32:情操教育 - 4/7

4

 いつの間にやら心音に安心したのか、胸に顔をうずめてすゃすやとセオは東眞の膝の上で寝息を立て始める。そう言えばシェスタの時間だった、と空の色を見上げて東眞はそんなことを思った。犬は大人しくXANXUSの足元で伏せをしていた。体から離せば、その可愛らしい眦は泣いたためか、ほんのりと赤くなっていた。指先でそこを優しくする。
 隣からにょきっと腕が伸びてきて、膝に乗っていた子供をつまみ上げるように持つと、そのままセオはUFOキャッチャーのようにXANXUSの黒い膝に落ちた。それでも目が覚めないのは鈍感なのか、もういい加減にこう言った行為に慣れたかのどちらかである(どちらであってもあまり嬉しいものではないが)固い膝の上でも一向に目覚めず、すやとしているセオにXANXUSは赤い目を下ろして小さく鼻を鳴らした。
 こうやって見ている限りでは、全く可愛らしい父子である。と、東眞は思ってる。ティモッテオに写真を送ったら大喜びすることだろう。そんなことを考えているのがばれたのかどうなのか、XANXUSの咎めるような赤い目が東眞へと向けられた。
 ぱく、とその口が何かを言おうとして一瞬だけ動いたのだが、それは音を伴うことなく閉じられてしまった。何かが言いたかったことは確かなのだが、今までの行動では何が言いたいのか東眞ですらよく分からない。
「どうかされましたか」
 分からない、という意図を持って東眞はXANXUSにそう問いかけるが、XANXUSはと言えば、何でもねぇとぶっきらぼうに返しただけだった。どうにも何でもない風には見えないのだが、言いたくなければそれは仕方ない。そうですか、と東眞はそこで話を変えた。
「スィーリオ。スクアーロたちに感謝ですね」
 くすと笑ったその声にXANXUSは理解できないといった風に眉根を寄せる。その表情からは、何でこの俺があんなカス共に感謝しなくちゃならねぇんだ、という気持ちが見て取れる。あまりにも分かりやすい。ついつい東眞はそんなXANXUSの表情に苦笑をこぼしつつ、それはと続けた。
 はたから見れば、東眞だけが会話をしていると言う不自然な光景だが、恐らく幹部の誰が見ても、もうそれは普通の光景なのだろう。寡黙な男は得をする、というよりも寡黙な男は楽をするの方が正しい。
「スィーリオが来てから、セオから目を離せるようになりましたから。ルッスーリアたちも忙しい中申し訳なかったので」
「どうせ気にしちゃいねぇ。押しつけろ」
「なら、XANXUSさんにも押しつけても?」
「…」
 綺麗に切り返されて、XANXUSはむ、と口を噤んでしまう。先の二人きりでの留守番は痛い目を見たので、もう当分はこの子供の相手をするのは御免である。
 そうすれば、隣から堪え切れないように小さな笑いがこぼれている。そちらへと視線を向ければ、顔を背けて必死に笑いをこらえている東眞がいた。
 妙な気恥しさを覚えて、XANXUSはその背中におい、と声をかける。東眞ははいと返事をしたものの、振り返って、やはり顔を落として笑う。笑い過ぎだと思いつつもそれを言葉に乗せることも奇妙に憚られて、XANXUSはふんと一つ鼻を鳴らすだけにとどめた。ひとしきり笑って、東眞はすみませんでした、と謝る。
「ああ、でも時々お願いするかもしれません」
「冗談じゃ
 ねぇ、と言いかけたところでXANXUSの言葉が止まる。隣で、げほ、とつっかえたような咳を東眞が繰り返した。眉間に皺が寄って体を区の字に折り、止まらない咳が繰り返される。咳込むたびに、その細い背中が上下に揺れた。
 XANXUSはおい、と声をかけかけたが、東眞はそれどころではなく、止まらない咳を抑えようと口元を両手で押さえる。
 強い咳を一回二回、三回繰り返して、弱い咳が五六回ほど続く。呼吸が苦しくなったころに、ようやく咳はおさまった。咳込んだせいで、喉が痛い。東眞は置いてあったカップを取って、随分とぬるくなってしまった紅茶を唇につけた。痛んだ喉にそれが沁みた。けは、と最後に一つ咳をついて東眞は下を向けていた視線を持ち上げた。冷や汗が体にひたりとへばりついている。それを一つ掌で拭いとって、息をつく。
「おい」
 かけられた言葉に東眞は未だ少ししんどかった体をしっかりとさせて、はいと返事をしつつ子供を抱えているXANXUSへと目を向けた。どこか責めるような目つきでXANXUSはこちらを見ている。東眞はその視線に苦笑をこぼす。
「大丈夫ですよ」
「ぬかせ。てめぇの顔、鏡で見てこい」
 そう言って、XANXUSは座っている東眞の腕を掴んで無理矢理ひき立たせたが、その時歪んだ顔にぎょっとして掴んだ手を離す。
 何度も見てきたことのある、「痛み」に関する歪み方をした。東眞はもう一度、大丈夫ですと繰り返した。だが、どう見たところで大丈夫そうには見えない顔色である。青ざめた顔と、痛みに歪んだ顔を見て一体どこを大丈夫と見ろと言うのか。
 XANXUSはセオをしっかりと片腕で抱え直してから、東眞の方へと手を伸ばした。伸ばされた手に東眞は首を弱弱しく横に振る。しかしそんな行為はXANXUSにとってまったく無意味であるし、効果がない。立った姿勢から膝と上半身を曲げて、片腕だけで器用に東眞を持ち上げる。持ち上げた体は以前よりか、軽い。食べているはずなのだがと思いつつ、平気だと言う割にぐったりとしているその体を自分に預けさせる。もう片方の腕に持っている子供をゆり起してやろうかと思ったが、もう遅い。
 ち、と一つ舌打ちしてゆっくりとブーツで芝生を食むようにして歩く。がつがつ歩いては、落としてしまうのでできるだけゆっくりと。すみません、と耳元で小さな声が響く。触れている肌は驚くほどに冷たい。ほのかな体温を感じなければ、死体にすら思える。
「おい」
 はい、と弱い声が返ってくる。呼びかけて、返事がなかったらそれは死体に相違ない。返事があったことにどこかしら安堵を覚えつつ、XANXUSは開けられた裏口の扉をくぐり、そこから廊下へと入る。室内は適度な温度に保たれており、寒くも暑くもない。
 先程まで元気だったのに、突然死にかけの鳥のように弱い。成長すればする程に重たくなっていく片側の命と比べて、時がたつほどに冷たく弱くなっていく体。僅かにぞっと、した。
 部屋の扉を蹴るように開けて中へと足を踏み入れる。ブーツが今までの固い石の床とは異なった、柔らかな絨毯を踏みしめる。そう歩く必要もなく、白いシーツがかけられたベッドがそこにある。一月に一週間は必ず女の体があるベッド。
 糸目の男はある程度は持ち直している、と報告してきた。出産してから随分と経ち、餓鬼も大きくなったと言うのに、この女の体は少しも良くならない。良くなっていると言われていても、こういう場面に遭遇すると、やはり良くなっていないとしか感じることができないのは仕方ないだろう。
 ぐでーと垂れている子供の体をベッドのわきに放り投げるようにしておくと、片腕の力ない体を空いた手でシーツをまくってその下に横たわらせる。
 ほう、と唇から息が細くは吐かれて、その仕草が一瞬艶めかしく映り、誘っているのかとすら思ったが、それは当然ないので、考えを改める。体を動かすのも億劫なのか、青い顔で身じろぎ一つしない。放り出されている細い手を握ってみる。そうしてみると、相手の手がどれだけ小さいのかよくわかる。そう小さい方ではないのだろうが、こちらの手も大きくしっかりしている分余計に細く見える。
 自分の体温が奪われるような感覚にとらわれていると、その指先がかり、とこちらの手の甲をひっかいた。目が申し訳なさそうに動いて、すみません、と口が音のない言葉を紡ぐ。
「…謝るんなら、ちったぁ丈夫になれ」
 暫くもそうしていると、体が温まり落ち着いてきたのか、東眞はようやくその体を起こした。だがXANXUSはそれに咎めるような視線を向ける。そんな視線に、東眞は大丈夫です、と本日何度目になるか分からない単語を繰り返した。
 顔色も青から普通の肌色に戻って、一見普通のように見える。
「あったのか」
「何がですか?」
 XANXUSの問いかけの意味が一瞬では理解できずに、東眞は反射的に問い返す。しかしすぐに、ああと理解して、まぁとはぐらかすように答えた。
「そんなに多くはないですよ。貧血のようなものです。町中でとかはありませんでしたし…そうなっても、外出は誰かと一緒ですから。今日、XANXUSさん任務でしたよね。ちゃんと、私にお帰りって言わせてくださいね」
 私のことは心配されなくてもいいですよ、と笑った東眞だったが、XANXUSはそうではないと眉間の皺を深める。人のことは必要以上に心配するくせに、自分のことと言えばこれかと腹立たしいことこの上ない。
「本気で言ってるのか」
 言葉をできるだけ選んでXANXUSは睨みつけるようにしてそう言う。強い赤の視線に東眞は目を細めてそれを受ける。座っている男を見て、そして緩やかに微笑んだ。
「私にとっての、一番は貴方ですけど」
 けほ、と一つ残っていた咳を吐き出して、東眞はXANXUSの頬に自分の掌を添える。掌に深く残っている引き攣った皮膚の感触が伝わる。
「貴方にとっての一番は私であっては、いけないでしょう?」
 光が差し込んで、黒いその目が灰色に光の加減で変わる。
 頬に添えられた手の上に自分の手を重ねて、ああ、と短く答えた。その答えに東眞はゆっくりと手を頬から離していく。掴まれた手、力はそうはいっていない。
「今日はレヴィさんが任務がないんですよね。しょげてましたよ、ボスのお役に立てないって」
「くだらねぇ。あいつにばっか任務まわしてどうする」
「それは心配してるんですか?」
「知るか。適度に回してるだけだ」
 悪戯っ子のように笑った東眞にXANXUSはは、と一つ息を吐いて、鼻先でそう返した。
 ベッドの端に転がされていたセオがそこでようやくぱちりと目を覚ます。向かい合う二人の姿を見て、へら、と顔を笑わせる。東眞はそんなセオに手を伸ばして、腿の上にすとんと乗せる。
「もうこんな時間ですね」
「ああ」
 XANXUSはそう短く告げて、かたんと音を立てて椅子から立ち上がる。見下ろした先にいるのは、一人の女と、一人の子供。
 セオはふっと背を向けた父親の背中に、ぱっと手を振って声を上げる。
「Bugn lavoro!(行ってらっしゃい)」
 その声にぴたりとXANXUSの足が止まって、ごほと咳込む声で片が小さく揺れる。そして、ちらりと赤い目が振り返って、穏やかに笑う、自分にはどうにも不釣り合いなその笑顔に向けて、口を開く。
「Ciao(行ってくる)」
「Cia―――――o, Babbino!!(行ってらっしゃい、バッビーノ)」
「行ってらっしゃい」
 気恥しさを覚えて開けた扉の前では、子犬が、わふ!と吠えた。くそ、とXANXUSはがつんとブーツを鳴らしてその場を後にした。

 

 長い廊下を歩きながら、玄関先に待たせていた車に乗り込む。出せ、と短く命令を下せば車はぶぉんとエンジンを鳴らして前方へと進む。くだらない会食を済ませてた後に、老いぼれへの報告を済ませて、その足で任務へと向かう予定である。
 東眞の声が耳に張り付いている。一番であってはならないと。言われずともそのようなことは承知している。するつもりも、ない。自分にとっての一番というのは最強のボンゴレであり、それ以外の何物でもない。あってはならない。
 かちんとホルダーの銃を取り出して、銃弾が入っているかを確かめる。銃の手入れは午前中に済ませてある。予備の銃弾を携帯するのを忘れてはいない。自分たちは、Sicario(殺し屋)ではなくMafioso(名誉ある男)である。
 どんなものを手に入れても、それが一体どんな結末と影響を自分にもたらそうとも、それだけは変わらない。変われない。
「ボス」
「何だ」
 運転席からやや緊迫感が入った声が響く。エンジンが、車が止まっていた。時間に余裕はあっただろうか、とそんなこと考える。
 何だ、などと聞かずともこんな場所で車を止める理由など一つしかない。反射的にざっと体を座っていた椅子の背もたれを滑らせるようにして低くした。防弾ガラスを使用しているとはいえ、浴びるような銃弾の雨であればそれは大して意味を持たない。耳に懐かしい音が響き渡る。運転席の部下が死んだとは思っていない。そんな風に鍛えられてはいない。銃弾の嵐が止んで、暫しの沈黙が訪れる。
 扉のすぐそばまで近づいてくる革靴の音。は、と口元には自然と笑みが浮かんだ。足音が止まると同時に、その扉に向けて銃口を向けた。きゅぉ、と掌に集まる炎を掌に握る銃、その銃弾へと込めていく。かちんと音がして外側から中の者の生死を確かめるための扉を開けると言う行為が響いた。僅かに扉の隙間から外の景色がのぞく。
 その瞬間に引き金にかかった指を引いた。腕にその反動が伝わり、扉ごと向こう側にいた人間が灰も残さず、生きていた証すらなく燃え尽きる。体を起して、がつんとブーツの音を響かせて車の外へと降りる。羽織っている隊服が、外から中へと入る風で靡いた。
 眼前の敵はなし。銃は既にホルダーにしまっている。ただし、自分の武器はなにも銃だけではない。
 ゆるりと垂らしていた手を持ち上げて、その掌に光球の炎を発生させる。ど、と弾けるように炎が広がった。その反動を利用して、目の前で起きた出来事に愕然としている殺し屋、マフィオーゾ、どちらでもいいがそちらへと距離を詰める。
「死ね、カス共」
 銃を抜くのももう億劫で、もう片方の手に同じようにともした炎で目の前の敵を一掃する。一瞬で燃え尽きた仲間を見て、一人が腰を抜かした状態で、銃を放り出し這うように逃げだそうとする。だがそれを逃がすほど、XANXUSという男は優しくも、間抜けでもない。
 逃げ出そうと必死の男の背中の上に固いブーツを落とす。蛙が潰れたような声がした。男が落とした銃を拾い上げて、残弾数を確認するとそのまま男に向けて引き金を引く。勿論狙いは外している。
 磔にされた昆虫は穿たれた杭の鋭さに悲鳴を上げる。耳の真横に空いた穴と、濃い硝煙の香り。
「誰の命令だ」
 すると男はあっさりと驚くほど簡単に口を割った。成程、とXANXUSは思う。この男たちは少なくともコーザノストラの一員ではない、と。名誉ある男は自分たちの仲間を死んでも売りはしない。ならば、雇われ者というのが筋である。
「コ、ココ、コモ
 ファミリーと最後まで言わせずにXANXUSは上から男の頭を打ち抜いた。ぴし、と血液が飛び跳ねて黒いブーツに付着する。
 コモか、とその名前を頭の名前で繰り返す。最近何かと上からコモファミリーに関しての依頼が多い。依頼、とはいってもそれらのほとんどはシャルカーンに回されるものである。つまり、情報を聞き出すこと。勿論その後はぽっくりだ。
 銃弾を最後まで撃って、弾奏を空にするとXANXUSは銃を放り投げた。地面に落ちた銃は広がる赤色の中で泳いだ。
「おい」
「Si、ボス」
「とっとと車持ってこい」
 蜂の巣になった車を顎で指して、XANXUSは運転手にそう命令した。そして、返事がなされて車を調達しに行った運転手が去ってから、ポケットの携帯電話を耳にあてた。