32:情操教育 - 2/7

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 成程それで、とスクアーロはセオの周りでじゃれている子犬をひょいと持ち上げた。ハッハ、と息を弾ませているスィーリオはくるりとした大きな瞳で自分を持ち上げている人間を見下ろす。
「アーロ、やー」
「おお、悪かったなぁ」
 おら、とスクアーロは不満の声を上げたセオにスィーリオを大人しく返した。随分としっかりしてきてはいるが、時折まだ与太つく足で、セオは犬の背中に体を預ける。
 そんな微笑ましい光景を眺めながら、スクアーロと東眞は紅茶を口にしていた。
「アイリッシュウルフハウンドは、随分と大きくなる犬種だそうだぜぇ」
「はい。でも寿命が一般の犬よりとても短いそうで…五歳から七歳だそうですよ」
 東眞の言葉にスクアーロはぱちんとその銀色の目を瞬かせた。そんなに短いのか、と驚きを示す。五歳から七歳、ということはセオが十になる前に死ぬと言うことである。
「そんなに早く死んじまうのかぁ…」
「でも、アイルランドでの最長寿は十六歳だってこの間ネットに書いてありましたよ。大切に飼えば…長生きはするでしょう。どちらにしても、犬は人よりも早く死ぬんです。こればっかりはどうしようもありません」
 静かに口から言葉を滑らせて、紅茶のカップに落とした東眞をスクアーロは横目で眺めてふと思う。
 彼女は随分と「死」に対しては淡白な人間ではないだろうか、と。以前からそのような節はあった。育ってきた環境が特殊、否、特殊というほど特殊ではないのだろう。マーモン曰く、彼女は普通の生活を送ってきている。ただ敢えて違う点を述べるとすれば、桧組にあらゆる意味において利用されていたという点だけだろうか。
 なぁ、とスクアーロは穏やかな顔をして椅子に座っている黒髪の日本女性に話しかけた。
「てめぇは、人を殺したことあるのか?」
 その問いかけに、東眞は一言、いいえ、と返した。あまりにも淡白すぎて、その先が続かないかのようにすら思える。しかしながら、その言葉の後に、ゆっくりとした声で話が続いた。
「人が、殺されたところは見たことがあります。とは言っても、両手で足りるほどしかありませんが」
「それで?」
 続きを求められたので、東眞はそれに従い、少しばかり声のトーンを低くして続ける。遠くでは、セオとスィーリオが楽しげに戯れていた。
「何も。ただ―――――――死を悼んではいけないと思いました。私はこれからも人の死に出会う立場の人間です。死ぬ人や殺される人の生い立ちを考え、殺し殺されする中で、一つ一つの死を悼んでは自分の方がおかしくなると。だから、私は私の周りの人のことを考えるようにしました。殺される覚悟がある中で、それでもその人たちには死んでほしくないと、思ってます。どんな死を目の当たりにしても、絶対に我を忘れるようなことだけはしてはいけない。誰かがそのせいで傷を負ったりするのは、嫌だからです」
 カップの紅茶がゆらりとゆれて、また静かになる。
「幸か不幸か、私は今まで引き金を引く機会がありませんでした。あっても、偶然にもそれが人を殺すことはなかった。でも、私は間接な人殺しです。私自身が人を殺したことはなくても、私は人殺しに相違ないんです。とはいっても、それに対して後悔や懺悔をしたりすることはありません。殺した側がそれをすれば、殺された側に失礼です。こと、この社会においては。そこには何の感情もなく、ただ自分の信念だけが存在してると私は考えてます。名誉や誇り、そう言うものを―――守るための物でしょう。その延長上に守るべきものが存在してるように思えるんです。少なくとも、修矢や哲さんはそうでした」
 そして、と東眞はクッキーを片手にしていたスクアーロへと目を向けて、緩やかに微笑む。
「あなたたちも」
 向けられた瞳にスクアーロはクッキーの欠片をはらりと皿の上に落とす。そして、その頬笑みにつられるようにして、してやられたと笑った。
「そうだぁ。俺たちも、だな」
 紅茶のカップが揺れて、かちんとソーサーと音を立てる。スクアーロは何故、と東眞にもう一度話を持ちかけた。
「ボスと結婚したんだぁ?」
 前から聞いてみたかった、とスクアーロは口元に面白そうな笑みをこぼしながらそう尋ねる。東眞がそれにこたえようとした時、スクアーロの頭部が視界から外れた。一瞬だけ、銀色のカーテンが視界を遮る。そして、黒いブーツが代わりに現れた。
「退け」
 カスが、と理不尽に表れた男は先程まさに話題に上ったばかりの人間である。スクアーロは蹴りつけられた後頭部を押さえながら、なにしやがる!と振り返りざまにいつも通りに吠えるが、いつも通りに再度ブーツがめり込む。ぐら、と横に傾いて倒れた体をああ、と追いかけようとした東眞だったが、スクアーロのことだから大丈夫だろうとその動きを止める。
 XANXUSは最後にがすりとその倒れた体の腹に蹴りを見舞って、顔の上に紙を一枚落とした。落とされた紙を顔から引っぺがして、なんだぁ、とむっくりと起き上がる。大して痛そうにも見えないのは痛みになれたからかどうなのか。
「行け」
「…てめぇは二言以上の言葉を俺に言う気はねぇのかぁ」
「カスが」
「三文字になったからって威張るんじゃね、ぐっ!」
 先程までスクアーロが座っていた椅子に腰かけたXANXUSの足がスクアーロの顔を蹴り飛ばした。のけぞったが、すぐに戻って、スクアーロはぎろりとXANXUSを睨みつける。
「一日で終わらせろ」
「…う゛ぉ゛お゛おお゛おぉい!無茶言うんじゃねぇ!往復だけでも一日かかるじゃねぇかぁ!」
「うるせぇ。キャンキャン吠える暇があったらとっとと行って来い。出来なかったら減給だ」
「く、くそぉおおおおお!!」
 てめぇ覚えてろ、とスクアーロは今どきアニメにも使わない捨て台詞を残して大急ぎで駆けて行った。果たして彼が一日で任務を無事に終わらせられるかどうかは、彼次第である(無理だとは思うが)
 東眞は紅茶のカップをソーサーにおいて、小さく笑う。
「無茶言っていると、そのうちスクアーロも怒りますよ」
「万年怒りっぱなしじゃねぇか」
「たまには優しくしてあげないと」
「薄気味悪い事言うんじゃねぇ」
 ふん、と鼻を鳴らしてXANXUSは隣にあったクッキーをつまんで口の中に放り込むと、がしがしと大して味わいもせずに飲み込んだ。喉が渇いたのか、そこにあったカップに手をかけると、いつの間にやら紅茶が注がれている。用意が良い。
 ちらりとXANXUSは東眞を横目で見てから、そのカップに口をつけて、喉の渇きをいやした。
 父親が来たのに気づいたのか、セオがぱっと笑顔になり、隣に犬を従えて、ゆっくりと手を振る。バッビーノ、と嬉しげに父を呼んだが、XANXUSはちらりと赤い目を動かしただけだった。
 穏やかな空間の中で、暫くどちらとも言葉を発さない時間が二人の間に落ちる。
 無言の空間というのは自分たちの間においてはよくよく普通の出来事なので(というよりも言葉を交わしている方が少ない)然程気にならない。だが、東眞は隣で妙にそわそわしているような、何かを聞きた気にしているような空気を感じて、ちらりとXANXUSを見やった。
 皿の上のクッキーがもうすでに全部ない。見れば片手にXANXUSが全て取り、もう片方の手で口に次から次へと放り込んでいる。そんな様子に東眞は小さく笑って、そうですね、とゆっくりと話を戻した。
「聞きたいですか?」
「何がだ」
 ぴくりとXANXUSの手が止まる。しかし目線だけは遠くのセオを見たまま動かない。自分から聞きたい、と請うことは間違いなくないんだろうなと東眞は思いつつ、目を細める。
 背もたれに少し疲れた体を乗せて、もう一杯の紅茶を膝の上に乗せる。しかし久々の穏やかな、何もない空間に少しばかり甘えてみたくなる。
「いいえ、何も」
「…何が、だ」
 否定をした東眞にXANXUSは眉間に皺を寄せた。普段であれば、東眞は言いたいことを察して、先に答えるからである。なのに、今日はそれがない。聞きたければ聞け、ということなのだろうが、XANXUSはそれをしたくはなかった。
 くすくすと隣で穏やかに笑う東眞の笑い声にくそ、と小さく吐きだす。
 少し向こうにいたセオがゆっくりとだが、二人のもとへと歩いてきた。セオが歩く、というよりも半ばスィーリオに引きずられるような形にはなっているが。
「マンマ!」
 手足をどろどろにさせて笑ったセオに東眞ははい、と返事をして、その伸ばされた手を包み込んで、ふわりと自分の膝の上に持ち上げる。膝に乗った、確かな命の重さに東眞は口元をゆるりと緩めた。セオはその膝の上で、きらきらと目を輝かせながら、スィーリオ、と名前を口にする。指差したその先には、尻尾を盛大に振りながら、お座りをしている子犬がいる。
 東眞はハンカチで泥だらけの顔と手を一ぬぐいしてから、何ですか、とセオに優しく問いかける。
「Sirio、セオと、一緒!」
「セオとスィーリオはお友達なんですか?」
「Si!とっても、仲良し!バッビーノ、
 も、と言いかけたセオの頭がごすんと叩かれる。あまりに痛かったのか、セオはその目一杯に涙をためる。手が出てきた方向は言わずもがな、である。
「黙れ」
「やーぁ、バッビーノ、お散歩…」
「うるせぇ」
 ごっともう一度鈍い音が響く。全く叩きすぎだろうと、東眞はXANXUSさん、と三発目はセオを頭ごと抱えて、その拳から守った。そんな行為にXANXUSはさらに不機嫌そうに眉をひそめる。セオはと言えば、あぁん、と東眞の胸にすがりついて泣く。泣きわめくセオに腹を立てるのは全くのお門違いなのだが、それを言ったところで聞き入れる人物ではない。
 しかしセオの言葉で東眞は成程、と笑う。
「スィーリオの散歩してくださってたんですか」
「…」
「だから、最近朝が早かったんですね。有難う御座います」
「――――――――うるせぇ」
 ふん、と鼻を鳴らして、XANXUSは手の中にあった最後のクッキーを犬へと放り投げた。それにスィーリオはわふ、と一つ吠えて、空中でそれをキャッチする。良くなれているあたり、結構世話をしてることは一目瞭然である。
 笑いをこらえきれずに、抑えようとした東眞のクスクス笑いを耳にして、XANXUSはどこか気まずそうに舌打ちをする。
「………それで」
「はい?」
「それで、何なんだ」
 ようやく涙が引っ込んだセオの頭をなでる東眞にXANXUSはかなりぶっきらぼうに話を振る。しかしながら、それが突然振られたもので、一瞬では一体何がそれなのかよくわからない。けれども、ああ、と東眞は一拍置いて理解した。
「一つしかないじゃないですか、そんなこと」
 くす、とようやく笑いをひっこめて、東眞はXANXUSの方へと視線を向けた。赤い瞳が黒い目を見ている。唇の形を変え、肺から息を押し出して声を発する。
「Ti amo(愛しています)」
「――――――ちったぁ、まともな発音になったじゃねぇか」
 そう言ってXANXUSは東眞の顎を強い力で掴むと無理矢理引き寄せるようにして唇を合わせた。
 東眞はセオが、とぎょっとして一瞬身を引こうとするが、そんな抵抗は強い力の前では無意味である。
 軽く触れるだけかと思いきや、舌先で口がこじ開けられる。ぬるりと自分とは違う体温のものが入ってきて、口内を蠢く。
角度を変えながら、その中を思う存分に味わい、舌を吸い、絡めてそそる。一体どれほどの時間が経ったのか分からず、体から力が抜けかけたころに、XANXUSはようやく東眞を解放した。最後に舌先で唇を舐める。
 耳まで赤い妻の顔を同じような赤い瞳で見下ろしながら、XANXUSはにやと口元を珍しく歪ませた。
「Hai avuto cio que merita.(自業自得だ)」
 何を言われているかまでは、流石に聞き取れなかったが、何かしらいいことを言われている感じの表情ではない。東眞は口元を押さえながら、少しからかっただけじゃないですか、と小さくぼやいた。
 セオはそれを眺めて、東眞の服を軽く引っ張ると笑顔で、Bacio(キス)!と微笑む。そしてXANXUSは見事に三発目の拳をセオの頭に落とした。

 

 修矢は目の前にある門に掲げられたその板に頬を引き攣らせた。が、しかし連れてきた当人はとてもにこやかないい笑顔でその門をくぐる。そうすると、わらわらと小さな子供たちが藤堂の周囲に集まってきて、その足元を埋め尽くした。
「おじさん!まさおじさん!」
「こんにちは」
「こんにちわー!」
 はいはい、と笑いながら藤堂は集まる子供たちを一人持ち上げて、抱きかかえる。修矢はそんな不思議な光景を眺めながら、頬を引きつらせていた。何しろ自分はここに修行とやらをしに来たはずなのだから。
 そんな修矢の内情を知ってか知らずか、藤堂は笑顔で修矢に振りかえった。
「どうしましたか?」
「どうしたもこうしたも、何でこんな――――――――!」
 と、修矢はびしりとその看板を指差す。
 その看板には綺麗な文字で「保育園」と書かれていた。