。
「だって、悪いのはそ
「聞こえませんでしたか、下ろしなさい。ベルも、下ろして下さい。あと、人を心配させるような嘘は、止めてください」
 つまらなくなったのか、ベルフェゴールはちぇーっと舌打ちを一つして元座っていたソファにどすんと腰を下ろす。修矢も武器を大人しく下ろして、ごめんと一つ謝る。
 ひどくしょげたような弟の姿に東眞はそっと手を伸ばしてその項垂れた頭に触れる。
「簡単に武器を抜くような、そんな風に誰が教えたんですか?」
「…ごめん。ごめ、んなさい」
 それなら旦那はどうなる、とスクアーロは一瞬そう聞きかけたが、彼の場合は実際殺したりはしないことは分かっているのだろう。ほとんど戯れ(あんな戯れがあって被害をこうむる方はいい迷惑だが)なので、双方とも嫌な雰囲気になったりはしない。本気で、斬ろうとしていたのを察知していたならばそれは大層なことだと思わざるを得ない。
 柄を握るために解いた紐を修矢はその手でもう一度巻き直す。東眞は息を吐いたが、修矢はその動きを一瞬止めた。そして足元にしっかりと突進して抱きついていた子供に目を落とす。銀朱の瞳がきっとこちらを睨みつけていた。
「めーっ!!おじちゃん、めっ!」
「…だから、おじちゃんじゃ…いや、叔父だけど…間違ってないけど…」
「ベルとアーロ、いじめるの、めっ!」
「―――――、わ、かったよ!いじめない!というか、いじめられてるのこっちだ!」
 そこで怒鳴って、修矢ははっと口を手で塞ぐ。大きな声で苛立ち紛れに怒鳴りつければ、どうなるのかは自明である。ぶわ、と銀朱の目が涙でうるんで来る。本当にあの男の息子なのかと疑いたくなるほどの感情の豊かさ。
「う、ぇ、」
「お、おい」
「はいはい、セオ。泣かないんですよ」
 そう言って東眞はもう随分と大きくなったセオを掛け声と一緒に抱き上げた。微笑みながら、その頬をつんつんと指先でつつきつつ、ほら、と笑顔を求める。それにつられるようにして、子供は目を細め、にこぉと笑った。
 姉の手際の良さに修矢は感動の一種を覚えつつ、呆然とその様子を眺める。隣にはスクアーロがおら、と落ちているぬいぐるみを渡していた。
「アーロ、Grazie!」
「おお、気にすんなぁ」
 まるで父と子の様なそんな関係を見つめながら、修矢はぼそりと呟いた。
「…スクアーロが父親だったらよかったのに…」
「や、やめろぉ!うっかりでなくても俺が死ぬことを言うんじゃねぇ!!」
「姉貴のどこが不満だ!」
「そういう問題じゃねぇだおぉ!!」
 修矢の言葉に光速で反応を示して、ざっと青ざめたスクアーロに修矢はむっとして言い返す。だが、スクアーロにしてみればそんな問題ではないのだ。
「俺としては、哲と姉貴が結婚するのが最善だったんだけど…」
「…はいはい」
「本気で言ってるんだけど、姉貴」
「でも私も哲さんもそういう関係じゃなかったしね…何というか、修矢を温かく見守ろう同盟みたいなものが…」
 あっただけで、と苦笑した東眞に修矢はちら、とスクアーロの方へと視線を再度向ける。槍がこちらに向いたとスクアーロは頬を嫌そうに引きつらせて数歩下がる。
「この際文句は言わない。でも俺はあの男が姉貴の旦那だとか、本気で嫌だ!奪い取れ!」
「無茶言うんじゃねぇ!つーか、嫌に決まってんだろぉ!俺はこいつに恋愛感情は一切持ってねぇ!」
「今からでも遅くないって!」
「人妻に手ぇ出す程俺は飢えてねぇぞぉ!」
 いい加減にしろぉ!と怒鳴ったスクアーロと修矢のやりとりを東眞の腕の中で聞きながら、セオはマンマ、と笑う。東眞ははい、と二人をよそに可愛い我が子に返事をした。
「セオの、バッビーノ」
「はい」
「たーくさん」
「知ってますよ。ベルはお兄さんなんですよね」
「Si!」
 元気よくされた返事に東眞は時計を眺めて、ああそろそろ帰ってくるころだろうかと、顔に傷のある男の帰宅に気付いた。
 この状況を見て、彼が何というのか、どういう行動に出るのか、想像すると少しだけ溜息がこぼれた。