29:こっちを向いて、バンビーノ! - 2/6

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 そういえば、と東眞はXANXUSの隣に腰掛けて、父親の腕の中でぱたはたと遊んでいる子供に指を伸ばした。すると子供は反射的にそちらの方へと手を伸ばし、仰向けだった体を腕の中で器用にうつぶせに直して笑い、手を指先に絡めて遊ぶ。
 東眞はその反応に目を柔らかく細めながら、ゆるやかに微笑んだ。
「セオ、もう歩けるんですよ」
「這っていた」
 俺が一番最初に見た、と言わんばかりにXANXUSはうつぶせになったセオの頭に手を乗せて、そのまだ色の薄い黒髪をなでる。東眞はそんな調子に苦笑してから、セオをXANXUSの腕から抱き上げた。重みの無くなった腕にXANXUSは少しばかり不満そうな顔をする。そのまま東眞はセオを抱えたまま歩き、少しばかり離れたところで足を止め、そこに腰を下ろす。そして抱きかかえていたセオの両足を絨毯に着地させる。
「ベルがこの間一緒に練習してたんですけど」
 東眞の背中を見ながら、XANXUSはソファに体をうずめてその言葉を聞く。両手を持っている状態で、セオの足はしっかりと絨毯に着けられて体の重みを分散させて立っている。揺らいでいる様子はまだない。
 それで、と東眞はその状態から紅葉のような手をゆっくりと放して、XANXUSがいるソファの方まで後ろ足でゆるゆると戻る。小さな子供が、二つの足で立っていた。
「まぁーんま」
「セオ」
 おいで、と呼ばれる優しい声をXANXUSは聞いた。柔らかくて、温かな、その声を。
 小さな子供が小さな足を小さな一歩で小さく踏み出す。たし、と先の絨毯がその体重の分だけ沈みこんだ。自分の前に腰をおろしている黒髪の女性は細い両手をそちらに差し伸べて、迎え入れている。広げて、いる。
 少し。
「おいで、セオ。ゆっくり」
 声につられるようにして、幼子がもう一歩踏み出す。上体がぶれたが、暫く大人しくしていると、それはおさまり、また一歩。広げられた、迎え入れられる世界へと近づいて行く。一歩踏み出すと、その声が頑張って、と応援をする。背中を支える。銀朱の瞳が母の腕の先へと注がれる。もう少し、また少し。
 一歩一歩と確かな一歩を踏み出して行って、あと一歩。
 『そこ』は、俺の
 しかし、セオの伸ばした指先が東眞が伸ばした腕に触れる直前。XANXUSの体の方が当然早く小さな体よりも動いた。<触れるかと思われた指先はまた距離を取る。安心して母の胸に倒れかかろうとした体はあっさりと絨毯の上に倒れる。状況が一瞬では理解できなかったのか、ぱちぱちと瞬きをして、絨毯をぱしりと叩く。
 東眞と言えば、後ろから思いっきり片腕で引きずり倒されて目を丸くしていた。そして東眞を引きずった張本人も、何とも言えない顔をして、ソファから体を起こしていた。
「…あの、」
 XANXUSさん、と東眞はその名前を呼ぼうとしたが、その前にぱちぷ、と小さな手が黒いブーツを叩いたのを目にした。どうやら倒れた位置からそう遠くもなかったので、這ったここまで来たようだった。
 きらきらとその目がXANXUSの方へと向けられる。
「おーす、おーす」
 ブーツに縋って、ゆっくりとまたセオは立つ。そして父へと目を向けて、満面の笑みを浮かべた。
 XANXUSは東眞に回していた手をゆっくりとばつが悪そうにほどく。そして父を求めた子供をひょいと抱き上げて膝の上に乗せた。そうするだけで、セオは嬉しそうな顔をして、笑う。だから余計にばつが悪い。くそ、とXANXUSは小さくはきだした。
 広げられた腕は自分だけのものだ、と一瞬その思考が脳を完全支配した行動だったと言うのは、口上に乗せられるものではない。子供を忌々しいと思ったわけではないが、ただ何も考えずに手が体が、そのように動いた。
 誰かに見られたら、いい笑いの種である。まだこちらを惚けた調子で見上げている女に目を向けることもできない。しかしながら、女の声はすぐに元に戻ってそれから語りかけてきた。
「セオ、歩けるんですよ」
「…見りゃ、分かる」
 同じ言葉の繰り返しに、XANXUSは酷く気まずそうにそう口先をとがらせた。勿論東眞はそれに苦笑をこぼしながら、ソファの座るところに腕を乗せて、XANXUSの膝に据わるセオの頭を撫でた。

 

 大切なものというものは、いつだって自分がしっかりしていないと見失ってしまう。だから強く、強くなろうと心に決めた。「あの一件」以来、それは余計にそう強く、そう思うようになった。
 二度と、あの体が冷たくなるのを腕に感じたくない。
 だけれども同時に自分の立場も分かっている。最終的に取らなくてはいけないものが一体何であるのか、今はもう、理解している。だが、と修矢は息を一つ吐いて、赤色が滲むズボンを押さえた。頬や腕にも銃創ができている。
「…」
 殺気に気付いて咄嗟に致命傷は避けたが、痛いものはどう頑張っても痛い。腿に受けた銃弾は貫通したから、簡単な応急処置だけは済ませておいた。哲に連絡も入れたから、今頃撃ってきた人間は空の上だ。大人しくしているようにとは言われたが、あんなところで血を流して座っているわけにもいかずに、人目を避けて物陰に腰を下ろす。
「――――――――――哲、遅い…」
 まだか、とぼやいたが、ぼやいたところで待ち人未だ来らず。
 応急処置を即座にしたので出血はそう多くもないが、やはり失った血の量だけ頭がくらくらとする。くそ、と言葉をこぼして修矢はふらつく頭を押さえた。こんなところで気絶でもすれば恰好の餌である。
 銃撃を受けた後に左から出てきた奴は遠慮なく斬り捨てた。人目のつかないところまでは引きずったから、あちらの片付けもそろそろ終わっているころだろうかなどとそんな風に思う。
 痛い、と腿を押さえて顔を歪める。
 もう少し奥で待っていよう、と修矢は痛みをこらえて足に力を込めた。と、その時声が響く。しまったと、逃げ出す用意をしたが、どこかで聞きなれた声に動きを止める。
「桧…君?」
「…沢田」
 綱吉は修矢の傷を見て、顔色を変えて慌てて近づく。
「だ、大丈夫!?え、えぇと、きゅ、救急車…っ!」
「…馬鹿、救急車呼ぶならこんなところにいないって。気にするほどの怪我でもないから、平気だ」
「で、でも血がそんなに沢山…あ、俺、家が近いし兎も角こんなところにいちゃ駄目だって」
 肩を貸すから、としゃがまれて、修矢は目を丸くする。そして、その好意を跳ねのけるわけにもいかず、大人しく肩を借りる。とはいっても予想よりも随分と低い位置にある肩に苦笑をこぼした。
 いつも自分に肩を貸すのは哲だから、必ず高い位置にあるし、足に怪我を負った場合は負ぶってくれたから奇妙な感じだった。
 笑った修矢に綱吉はきょとんとする。
「いや、何でもない。にしても沢田、小さいな」
「そんなに小さくもないけど…」
「あ、そっちは人通りが多いから、あっちの道を」
 大通りに出るなど何をと修矢は反対側の道を指す。一度綱吉の家には行ったことがある。あの家は、何故だか不思議と誰も通らない道、気を付けなければ気付かない道が多い場所に建っている。分かってあの場所に建てたのであれば、それはなかなかのものだが。
 ずる、と足を引きずって修矢はその道を選びながら綱吉に尋ねた。
「いいのか、俺が行っても――――その、沢田の両親とか」
「母さんなら、多分もう寝てるだろうし…俺はちょっと小腹がすいたから」
 買い物に、と言って片手を上げたが、その手には何もない。手に持っていた袋ならば先程自分が据わった隣に置いていたではないかと思いつつ、それを告げると、言ってよ!と悲壮な顔で綱吉は言った。
「この時間帯ならスナック菓子とかだろ?腐らないだろうし、明日にはまだある。取りに行けばいい。あの道は、本当に人が通らない道だしな…何で沢田が気付いたのか、分からないくらいだ」
「え、あ…それは、何となく」
「何となく、か」
 気配は消してたんだけどな、と修矢はぼやく。綱吉は一瞬、超直感が、と言いかけたが自分でもよくわからない力なので黙っていた。
 ようやく家について、綱吉はこっそりと音をたてないようにして修矢を家に上げる。
 どうやら二階へとの言葉に修矢は頬を引きつらせたが、邪魔になる以上文句は言わない。登り切った時点で綱吉は足の怪我、ということを思い出したようだったが、修矢は軽く手を振って気にするな、と告げた。
 そしてベッドの端に腰掛け、止血をしていた包帯を解き、ベルトをはずしてからズボンを脱ぐ。
「包帯とか、ガーゼ…これで足りる?」
「有難う。足りる」
 礼を言ってから受け取ると、修矢は手際よく消毒を済ませてその上にガーゼを乗せると包帯を巻く。消毒をした瞬間に凄まじい痛みが走ったが、ぐっと歯を食いしばってこらえた。後は明日にでも専用の医者に見せればいい。
 ズボンをはき直して、修矢はそこでふと思い出す。
「哲に…電話しとかないとな」
 ここにいることを、と思って上着のポケットを探って携帯を開いたが、画面は真暗なままだった。どうやら電池が切れたらしい。ああ、と項垂れた修矢に綱吉は慌てて自分の携帯を差し出す。
「俺の、使って」
 「…いや、哲の携帯番号覚えてない。登録してると手間省けるから覚えないんだよな…。まぁ、今から帰えれば大丈夫だろうし…。世話になったな、助かった」
「え、ちょ!」
 ぐ、と刀の入った袋を支えに立ち上がった修矢に綱吉は慌てて待ったをかけた。そんな傷で歩いて帰るのを放っておけるほど、綱吉自身無関心な人間ではない。
 怪訝そうに落ちた目線に綱吉は、溜息をこぼしてベッドに戻るように説得する。
「今日は泊ってって…そんな傷で歩いて帰るのは無理だよ。俺は床で寝るから、桧君はベッドで寝て」
「いや、」
「俺が心配だから!」
「…そう、か?」
「うん」
 なら、と修矢は刀をベッドの端に掛けた。
 そんな光景を眺めながら、綱吉はあまりにも普通だと思う。こうやって怪我をしていることさえのぞけば、彼は普通の中学生、にしか見えない。
「何か食べる?」
「何かって、小腹空いたから買い物に行ったんだろ?だったら、何もないんじゃないか」
「…あ…」
 そうだった、と固まった綱吉に修矢は声を立てて笑った。普通の、少年のように。
 以前交わした意見のすれ違いは、未だにすれ違ったままである。それを強制するする術を、持たない。リボーンはそれを受け入れろと言っていたことも覚えていたが、綱吉には未だ分からない。
 今目の前にいる桧修矢と言う少年は、屈託なく、笑っているのだから。他愛ない会話で笑い、学校のテストのことで頭を悩ます。そんな普通の少年なのに。
「だ――――――――沢田?」
「うぁあ!」
「…何、そんなに驚いてるんだ?」
 変な奴、と目の前の少年は微笑む。綱吉は慌てて何でもないよ、とその場を取り繕う。
「よければ着るものと、濡れたタオル貸してくれないか?血が、着いてるから――――ベッドを汚す」
 それを言われて綱吉ははっと修矢の服を見た。暗い色のスーツではよくわからなかったが、確かに黒く変色した血がついていた。まだ完全に乾いてはいないのか、服はしっとりとしているようだった。
「ビニール袋も、よかったら」
「うん。あ、でも俺の服じゃ小さいかな…確か父さんの服があったと思うから」
 持ってくる、と綱吉は部屋を閉めた。そして父親の部屋へと入り、服を数点物色する。それから足音をできるだけ立てないようにして下に行き、洗面台で乾いたタオルを一枚ぬるま湯にしたそれにつけて、絞る。洗面器にも取り敢えず湯を張って、両手で持つと、脇にスーパーの袋と着替えをはさんで二階に上がる。
 階段をのぼりながら、綱吉は忘れ去っていた、彼から漂う死の香りに目を下に落とした。洗面器の湯は、動きに合わせて波紋を、立てていた。