32:情操教育 - 6/7

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 がつん、と目の前の机の上に放り投げるようにしてその足を乗せている。赤い視線の向こうには、紅茶をカップ片手に飲んでいる老人が一人、座っていた。
 老人はカップを机にことりとソーサー戻してにこ、と微笑んだ。吐き気がしそうだ、とXANXUSは赤い目をさらに沈ませた。
「飲まないのかね」
「ママゴトに付き合ってる暇はねぇ」
「落ち着きなさい、XANXUS」
 くたばり損ないの狸めと吐き捨てながら、XANXUSは息を一つ吐いた。けれども、そのルビーだけは未だに鋭い。
 ティモッテオはやれやれと苦笑し、その前に一つのリボンのついた箱を置いた。その動作にXANXUSはこれは何だと言わんばかりに、顔をむっと顰める。それにティモッテオは笑顔で説明をする。
「可愛い孫ももう大きくなっただろう?それで林檎が大好物だときいてね、アップルパイを取りよ――――――!」
「黙れ」
 XANXUSはティモッテオが最後まで言い切る前に、ぐしゃと机の上で組んでいた足で置かれた箱を踏み潰す。無残に踏みつぶされたラッピング済みの箱の両端から、じっとりとアップルパイの残骸の液体が滲んだ。
 ああ、と絶望に打ちひしがれたティモッテオの嘆きが部屋に響く。どうやらそれで孫の気を引こうとしていた模様だった。三時間並んで買ったのに、と嘆いているティモッテオにいらいらしながら、XANXUSは強くティモッテオを睨みつける。
 しかし、このままこの姑息な狸のペースに巻き込まれていては話にならない。用件は短くさっぱりとかつ分かりやすく。
「老いぼれ。てめぇ、まさかこれだけのために呼び出したのか。このクソ忙しい時期に」
「忙しい中、可愛い孫と息子に会いたがる私の心きょ…っああ!」
 XANXUSはブーツの下で潰れていた箱を容赦なく燃やしつくした。全く無駄な時間を過ごしたものだ。そこでXANXUSはふと思い出して、あるファミリーの名前を口にした。愚かしくもこのボンゴレにたてつこうとしたファミリーの名前。
「おい、じじい」
「Babboと呼んでくれてもい…冗談だよ、XANXUS」
 片唇がつり上がって中の食いしばっている歯が見え、片手に持った銃が自分の方を向いている光景にティモッテオは、ははと笑った。これ以上くだらない話題に付き合うのは冗談ではない、とXANXUSは無理矢理話を切り替えた。
「コモファミリー。リストに名前が挙がってねぇ」
「…ああ、挙げて、いないね」
 ふと先程までのちゃらんぽらんな空気が一掃されて、その場の雰囲気が冷たくひどく寒いものに変わる。
 あの沢田綱吉に見せてやりたいところだとXANXUSは腹の中で笑う。てめぇが大好きな九代目はどう転んでもドンボンゴレに他ならない、と。甘っちょろい上辺を幾ら述べていたところで、優しい面を幾ら見せていたところで、この老人はコーザノストラの頂点に立つ男なのだから。何しろ、自分のヴァリアーに任務依頼をしてくるのはボンゴレ本部以外にはありえない。つまりボンゴレ本部以下の依頼の最終的な裁可を下すのはこの男だと言うことだ。勿論、「独立」暗殺部隊なだけあって、こちらの裁可で暗殺を果たすこともあるのだが。
 おきれいな面だけ見て、この男を優しい老人だと勘違いしている連中ほど馬鹿なものはない。確かに、穏健派と言われるだけのものはあるのだろう。だが、やっていることは、大なれ小なれ同じである。
 我々コーザノストラはそうやってこのイタリアの地に君臨している生物だ。
 ティモッテオの指先がもう冷めてしまった紅茶のカップを手にして、口へと持っていく。こく、とその枯れた喉が上下に動いた。短い息が一つ吐かれて、カップが緩やかな動作でソーサーに戻される。ティモッテオの口が言葉を発するために開かれる。
「何しろ尻尾がつかめない」
「疑わしきは罰せず、か?くだらねぇ。吐かせりゃいいだろうが。拷問室なら、腹空かせて口開けてるぜ」
 は、と笑ったXANXUSにティモッテオはゆっくりと首を横に振る。これが、この男が穏健派だと言われる所以だ。強硬派であれば、疑わしきを罰する。骨をへし折り、締め上げて、そして殺しつくす。
 勿論このドンボンゴレとて、疑惑が確信を得れば、容赦なく根絶やしにすることだろう。依頼の受け手はいつでも牙を磨いで待っているのだから。
 ティモッテオの皺に刻まれた指が膝の上で組まれる。慣れた仕草は一枚の絵のようにすら見えた。
 まぁいい、とXANXUSは机の上に乗せていたブーツを絨毯の上に戻す。机の上にはまだ潰れたアップルパイ、勿論燃えかすだったが、があった。
「襲撃を受けた。くだらねぇ会食の行きしだ。誰が、知っていた?」
 その問いかけにティモッテオはぴたりと視線を赤い目に固定する。XANXUSが言いたいことを汲みとって、その言葉を喉の奥から持ち上げてくる。
「…それはつまり、」
「内通者だ。どこどいつかしらねぇが、コモに売ったカスが居たみてぇだな。あぁ?」
 今日の会食、ボルジファミリーは秘密裏に行われたものであった。会食場所を知っていたのは、自分とそれから運転手。そしてボンゴレ本部幹部。ボルジ側もそれは同じである。しかし自分の車がどの道を通って会食場所まで行くかは、ボンゴレ側しか知らない。つまり、内通者がいるということとなる。
「…」
「じじい、俺を殺したいなら核爆弾でも持ってこいと言っておけ」
 考え込んだティモッテオにXANXUSは口元を歪めて、楽しむかのようにそう言った。XANXUSの言葉が終わった後に、内部を洗うことを口にした。だが、すぐにそれを打ち消すようにいや、と逆接の接続詞を口にする。
 そんな甘い砂糖菓子のような希望染みた考え方にXANXUSは、吐き捨てるような舌打ちをした。
「甘い観測は捨てろ。コモ程度のファミリーにボンゴレの情報料が払えるとは思えねぇ。それは――――――てめぇも、分かってんだろうが」
 情報屋、というのは利用するときは非常に便利だが、利用されると非常に不味いものとなる。特にそれがシルヴィオ程の情報屋となれば尚更だ。死人に口なしとは言うものの、あの男を死人にした場合、損害の方が大きい。あの男の後ろ盾である「情報」はそれこそが最強の盾である。
 だが、情報屋は情報を武器に仕事をしているため、自身が受け持っている情報がどれくらいの価値があるものか、最も理解している。そしてこのボンゴレの情報は、酷く高い。
 その男が噛んでいないならば、今回の件は完全にボンゴレ側が情報を漏らしたと言うことになる。コモに。
ならば内通者は誰か。噂の情報屋にボンゴレ内部に内通者がいることなどはこちらから、話す必要はない。ボンゴレ内で片付けるのみ。
 裏切り者には死を。
 XANXUSはふと時計と空の具合を見て立ち上がった。仕事の時間である。はためいた隊服にティモッテオは声をかけた。
「XANXUS」
 懇願を持った響きにXANXUSは赤い目だけを動かす。この男は、チャンスを与えるつもりなのかと。XANXUSは顎を上下させて、腹筋を使うことで声を作り出した。
「――――――てめぇが殺らねぇなら、俺が殺る。コモの件に関しては後日また来る」
 苦しげに眉を寄せたが、ティモッテオはああ、と短く答えて頭を落とした。そして扉の開く音にはっと顔を上げる。
「東眞さんは、元気にしているかね」
 ティモッテオの言葉にXANXUSはふと足を止めた。
「立ってるときに、会いに来い」
 その言葉にティモッテオは目をぱちんと丸くする。そして、お前、とその髭を撫でさする。止まった声にXANXUSは何だと眉間に皺を寄せて振り返る。
「若いからといってあまり励むと、東眞さんの方がばててしまうから気をつけなさい。女性は繊細だからね。しかしセオもまだ小さいとはいえ、同じ部屋で事に及ぶのはあまり関心し
「黙れ!このエロじじいが!!!」
 何勘違いしてやがる、とXANXUSはドアノブを壊してティモッテオに投げつけた。勿論、言うまでもなく、ティモッテオは笑顔でその攻撃をかわしたが。

 

 すっかり重くなった買い物袋を片手に修矢は藤堂の背中を見ていた。
 レジでこの男が、レジ袋はいりませんと断ってエコ袋をポケットから取り出したのにはとても驚いたが。環境に優しい男、藤堂雅。全く笑えない。
 その男の顎は上下に動いている。先程からミント味のガムをガシガシと懲りないほどに噛んでいた。そんなにそれが好きなのか、と思いつつ修矢は夕日で伸びたその影を踏みながら歩く。
「ああ、そういえば、今日の主旨を言っていませんでしたか」
 歩きながら藤堂の口からこぼれた言葉に、修矢は今日の出来事に主旨なんぞあったのかと目を丸くする。
 何しろ今日したことと言えば、幼稚園を訪問して、そこの子供たちと日が暮れるまで遊び続けると言うものだった。そして最後には買い物。むしろ趣味に付き合わされたのではないかと疑っていたのだが。
 藤堂はガムをもう一枚口に入れて、また噛み始めると穏やかな笑顔で振り返った。怪訝そうな修矢の顔を見て、修行だと言ったでしょうと笑う。
「あなたに決定的に足りていないのは、気配を読むと言うことです。特に自分に向けられていない気配を読む能力に関しては全くと言っていいほど鍛えられていない。殺気など敵意に関しては、あなたはとてもその感覚を磨いていますがね。ただ、その反対となると全く問題外です」
 いい経験になったのではありませんか、と藤堂は歩きながら、先程まで噛んでいたガムで風船を作る。
 それに修矢はそんな意図があったのか反対に驚かされた。確かに、隠れようとしている気配に関して、探すのはかなり苦労した。対して、缶を蹴りに来ようと飛び出した子供に関してはすぐに体が反応したのだが。
 黙った修矢に、藤堂はでしょう、と笑う。そしてそれから、と続けた。
「少し、息抜きを。あなたの世界はまだまだ狭いですからね。もっと広いものを眺めておくのもよいかと。あなたがどの道に進むのかはあなたの自由ですが、見られるうちに色んなものを見ておきなさい。やがて、それすら見れなくなってしまう前に」
 そう言った藤堂の表情に、修矢は開きかけた口を閉じる。
 聞いてもよいと言われたこの男の過去だが、修矢はシルヴィオから聞いても面白くない過去だと、聞いている。それがもし、この現在の藤堂雅を作ってしまった過去ならば、尚更それに触れたくないと修矢は思った。
 彼の過去は恐らくきっと、自分が触れていいものではないだろうし、触れて反対に食らわれてしまう、ミイラ取りがミイラになりそうで恐ろしい。それほどまでに、この男の形はひどく大きく歪になってしまっている。外ではなく、もっとこう、本質的なものが。
「藤堂さん」
「はい、何ですか?修矢」
 ガムをもう一枚口に含んだ藤堂の顔を修矢は見る。それは、普通の、顔だった。自分のことを子供扱いしてくる男。甘やかしてくる男。それはひどく心地よくて、同時に心地悪い。
「―――――――――俺を、早く強くしてください」
 そんな「子供」という甘美な響きに惑わされないように。子供であることを自分がふとした瞬間に望んでしまわないように。頼ることは、自分が子供だからなのではなく、ただ相手と対等であり、信頼しているから頼るのだと言えるように。
 この男が幾ら自分を子供だと言っても、自分は子供ではいられない。子供であってはいけない。自分の肩に乗っているものの重みを知っているから。自分が踏みつぶしてきたものの色を知っているから。
「早く」
 ならばどんなものでも利用する。
 向けられた修矢の瞳に、藤堂はガムを噛むのをやめて、包み紙にくるむと、側にあったゴミ箱に捨てた。そして大きく伸びをして、笑う。夕日に半分染まったその笑顔は、穏やかで、やはり歪んでいる。
「子供は、早く大人になりたがるもの、ですか」
 寂しいですね、と藤堂の声は夕焼けに溶けて消えた。