29:こっちを向いて、バンビーノ! - 5/6

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 ベルフェゴールは小麦粉をふるいながら、紙の上にそれを落としていく。白い粉が、空気に散った。台所にある小さな椅子の上にセオは据わって、先日片手間に作られた小さなクッキーをつかんで食べている。常温に戻したバターを東眞はその隣でさくさくと混ぜながら、時折セオが取りこぼすクッキーを皿に戻した。小麦粉をふるい終わったベルフェゴールは東眞が持っているボールを受け取って、今度は自身でかき混ぜる。そしてバターを入れようとしたが、そこにあわてて東眞が待ったをかけた。
「何?」
「砂糖は数回に分けて入れるんですよ、卵も一緒です」
「ふーん。そっちの方が旨いの?」
「はい」
 頷いた東眞にベルフェゴールは砂糖を二三回に分けながらさくさくとすり混ぜる。それから卵を一つずつ入れていくと、白っぽいタネが段々と黄色みを帯びていく。
 腕に伝わる混ぜる、という感触にベルフェゴールは少し楽しさを覚えた。これが、焼けると美味しいカップケーキができる。いつも食べているような、あのくどくない甘さの、優しい味が。
「なぁ東眞」
「何ですか、ベル」
 東眞はベルフェゴールの前に三つボールを出して、それに等分するように指示する。大人しくベルフェゴールはそれに従って、均等にそのボールに分け、そしてその中それぞれにドライフルーツやチョコチップ、クルミなどのナッツを入れる。ベルフェゴールはドライフルーツのものを、東眞はチョコチップとクルミの入ったボールをくるくると混ぜた。
 そしてボールの中身を小さなカップに一つずつ流し込みながら、ベルフェゴールは先程の質問を続ける。
「あのさ、俺、Jrの兄貴になってもいい?」
「…、勿論ですよ」
 一拍置いて、東眞は思わず笑顔を浮かべてそう答えた。そんな一言で、こうも嬉しく、心が躍る。
 東眞はかちんとタネをカップに落としてからベルフェゴールを見て、目を細めた。
「ベルがセオのお兄さんになってくれたら、セオも喜びます」
「…マジ?」
「ええ、まじ、ですよ。色んなことセオに教えてあげて下さいね、ベルお兄さん」
 お兄さん、という響きにベルフェゴールはまるで子供のように満面の笑みを見せた。
 そしてドライフルーツのタネを最後までカップにいれて、それを予熱を済ませたオーブンに入れると、くるりとクッキーを食むセオの頭をぐしゃりと撫でた。セオはベルフェゴールが前に来たのに気づいて、その瞳を嬉しそうに細めて、そちらにクッキーを一枚差し出す。
「べる、あーい」
「?」
「どうぞって、言ってるんですよ。ベル」
「くれんの?王子に?」
「まーぁま」
 にか、とベルフェゴールは笑うと、セオの手からクッキーをかりとかじって、残りを指先でつまんで全て食べきる。そして、ぐしゃっとセオの頭をかき混ぜて、セオと視線を合わせるために、しゃがむ。
「いいか、今日から王子がお前のフラテッロ(兄)だからな」
「うらてーろ?」
「だから王子の言うことよく聞けよ、Jr」
「シィ(はい)」
 笑って頷いたセオをベルフェゴールはひょいと抱き上げると、東眞の方へと顔を向ける。
「東眞、ちょっとJr借りる!」
「面倒、よろしくお願いします。私は片付けをしておきますから、できたら探しに行きます」
 うしし、と笑ってベルフェゴールはセオをそのまま部屋から軽い足取りと共に連れ出した。
 二人がいなくなって少し広く感じるようになったキッチンで、東眞はバターのついたボールを湯で洗い、粉の散った台をさっさと手際よく拭いていく。暫くもすれば、オーブンからとてもよい匂いが漂う。覗きこんで焼き加減を確認する。問題もなく、東眞は焼けたカップケーキを置くための籠を戸棚から出す。その中に可愛らしい紙を敷いて、少し華やかに見せる。
 ベルフェゴールはああ見えても意外に面倒見が悪くないので(まぁ多少やんちゃなところもあるけれど)セオを任せておいても心配はない。それに、彼は小さな子供の成長がとても楽しいと見える。腹の中にいるときからそうだったが、自分よりも年下の構える存在が嬉しいようだ。
 いきなり二人の子持ちになったような気分になって、東眞はくすりと笑いをこぼす。そこに柔らかで優しい声がかけられる。
「あら、いい匂いがするかと思ったら何を作ってるの?」
 大きな体に似合わず、繊細で優雅な動きを見せるルッスーリアに東眞はああ、と声を返した。ルッスーリアは失礼するわね、と一言断ってから、キッチンに入って東眞が腰かけていた隣に椅子を引っ張ってきてそこに腰掛ける。綺麗な筋肉がついた足が美しく組まれる。
 よい匂いを漂わせているオーブンをそこからのぞきこんで、ルッスーリアはカップケーキ?と問うた。
「はい。ベルと作ってたんです」
「肝心のベルはどこ行っちゃったのかしら?それにJrも」
「ベルはセオと一緒に遊びに行きました。ベルは面倒見が良くて助かってます」
 スクアーロほどじゃないけれどね、とこぼしたルッスーリアに東眞は思わず笑う。
 確かにスクアーロはよくよくセオと一緒にいる。というよりも、セオを連れだしたXANXUSに無理矢理押し付けられているようでもある。そのおかげかどうなのか、彼はもう立派におしめも余裕でかえられるようになったし、主夫でもやっていけそうな感じだ。本人はそのことに対して不満を大いに持っている様子だが、東眞としてはセオがそのうちスクアーロのことを父親と誤認しそうな気がしないでもない。勿論そうなれば、スクアーロには見事な拳が見舞われるのだろうが。
 そんなことを肘をついて考えていた東眞にルッスーリアは再度声をかける。
「でもスクアーロがああまで父親しちゃってたら、ボスも出る幕ないわよねぇ」
「そうでもないですよ。XANXUSさん、今日はちゃんとセオの面倒見てくれてましたし」
「押し付けるのに、懐かれなかったら怒るんだから。ボスらしいと言えばそうだけど、ちょっとスクアーロが気の毒に思えてくるわ」
 まるで他人事のように(実際は他人事なのだろうが)笑うルッスーリアに東眞は苦笑をこぼす。とはいっても、スクアーロも口では文句を言うが、実際はそうでもないらしく、やはりセオが成長するのを見るのは楽しいようだ。
 ルッスーリアの指先が机の上をステップして東眞が置いていた籠にそっと触れて、親指と人差し指が中にあった紙を軽く引っ張る。オーブンの残り時間は一桁にまでなっていた。それに、と東眞の口がゆるりと動く。
「皆さんがセオの成長を見守ってくれるのは、嬉しいです」
 思わずこぼれた笑みにルッスーリアはくすりと笑った。ああ幸せなのだな、と思わせるその笑顔。おかしなこと言いましたかと続けられたが、ルッスーリアは軽くその大きめの手を振っていいえと返答する。
「ところで東眞、体の調子は平気かしら?」
「ああ、はい。これと言ったこともなく」
「そう。でも気をつけて頂戴ね。どこかでぱったり倒れてたりなんてしたら、ボスが気絶しちゃうわ」
「流石に気絶はしないと思いますけど…でも、気をつけます」
 そうして頂戴とルッスーリアは指先で自分の頬をするりとなでながら、口端をつつりと持ち上げる。
 シャルカーンと東眞本人から聞かされたことはかなり衝撃的ではあった。相談してくれればよかったのにと思いもしたが、それができない状況であったので口にはしない。月に一度シャルカーンは仕事の合間を縫って本部まで戻り、東眞の体を治療してまた任務に就く。治療後は数日必ず安静にしなければならず、その間の家事は分担している。勿論、自分はキッチン仕事である。その数日の間、自分たちの上司はかなりぴりぴりしているのが少しばかり残念だが。
 治療で体調は戻るのだが、やはりシャルカーンが帰ってくる二三日前には顔色が悪くなっており、食も細い。実質、一月の間の一週間は動けない状態だ。
 ルッスーリアはオーブンの中身を見て確認している東眞へと視線をずらす。
 こうなることを承知で彼女は子供を産み、なおかつしっかりと自らの手で育てている。
「母親って偉大ねぇ…」
「はい?」
 ルッスーリアの呟きを聞いていなかったのか、聞こえなかったのか、東眞は首を肩口まで捻って聞き返す。それにルッスーリアは軽く手を振って何でもないわよ、と答えておく。
 少し力を加えればあっさりと命を奪える程度の弱い存在なのに、何故だか不思議と強いと思わせてくる。凸凹コンビとはまさにこのことかしら、とルッスーリアは軽く肩をすくめた。
「ところで、セオが私のことを『うっす』って呼ぶんだけど…どうにかならないかしら」
「でもさっきスクアーロのことはアーロって呼んでましたし、ベルのこともちゃんと呼べてましたよ?…XANXUSさんは、おす、になってましたけど…反復練習すればすぐに呼べるようになりますよ。物覚えは早いみたいですし」
「そうねぇ…それはいいことなんだけれど、うっすはないと思うのよ、うっすは…」
 ルッスーリアが項垂れると同時にオーブンが、ちん、と小さく音を立てる。東眞はオーブンを開いて鉄板を出すと、火が通っているかどうかを確認して、中身をざらざらと籠の中へとこぼした。
「あら美味しそう。ベルもカップケーキくらいなら作れるようになったのねぇ」
「手先が器用ですから、ベルは」
 さて呼びに行こうと出口の方へと向かった東眞に、ルッスーリアがちょっと待ってと声をかける。振り返った東眞はルッスーリアがトレーにそのできたてのカップケーキとジュースを置いているのを目にする。
「折角だし、庭で食べましょ。多分ベルのことだから二人で一緒に庭で遊んでると思うけど」
「…そうですね。あ、私、籠持ちます」
 そう言って手を伸ばした東眞にルッスーリアはお願いね、とできたてのカップケーキが入った籠を東眞の腕に預けた。
 ボスも誘うかどうか少しばかり悩んだが、東眞が一人でいると言うことは仕事関連の何かがあるのだろうからということで、誘うのをやめる。
 そしてルッスーリアは冷たいオレンジジュースと、人数分のグラスをトレーに乗せて、キッチンを後にした。

 

 はぁ、と深い溜息に修矢はいささか気まずげに口先をとがらせた。大きな背中にゆすられて、連れてこられた先は乗りなれた車内である。
「心配しました、坊ちゃん」
 運転席でハンドルを握る哲に静かにそう言われて、修矢は悪かった、と謝る。
「傷は」
「銃弾は抜けてる。骨にも神経にも異常はない、傷さえふさがれば大丈夫だろう」
「…坊ちゃん、」
 少し責める響きの残っている声に、分かってるよと声を多少苛立たせて修矢は答える。また小さな溜息が一つこぼれて、それに多少情けない気分にさせられる。
「ですから、自分は囮作戦には反対だったんです」
「結果的には出てきたんだ。お前きちんと始末したんだろうな」
「御心配されずとも、きちんと。田辺氏が紹介してくださった片付屋も呼びましたし…」
 問題はありません、と哲は話を区切る。哲の口からこぼれた、片付屋という言葉に修矢はそういえばと思い返す。
「田辺さんそっちの仕事は日本じゃもうやらないんだっけか」
「あんな男に敬称は不要です、坊ちゃん。何度も言いますが」
 背中からも不機嫌な様子が見れるほどのそれに修矢は小さく笑う。
 そして、ふとシルヴィオが紹介してきた男のことを記憶から掘り起こす。何とも変わった人物だった。男、であることは分かったのだが、その顔は一切分からない。分かったものと言えば、その目の色くらいだ。目の色とはいっても、大して不思議な色と言うこともなく、浅い茶色をしていた。しかし外見は、ある意味非常に特徴的である。名前は何と言っただろうか、とすぐに消えてしまうような名前を修矢は必死に思いだそうとする。
「あーと…確か、佐藤健だったか」
「偽名では?素性も知れませんし…」
「そもそもこの仕事で素性が知れてるやつなんてそうそういないだろ。まぁ、仕事さえしっかりしてくれるなら文句はないさ。田辺さんの紹介だから、そういったことに関しては問題ないんだろうが…」
 そうですね、と哲ははっきりとそう返した。そのあたりはきちんと信頼しているらしい。とは言えども、素性が分からない、と言えば、そのシルヴィオ・田辺張本人の素性が全く知れないのだ。
 (取り敢えず)哲の兄弟子に当たるのだが、その哲本人も彼の素性を一切知らない。誰も知らないのではないか、と修矢は思っている。敵でないならば、それでかまわないというのもあるのだが。
 坊ちゃん、とその思考がいったん遮られる。
「――――沢田、氏には何か」
 修矢を助けてたという認識はあるようで、哲は綱吉のことをそう呼んだ。それに修矢はいや、と答える。
「…そうだな、友達、ができた」
 その柔らかな響きに哲は一瞬だけ目を丸くした。
 バックミラーでちらりと己の主の表情を確認すれば、そこには年相応の少年の顔が映っている。彼からこの少年の顔を奪っているのは、自分たちに他ならないことも、理解して。
 返事のない哲に修矢は後ろから怪我をしていないほうの足で椅子を蹴りつける。
「馬鹿、いいんだよ。哲が気にすることじゃない。俺は―――――――これでいいんだ、いや、これがいいんだ。その代わり、絶対に俺についてこいよ、哲。そのうちお前に坊ちゃん、なんて言わせなくしてやるよ」
 からりと笑った修矢に哲はサングラスの下の目を細めた。
「では、こんな簡単な仕事で怪我をなされないようにしてください」
「…お前、言うようになったな…」
「何をおっしゃられますか。自分はただ本当のことを述べただけですよ、坊ちゃん」
 最後の言葉を強調した自分の側近に修矢は口元を引きつらせ、みとけよと笑った。哲はそれにお待ちしております、と軽い口調で返したが。