29:こっちを向いて、バンビーノ! - 3/6

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 ちゃぷん、と音が鳴って、修矢はそちらの方へと視線を向けた。随分と気不味そうな顔をした自分と同じ年の少年がそこに立っている。
 やはり迷惑だったのだろうか、と修矢はそう考える。そして、体を拭いて服を借りたら出て行こうかとも。無理をしてでも出て行くべきかもしれないなと、そう思わざるを得ない。
 差し出されたタオルを礼を言って受け取ると、返り血でどっぷりと濡れた上着を脱いでスーパーの袋に入れる。幸いシャツの方はそうひどくもないが、やはり染みてはいるようで着て帰れそうにはない。修矢は溜息をついてからボタンと一つ二つとはずしていく。
「桧君、これ、父さんの服。ちょっと大きいかもしれないけど」
「あ、ああ、有難う……ツナギ…?」
 幸い色はそう明るくもないのだが、見事なまでにツナギである。顔の色を変えながら謝る綱吉に修矢は思わずふいて、有難うともう一度繰り返す。
「いいよ。こう言う服、着る機会ってそうそうないだろうし」
「…ほんと、ごめ
 ん、と言いかけて綱吉はシャツを脱いだその体を見て、絶句した。
 恐ろしいほどの、傷跡。銃痕。
 目を奪われるほどの縫合の跡、手術の跡。一体どうやったらそんな傷がつくのかと、思わずそう問うてしまうほどの、傷。しっかりとした筋肉の上に張り付いている皮膚はそうやってできた傷で沢山引きつっていた。
 修矢が楽しげにこぼしていく会話が、綱吉の耳を左から右へと通り抜けていく。
「沢田?」
 だが、修矢も綱吉が黙っているのに気付いて、他愛もない話を止めて見上げる。そしてふと自分の体に目を落として、悪い、と謝った。
「そうか、気分悪いか。悪かったな。見なれて、ないんだよな」
 つい、と修矢はこぼす。
「姉貴や哲は驚かないから――――――――…忘れてた。悪い」
 驚かないのか、と綱吉はその言葉に反対にぞっとする。
 あの「家」では誰も彼のこの傷を疑問に思ったり、悲しく思ったり、止めたりすることはないのだろうかと。こんな、自分と同じ、未来に行って、色々なことを経験した自分だけれども、それでも、自分はやっぱり一人の少年であった。帰ってきてもなお、普通の、皆で笑ったり遊んだり、そんな平穏の中で普通の学生生活を渇望しているのに。
 彼の周りには、それが一切ないのかと。
 修矢は適当に体を拭くと綱吉から借りたツナギにすいと袖を通して肌を隠す。もういてはいけないだろう、と修矢は立ち上がろうとした。だが、それを綱吉の言葉が制する。何故、となんでと。
「分かんないよ…っ、なんで、誰も――――…っ、君を止めないんだ!」
 分からない、と綱吉は目の奥が酷く熱く感じた。泣きはしないが、ただ、どうしようもない苦しさがそこに残る。見上げてくるこちらを見つめてくる瞳が、何故そんなことを言うのか分からないと言う瞳が、反対に分からない。
「俺は、君に、」
 十年後の、と言いかけてそこは飲み込む。未来のことを過去に持ち込んでは、決していけない。全てを変えてしまう。
「君は!俺から見たら、普通の中学生だ…っ!だって、君は今、俺にそうやってそんな風に、話しかけてくれたじゃないか!君がそんなになってまで、そこまで傷つく必要なんて―――どこにもないよ…っ」
「沢田」
「君は、なんで」
 重ねて見ている、と綱吉は思っていた。無理矢理十代目として祭り上げられて、押し上げられて、戦わされて。死にそうになって。それでも彼と自分は考えそのものが違うと、劣等感に襲われる。
 修矢は唇を噛んで俯いた綱吉をじぃと見た。そして、静かに、冷たくではなく、静かに言葉を繋げる。
「有難う。でも、前にも言ったように、俺は今していることを後悔していない。後悔もしない。これが、俺の人生だから。俺が選んだ道だから。沢田、お前が選んだその道はお前が選んだ道じゃないのか?」
「俺は、半ば無理矢理…」
「でも、選んだんだろう?本当に嫌なら、逃げるなりなんなりすればよかったんだ。本気で嫌がる人間は役に立たない。だから周りの人間は傀儡にするか、それか結局放置する。役に立たないって分かってるから。沢田が今、そこにいるってことは、選んだからだ。だから他の人間はそれに対して頑張れって言う」
 細められた目に綱吉は少しだけ目線を上げる。
「俺には、それでも分からない」
「人殺しが、悪いことだってのは、人を殺す人間なら誰だってわかってる。分かっても、理解していても、それを行使せざるを得ないときがある。だから人を殺す人間は、いつだって自分が殺される可能性を考えている。そして殺されることに関して、恨みを持たない。自分がそれだけのことをしてきたって知っているから。殺した分だけ、俺は誰かの命を抱えて歩いてる。どんなにそれが重くても、放り出さない。それが刀を持って、人を斬って命を奪ってきた人間の――――――――忘れてはいけないことだからだ」
「悪いことなら、どうしてするんだ。人を殺してまで、しなくちゃいけないことなんて、」
 分からない、と綱吉は首を振った。人が死んでまで、命を張ってまでしなければいけないこととは、分からない。
 修矢はそんな綱吉を見ながら、それでもまだ声を荒げない。
「抑止力、って分かるか」
「よくし力?…抑制、して止める力?」
「ああ。世界はどこまでいっても世界の縮図なんだ、沢田」
「?」
 言葉の意味が分からずにきょとんとした綱吉に修矢はさらに言葉を重ねていく。
「沢田が目指すのは平和な世界だよな。誰も武器を持たない、殺し合わない―――――――平和な、世界。でもだ、それは夢物語に過ぎない。勿論俺から見れば、の話だけれど」
「俺だって、そんなに大きなことは考えてないよ。ただ、俺は俺が知ってる人や俺自身も、平和に平穏に暮らしたいだけで」
「人殺しは、いけないんだろ?」
「あ、当たり前だろ!」
「なら、どうして警察官は銃を持つ。銃は人殺しの道具だ。あれは引き金を引くだけでいとも簡単に人の命を奪える」
「それは、」
「抑止力だ、沢田。使うから持ってるんだ。使うかもしれないから、持ってるんだ。お前が言う平穏を破壊する異物が平和な社会に入り込んだときに、即座に排除するために、彼らは銃を持つ勿論彼らが人を殺すことを推奨してるわけでは絶対にない。最後の最後、本当に、最後の手段だ。でも銃が持つ力って言うのは、何も人を殺すためだけにあるわけじゃない。力そのものに意味がある。銃がある、命が危険だ、逆らってはいけない、社会に反してはいけない、平和な社会であろう、そういった思考が人間の底辺に働き掛ける」
 ゆっくりとだが、言葉を選んで修矢は綱吉に話をする。
「俺や、沢田の力はそういった類のものでもある。それでもその力は、もつ者によってその暴威性を変える」
「だから」
 俺は、と綱吉はその瞬間XANXUSの姿を思い出した。彼にこの力を持たせてはいけないと思った。人の命をいとも簡単に奪ってしまう様な、そんな人間には、力を持たせてはいけないと思ったから、結局自分がそれを。
「俺は――――――他に、誰もいなくて」
「…だけどな、沢田。お前が言うマフィアも、俺が属する極道も、それは警察官のように綺麗じゃないんだ。お前がいる世界はもっと薄汚くて、血生臭い。そこには一般的な社会秩序は存在しない。俺たちが、法律だ。マフィアならマフィア、極道なら極道の法律が存在する。それを忘れてはいけない。そして、俺もお前も、既にその世界の人間だ。ならば、俺たちはその世界の法律に従った行動をとらなくてはならないし、それをせずに命を落として文句は言えない」
 そして、と修矢はその瞳をゆっくりと綱吉の瞳に吸い込ませるようにしてしっかりと見据えた。
「そこには、甘えなんて許されない。俺が中学生だからだとか、そういったことは全て甘えにすぎない。踏み込んだのであれば、選んだのであれば、俺もお前もそうやって生きていかなくてはならない。それを嫌だと言って否定すれば、お前はその責任を取らなくちゃいけないし、その被害はお前だけとは限らない。
 上に立つものならば尚更だ。上の者が選択を間違えば、その責任はお前だけではなくて、下の者にも及ぶ。卑怯だなんだなどというのは馬鹿げてる。そう言う世界なんだ、俺が、そして―――――――お前が立つ場所は」
 ぞくり、と修矢の言葉に綱吉は背筋を震わせる。一瞬で、そこに深い溝を落とされたような気分にさせられた。
「じゃぁ、もし、桧君はお姉さんが」
「姉貴だって桧の人間だ。それがどういう意味か、姉貴はよく分かってる」
「でも、お姉さんは君が一番大切な…!」
「ああ、大切だ。でも、俺はその大切さに目を奪われてはいけないんだ。最後に俺が取るのは、この、組だ。何を差し置いてでも、守らなくてはならないのは―――――――――この、桧と言う器だ」
 あの病院で、悲嘆に暮れていた少年と目の前の少年は同一人物には、綱吉には見えなかった。
「そんな――――…っ、そんなもののために、君は大切な人を失ってもいいのか!」
「そんなもの、か。抑止力のない社会がどうなるか、分かるか?警察は表を俺たちは裏を、取り仕切る。なら表から零れ落ちた人間が何の秩序も持たない世界で、ただ死に絶える、そんな社会にしたいのか?」
「違う。そうじゃなくて、そうじゃない、桧君」
 ちがう、と綱吉は首を振る。話がずれてしまっていて、既に自分が伝えたいことは過ぎ去ってしまっている。
「君はおかしいよ…っ!そんなふうに人の命を簡単に、」
「人の命は重いよ、沢田。それでも俺が刀を手放さないのも、この世界に居続けるのも―――――俺が選んだんだ。
 お前はもっと自分の立場について考えるべきだ。それがどういうものか、もっと考えておかなくちゃいけない。権力は、それを握る人間は必ずそれがどういうものか知っておかなくてはいけない。知らない人間は、権力をいつか武器にする」
「俺はそんなことしない!」
「お前がしなくても、力の意味を知らないお前を揺るがすのなんて、簡単だ。意味も知らずにただ持つだけなら、馬鹿でもできる。
 例えば、お前は大切な人を守るためなら、お前のその権力を放り出すことを厭わないんだろうな。助けてくれるなら、手を出さないでいてくれるならってそうだろう?この間聞いたVARIAとの戦い、獄寺が嬉々として語ってたお前の武勇伝なんてまさにそれだ。結果的に勝利は沢田に入ったわけだけど、俺からすればお前の行動は馬鹿だよ。志は、好きだけどな」
「でもランボは」
 口を開いた綱吉に修矢は首を横に振った。
「ものも分からず?関係ない。戦いの場に踏み込んだのであれば、どんな人間であれ奪われる覚悟と奪う覚悟をしなければならない。それも分からずに踏み込んだのならば、そいつはただ愚かだっただけだ。ここは、お前の言う常識が通じる場所じゃないんだ。嫌なら、出ていけ。逃げ出せ。放り投り出せ。お前なんかよりも、ずっと――――――あの男の方が、向いてる」
「あの、男?」
「……姉貴の、旦那だ」
 酷く言いづらそうにしてから、修矢はそう言った。その言葉に綱吉は目を丸くする。今しがた、綱吉が力を持つのにふさわしくないと思った人間の名前がはっきりと挙げられた。
「あいつは、お前なんかよりももっと、ずっと、この世界を理解している。この世界の住人だ」
「でも、俺たちは殺されたかもしれなくて、」
「逃げ出すことに本気になればよかったんじゃないのか?放り投げることに本気になれば。なんだかお前は本気でそれを投げ出したくなかったんじゃないかって俺は思うよ。お前を推した沢田の父親だけど…本気で嫌がったら、投げ出せば、そこに座らそうなんて思うか?思うわけないだろ。…どっちにしろ、お前は選んだんだ。選んだからには、選んだ人間の責任が発生する」
 姉貴も、とふと修矢の脳裏にその影がよぎった。先の来襲はその姉が何かをしたといことなのだろうが、もう心配はいらないだろう。
「平穏が好きなら、それでもいい。でも俺はここから逃げ出すつもりはない。俺はもう、選んだんだ」
 悪いな、と修矢は静かにそう話を切った。そして、立ち上がろうとした修矢を綱吉は慌てて押しとどめる。
「と、兎も角、今日は泊ってって…っ!俺は、嫌なんだ!俺の知ってる人が、苦しんだり、痛がったり、そういうのは!」
 ぐっと唇を噛みしめる学友に修矢は両肩を押さえつけている手の上にそっと自分の手を重ねた。そして小さく、有難うと返した。

 

 あぷ、と手を振るセオの手に自分の指先をからめて東眞は目を細める。
「修矢は元気にしてますかね?」
「知るか」
「セオの写真送ったんですけど、返事が来なくて…」
 届いた写真を見た修矢がパソコンを壊しかけて哲に暫くメールを見ないように言われたのを東眞は知らない。
 それにしても、と東眞は少し前のあの通信機の言葉を思い返す。修矢も随分と成長したものだ、と。
「あんなに、小さかったのに」
「あぁ?」
 修矢ですよ、と声を上げたXANXUSに東眞は笑う。不愉快気にその顔が歪められたが、それを気にすることなく東眞はその名前を口にする。
「どんどん、大きくなっていって…あっという間です」
 お姉ちゃん、と一番初めに泣いたあの姿を東眞は今でも覚えている。
 ずっと一人で苦しかったのだろうと。「あの場所」に一人で立ち続けて、足も疲れ果てて、傷ついて。それでもあの少年は、自分の責務だけは忘れなかった。自分がどういう存在であるかだけは、絶対に覚えていた。ただほんの少し、「桧修矢」を忘れかけていて、それだけが苦しくて。泣いていた。
「――――修矢は、もう、大丈夫だと思うんです」
「あんなクソ餓鬼どうなろうが知ったこっちゃねぇ」
「でももうXANXUSさんの可愛い義弟ですよ?」
「可愛くなんざあるか」
 鼻を鳴らしてセオの髪の毛で遊び始めたXANXUSに東眞は笑う。そして大切な弟を思い出す。
 相手のことを想いやれる余裕があるならば、彼はもう大丈夫だろう、と。