28:貴方の妻であるということ - 6/6

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 お帰りなさい、そんな当たり前の言葉を久々に聞いたような気がした。
東眞はそう思う。ルッスーリアは帰ってきた二人、正確には二人と一人を部屋に招き入れる。何事もなかったかのように、その場には紅茶と、それから茶菓子が置かれていた。
「あの」
 XANXUSはそんなある意味不自然な様子を気にすることもなく、どっかりと定位置に腰かけた。レヴィとマーモンはいないのだが、それ以外の面々はそろって、そして普段どおりに行動している。
 東眞は目を疑った。その目の前に、ルッスーリアがはい、と紅茶を差し出す。一つ礼を述べて東眞はそれを受け取り、そして慌てて顔を上げる。
「ではなくて!」
「?なぁに」
「…では、なくて」
 東眞は良い香りをさせている紅茶のカップに目を落とした。揺らめく液体には波紋状ではあったが、天井が映っている。それからはっきりと戸惑っている自分の顔と。XANXUSは、といえばセオを腹に乗せてとうとうソファの上に寝っ転がった。首は据わっているが、まだはいはいには至らないので、その腹の上で転がっているだけである。
 その、と東眞は一人だけ気まずい空気を背負いながら口を開く。
「何も、聞かないんですか」
 その一言に周囲の(勿論目を閉じているXANXUS以外だが)者は互いに呆れたように視線を交わした。スクアーロは大体、とぼやく。
「聞いてどうすんだぁ」
「終わったことじゃないの」
 ルッスーリアが続けて、小さく笑った。東眞にはそれがよく分からない。迷惑を、と東眞は膝の上の拳を軽く握って、唇を噛んだ。
「かけました」
「どちらかっつーと、てめぇの迷惑ってよりもボスの迷惑だよなぁ」
 からからと笑ったスクアーロの頭にグラスが直撃して落ちる。目を閉じておきながら、狙いを定めたように当てているのはある意味特技であろう。そして、いつものようにスクアーロはテメェ何しやがる!と上司である男を怒鳴りつけた。しかしながら本日は腹の上の赤子が乗っているのでそう大きな声でもなかったが。
 うろたえた東眞の隣にルッスーリアはあのね、とゆっくりと腰を下ろす。
「誰も迷惑だなんて思ってないのよ。東眞、あなたは今回結構沢山のことを学んだんじゃないかしら?例えば私たちがどういった存在か改めて知らされたと思うし、あなたが取るべき行動はあなただけの範囲では収まらないってことも。勿論、今回は私たちもかり出される結果になったけれど、それはボスの命令であって私たちがそれにどうこう言うことはないわ」
 ルッスーリアの言葉に東眞はしっかりと耳を傾ける。
 ゆらりと紅茶の面が揺れた。
「東眞は今回何を知ったの?」
 静かな問いかけに東眞は紅茶のカップに目を落として、唇を動かした。やけに静かになったように感じられる空気が言葉で揺れ動く。
「私の行動は、もう私だけでは済まないことを、知りました。それは全てをXANXUSさんに打ち明けなければならないということではないですが、それを間違えてはいけないということです。今回は偶然私の行動が私の家族に及んだだけで、こういうのもおかしな話ですが、それだけで済みました」
「そうね」
「でも――――――――私の行動がそれだけでおさまらない場合も、ある」
「ええ」
 東眞は目を細めて、カップを手に取るとそれを両手で抱えるようにして膝の上に乗せた。
「私はそれらをいつでも考えなくてはならない。もう、私は小さな範囲で物事を考えられる立場ではない」
 いつだって、と東眞は目線を上げて、その場にいた全員の顔を見渡す。
 優しい瞳のルッスーリア、グラスをぶつけられて怒っているスクアーロ、クッキーを摘まむベルフェゴール。彼らの生死に関わってしまう位置に、自分が存在することを、東眞は知った。
「皆さんのことを、考えなくてはならない」
 自分の誤った選択で、別の場所にいる人間が死ぬ可能性も出てくる。今後の戦況に不利になる場合もある。そうなった場合、間違いなく彼らは自分を切り捨て見捨てるであろうことも東眞には分かった。けれども、その選択を決断するのは自分が最も愛する人間である。だからこそ、考えなければいけない。思考しなければならない。
 何が最善か。何を取って、何を捨てるべきか。
 ルッスーリアは言葉を区切って、前よりもずっと大人びた表情の東眞に目元を緩めた。そして、その唇に柔らかい笑みを乗せる。
「いい薬になったならいいのよ」
「はい」
 目を細めて、東眞はゆっくりと紅茶に口をつけて、その香りと味に素直においしいですと伝えた。ルッスーリアは勿論それにGrazieと答える。
 そんなまったりとした空間に重たい声が一つ割いる。
「おい」
「はい」
 赤い瞳がずるりと動いて横目で東眞をとらえる。のっそりと大きな体が持ち上がって、腹の上に乗せられていたセオはころころとXANXUSの膝まで落ちた。
「餓鬼はいいのか」
「餓鬼?」
 XANXUSが告げる餓鬼、というのはまさに膝の上に乗せられているセオともう一人、自分の弟がいる。その言葉がどちらを指すものか区別がつかず、東眞は怪訝そうに眉をひそめた。
 伝わっていないと判断したのか、XANXUSはてめぇのだ、と付け加えた。てめぇ、とはいっても両方ともそうなのだが、その示す先を知り、東眞はああと答えた。そして暫く考え込んで、それからゆっくりと面を上げる。
「黙っていてください。知る必要も、知らせる必要もないことです」
「それでいいのか」
 再度問われた言葉に東眞は深く、しかししっかりと頷いた。修矢は、とその唇が動く。深い傷の入った腹に自然と手が行く。
 全ての発端である、その傷跡。
「この事実を知ったら、修矢は深く傷つきます。私の傷は一生のものです。修矢は、それ以上の罪の意識を背負い続けることになります。私は修矢に幸せになって欲しいです。ですから―――――――知ってほしく、ありません」
 勿論と東眞は続けた。
「この事実を知って修矢がくじけるような、そんな人間ではないことは私が一番よく知っています。でも、これを知っても―――何も変わりません。私はもう子供が産めませんし、この体ももう――――――…」
 最後は言葉を濁して東眞は目を瞑った。静かな、誰も発言をしない空間がその場に広がる。
「私はこうなったことを後悔は、してません。子供が産めてよかった。子供が産まれてよかった。だから修矢には、私が今とても幸せだってことを知っていてほしいんです。ちょっと思い込みが激しいから、」
 ちょっと、ではないだろうとスクアーロは思いつつもその言葉の続きに耳をすませた。
「私が幸せなのに、修矢はきっとそう思ってはくれないでしょう。体が駄目になっているのだから、と。そんなことはないのだけれど、修矢のことだからそう思います。だから、黙っていようと思います。黙っていて、下さい」
 珍しく東眞の言葉を最後まで聞き終えたXANXUSは目をするりと外にずらすと目を閉じた。<そして唇が動き、言葉を作り出す。
「好きなようにしろ。俺から言うことは何もねぇ」
 そう区切ると、XANXUSはぐず、と膝の上でぐずり始めたセオを東眞に猫の子を渡すかのように差し出した。東眞はどうしたことかと差し出されたセオを両腕でしっかり受け止める。
 そしてその臭いにくすと笑い、おしめ取り換えましょうか、と銀朱の目を潤ませた我が子の頬をゆるりとなでた。

 

「酒臭い」
 う、と修矢は部屋に充満しているその臭いに顔を顰めた。
 確かに色々終わってはめをはずしてもいいとは言ったものの、ここまで酔いつぶれるほどに飲んでいいと言った覚えはない。とはいっても、あの死闘を考えたならば、このくらいは許されてしかるべきかもしれないと修矢は溜息をついた。何しろあの哲でさえも部屋の隅で壁にもたれかかって酔いに任せて眠ってしまている。
 そんな何とも言えない光景に、やれやれと肩を竦める。
「修矢ー」
 のしっと乗っかってきた男の息は非常に酒臭い。
 さらりとまるで絹糸のような金糸が頬にかかった。目線をずらせば空を模した色の瞳がそこに在った。酔った――――ように見えるが、実際は酔ってなどいない目である。
 圧し掛かっているヴィルヘルムの腕をぱちんと叩いて修矢は何だよ、と返事をする。
「酔っぱらってもないのに、酔ってるふりするな」
「あれ、気付いてた?ヴォルはもう出来上がってるんだけどなー。俺はさビア(ビール)で飲み慣れてる所為かあんま酔わないんだ。まぁ、ヴォルはアルコールそんなに好きじゃないし、勧められたら断れない性格してるから、今日は仕方ないかな」
「布団は用意してるから、後で寝かせてやれよ」
「んーん、勿論。可愛いヴォルは連れていくって」
 何気ない会話の中で、互いのどこか冷めた空気を修矢は感じ取っていた。聞きたいのはそんなことではないだろう、と目線を低く、落ち着かせる。ヴィルヘルムはそれを感じ取ったのか、口元を歪めた。
 そして本題に入る。
「依頼主とか、聞かないんだなーと思って」
「聞いてどうするんだ?俺たちがすることはたった一つだ。縄張りの平穏、桧の存続」
 単調に言い切った修矢にヴィルヘルムは柱に凭れかかるとその瞳を細めて、ゆるやかに笑んだ。どこかうすら寒い笑みに修矢は視線だけを動かした。
「気にならない?」
「だから気にしてどうする。誰が俺たちに干渉しようが俺たちがすることは変わらない。今回はヴィルたちが味方になった、それで俺たちは助かった。それだけの話だろ。他に話し合うことなんてあるのか」
「何で依頼人が俺たちに修矢の味方をするように頼んだか、とか」
「…実を言うと、粗方の見当はついてる。俺も人形じゃない」
「で?」
 結論として、と修矢は転がった酒瓶を立てて集めながら答えた。
「その人物が桧にとって不利益となるようなことはしないと判断したから、気にしない。勿論味方にする気もない。その人は俺の味方じゃなくて、多分『桧の』味方だ。だから、俺が組のためにならないことをすることになったら、その人は容赦なく俺を排除するだろうし、消すと思う。でも俺はそれでいいと思ってる。俺はそのために生きてきて、そのために死ぬ。それが、俺の存在意義だ」
「つまらない人生だとは、思わないわけだ」
 息を一つ吐いたヴィルヘルムに修矢はああと肯定した。
「思わない。俺は今、桧があるから誰かを守れる。桧のために生きてきたから大切な人の側にいられる。命をかけられる。だから今までの生き方を後悔はしないし、これからもすることはない。それは、ヴィルだって一緒だろ?」
「俺は、ね」
 何かしら含みのあるいい方に修矢はかすかに瞳の色を曇らせた。ヴィルヘルムはどう、とその空色の瞳を黒の目に近付けた。
「もしも、依頼するならば、俺たちの依頼主を殺してもいいけれど」
「…言っただろ、俺は桧のためにならないことはしない」
 馬鹿にするな、と修矢は空になった酒瓶の数を数えながら、数本持って立ち上がった。そして、それをヴィルヘルムに押し付ける。
「ほら、酔ってないなら、これ台所に持ってってくれ。流石に俺一人じゃきつい」
「いいとも。でも、修矢の考えって凄くXANXUSの考えに似てるよな。あれ?同族嫌悪?」
 XANXUS、という名前に修矢の顔がこれ以上ないほどに不機嫌に歪む。ヴィルヘルムは修矢の表情の変化に笑いながら、かちりと腕の瓶を鳴らした。
「あんな最低な男と一緒にするな」
「その最低な男と東眞は結婚してるんだよなー」
「…叩きだすぞ」
 凄んだ修矢にヴィルヘルムは肩を笑わせた。
「冗談冗談。でも、修矢の考えは本当にXANXUSのそれとよく似てると思うよ。根本的なところがね。勿論、性格が似てるってはないじゃないから安心してくれていい」
 似てない、と修矢は頑なに言い張ってヴィルヘルムの隣を過ぎ去った。その怒っている背中を眺めながら、ヴィルヘルムはゆっくりと足を進める。
「でも本当によく似てるんだよな、あの二人の考え方」
 東眞もそう思ってるんだろう、とヴィルヘルムはそう思う。
 XANXUSは最強たるボンゴレを常に望み、そして修矢はいつも安定している桧を望む。そのために、自身の人生をかけている点が、同じなのである。出会う形が違うならば、ひょっとすれば二人は良い友人になれたかもしれない。尤も、出会ってしまった今では、もうそんなことはあり得ないわけなのだが。
 そしてヴィルヘルムはくったりとしている自分の弟に目を向ける。空色の瞳は、まるで氷のような色を宿していた。
 この任務を受けた時、自分の弟は至極ほっとしていた顔をしていた。修矢の、つまるところ自分の知り合いである少年の敵ではなく、味方だということに。
 酒瓶を置いてきて、また戻ってきた修矢は、歩みの遅いヴィルヘルムにしゃきしゃき働け!と活を入れる。そんな修矢にヴィルヘルムは笑う。朗らかに。
「修矢」
「何だよ。さっきから質問しっぱなしで」
 呆れた様子で修矢は瓶を二本腕に抱えて、もう二本を指先にひっかけて立つ。ヴィルヘルムは今回は違う、と断った。
「もし」
「もし?」
 wの発音をするために軽く下唇に上の歯を押しあてた状態でヴィルヘルムは止まる。そして首を横に振った。
「何でもない」
「?…そんに寿司が食べたかったのか…?明日の夜もいるなら出前取るけど」
「Echt(本当)!?じゃぁ、もう一日いようかな」
 うきうきとヴィルヘルムは足取り軽く台所に向かう。修矢は首をかしげながらその後をもう一本瓶をつかんで歩きだした。ヴィルヘルムは少し先を歩きながら、瓶の重みで腕を振るう。
 言いかけた言葉は今言っても仕方のないことである。それに言ったところで最終的にそれを決断するのは自分の弟に他ならない。
「Wol, du bist kein Mörder.」
 ぱちん、と音を立てた蛍光灯の近くでは羽虫が音を立てていた。

 

 さてさて、とシルヴィオは通帳を眺めながら、0の数字が大量に増えたそこに笑っていた。耳には携帯電話を当てている。
「しっかり、頂いたぜ」
『がめつい、相変わらず』
「そう言うなよ。俺だってそれなりの危険を冒してるわけだ。とりわけ今回はうっかり死にそうになった」
 通帳を側にあった鞄に放り込むとシルヴィオはどっかりとソファの上に乗った。電話は、まだ切らない。
『それだけの報酬は支払っている』
「全く無理難題を出してくるあたり、性質が悪い。まぁ、付き合いってことで受けたがな?あんまり俺に無茶やらせるなよ」
『若いもんは少しくらい無茶をするので丁度いい』
「俺を若者扱いするのは、今時、爺さんくらいだぜ」
 なぁ爺さん、とシルヴィオはこつんと携帯を指先で叩いた。
「しかし、爺さんもいい加減世話焼きだよなぁ。そんなに気になるのか?ま、お陰さまで俺の懐は温かいわけだが」
『儂も年を取ったからな』
「よく言うぜ。そんなに気になるんだったら、坊主たちと一緒にすみゃいいだろうに。哲坊のことだから、組頭ーだとか言って喜ぶぜ?」
 揶揄するような口調だったが、電話向こうの相手はそれには一切乗ってこずに、せん、と否定の意味を述べた。シルヴィオもその答えは想定済みだったのか、大して驚く様子も見せない。
 ゆるりとシルヴィオは口元からその笑みを排除した。残ったのは、青緑のその目だけ。
「いつまで、こんなくだらねぇことを続けるつもりだ、爺さん?」
 くだらない、とはっきり言い切ったシルヴィオに電話向こうの老人は一拍置いてから、そして答えを口にした。死ぬまで、と。
 シルヴィオはその答えに、そうかと答える。
「馬鹿な爺さんだ」
『馬鹿な爺につき合わせて悪いな』
「悪いと思うなら、やめりゃいいのにな――――――大地の爺さんよ」
 土台無理な話だ、と老人は笑って答えた。
 ああここにも一つの形に縛り付けられた男が一人いるのか、とシルヴィオは別れの挨拶をしてから電話を切った。携帯電話を机の上に放る。からがらと滑って、それは床の絨毯に落ちてしまった。ポケットから煙草を取り出して、口にくわえるとそれに火をつける。かぷりと煙を吐き出した。
 結局嵐は過ぎ去り、大きな爪痕を残したものの、彼女には大変良い教訓となったことだろう。
 シルヴィオは煙を吸い込みながら、肺胞の奥、隅々までその煙を充満させる。そして、ひっそりと願う。当分はあの我儘な御曹司が大人しくしてくれることを。
「久々の休暇でくつろぎたいもんだぜ」
 かぷふ、と吐きだした煙は天井でくぐもって消えた。