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落ち込んでいる、とは少し違う様な感じがする。
XANXUSはグラスを傾けて、氷を鳴らしながらテキーラを喉に注いだ。冷たい味が舌の上に転がってから、食道へ、胃へと落ちていく。
別段無理をして笑っている様子もないし、もう何日前になるか覚えていないあの夜以来、泣いてもいない。ただどこか、そう、どこか以前とは違った関係になっているような感じがする。離れていこうという気は感じられない(無論それを許すわけもないが)かといって近づく感じもない。
ああそうか、とXANXUSはグラスの中のテキーラを飲み干して、ようやくその事実に気づく。
最近、妻である彼女は、自分が触れると不思議な色をその目に浮かべるのである。一瞬、ほんの一瞬。しかしながら、セオの夜泣きも最近ではもうほとんどないし、離乳食も問題なく食べている。育児疲れと呼ぶには奇妙である。
ことりとその手からグラスが机の上へと置かれた。と、そこに二枚のチケットが置かれる。視線を上げると、そこには銀色のカーテンがかかっていた。鬱陶しげにXANXUSはそれを睨みつけると、机の上に差し出されたチケットに目を落とす。
「あ?」
「さっきルッスーリアが持ってきたぜぇ。あいつは今、晩飯の準備で忙しいから俺が代わりに渡しに来たぁ」
「だから何だ」
そうXANXUSは椅子にぎっと背中を預けて、銀色の髪を持った男に、スクアーロを睨みつけてそう問うた。スクアーロはその鬱陶しげな視線を受けながら、一度机の上に置いたチケットをもう一度自分の手に持ち直してひらりと振る。
「マフィアランドのチケットだぁ。てめぇ、アイツずっと屋敷に閉じ込めてんだろぉ。シャルカーンの野郎ももう大丈夫だって言ってるし、いい加減に外の空気吸わせてやったらどうだぁ?」
別に閉じ込めていたつもりはない、が、しかし、外に出して倒れられでもしたら困る。それ故に買い出しにも行かせなかった。むっとXANXUSの眉間に皺が寄ったのを見て、スクアーロはにかっと明るく笑って、その二枚のチケットを差し出した。
「餓鬼はルッスーリアが面倒みるから心配いらねぇ。たまには東眞に気分転換でもさせてやれぇ」
気が詰まっちまうぞぉ、とスクアーロは言って二枚のチケットをひらつかせる。XANXUSはフン、と鼻を一つ鳴らしてそのチケットをスクアーロの手から奪い取るようにして手にした。
そして、翌日。
XANXUSは目の前に笑顔で立っている男を腕を組んで睨みつけていた。そしてXANXUSの隣に立っていた東眞は目の前にいた男にぺこりと頭を下げた。
「こんにちは、ディーノさん」
「久し振りだな、東眞。元気にしてたか?」
「はい」
とても、と微笑んだ東眞にディーノはにかっと笑う。XANXUSの後ろではひょいとスクアーロが扉の奥から姿を現す。そしてディーノの姿を認めて、よく来たなぁ、とからりと呼びかけた。だが、スクアーロがXANXUSの隣を通り過ぎる前に、その手がスクアーロの胸倉をつかんで、壁に叩きつける。
低い声で唸るようにXANXUSはスクアーロに話しかけた。話しかけた、などという生易しいものではなかったが。
「…てめぇ、このカスが…カス馬がなんでいやがる…」
ふざけんじゃねぇ、と腹の底から響くような低い声だったものの、スクアーロはそれを気にする様子もなく、反対に怪訝そうに眉をひそめた。
「だってなぁ、俺も他の奴らもマフィアランドに遊びになんざ行かねえだろうがぁ…それだったら跳ね馬の野郎に案内頼んだ方がいいと思ってだなぁ。それに、ボスだってマフィアランドの何がどこにあるのか知らねぇだろぉ?跳ね馬はその辺詳しいだろうしだなぁ、」
俺が気を利かせて、と言いかけたスクアーロだったが、XANXUSの膝が鳩尾にめり込んだことによってそれ以上の発言は許されなかった。スクアーロの胸倉を放せば、その体はずるずると壁を伝って地面に落ちた。
行くのをやめる旨を東眞に言い渡そうとしたXANXUSだったが、その言葉は喉で止まる。
「楽しみにしてたんです、マフィアランド。遊園地は本当に何年かぶりで…大好きなんですよ」
絶叫系の乗り物とか、と東眞は目を細めて嬉しげに笑う。それにXANXUSは行くのをやめるのを言い出す機会を完全に逃した。東眞はXANXUSの方を向いて、楽しみですねと笑いかける。もうこうなっては行くしかない。行かないのは沽券に関わる。眉間に軽く皺を寄せて、XANXUSは軽く溜息を吐いた。肯定もせず否定もせず、しかしそれは了承の合図でもある。
「東眞!」
「ルッスーリア」
ひらりと扉からセオを抱き抱えたルッスーリアが姿を見せる。ディーノはへぇと声を漏らし、ルッスーリアの腕の中の赤子を見下ろして、笑う。
「うわ、XANXUSそっくりだな。目元とか特に」
「んふふ、でも可愛いでしょぉ。安心して頂戴、東眞。Jrの面倒は私たちがちゃんとするから」
「すみません、お願いします」
「任せてちょーだい!スクアーロ、あなたもそんなところで寝てないで、Jrの面倒みるのよ」
ルッスーリアの言葉に、スクアーロはXANXUSに蹴りつけられた鳩尾を抑えながらゆらりと立ち上がる。数回せき込んでから、スクアーロは分かってらぁと口先を尖らせた。
東眞はオムツや離乳食の場所、セオが好きな食べ物や玩具のことをルッスーリアに最後にきちんと伝えておく。
「それと…」
「東眞」
柔らかな声に東眞はふいとルッスーリアの方へと視線を上げた。片手でセオを抱え直して、朗らかな笑みをルッスーリアは東眞に向けるとその肩を軽く叩いた。
「今日はしっかり楽しんできなさいよ。Jrの心配はいらないわ。だから、気兼ねなく。ね」
「…ありがとう」
ルッスーリア、と東眞は自然と浮かんだ笑みをルッスーリアへと向ける。その笑顔にルッスーリアも眼鏡の奥で目を細めていいのよ、と頷く。
「話も済んだようだし、」
じゃぁ行くか、とディーノは人のよさそうな笑みを顔一杯に広げた。
「哲」
修矢の呼びかけに哲は道具を動かす手を止める。分解された銃がその前には一つずつ丁寧に置かれていた。
「はい、坊ちゃん。どうされましたか」
手を止めた哲は修矢の方へと膝を向ける。修矢はそれに頷いて、ああと続けた。
「砥ぎに出してた俺の刀、あれもうできてる頃だと思うんだが…返ってきてるか?」
「ああそれならつい先程」
持ってこられましたよ、と哲は微笑を浮かべてから立ち上がると、襖をあけてそこに丁寧に置かれている袋を手に取った。そして、それを修矢へと差し出す。その袋を受け取ると、修矢はおもむろにその紐をといて、現れた黒塗りの鞘から刃を外気に触れさせる。し、と金属音の後に抜け、眼前にさらされた刃の鋭さに修矢は満足げに頷いた。
「うん、いいな」
刀身を眺め終えて、修矢はそれをゆっくりとした動きで鞘に納める。
哲は、しかし、そんな修矢を少しだけ残念そうな表情で見ていた。それに気づいた修矢はどうした、と反対に問い返す。それに哲は軽く溜息をつく。
「刀だけではなく、銃を使われるおつもりは…」
「ない。飛び道具なら、別の方策も考えてる。流石に近距離だけっていうのは問題だってのは、あの時わかったよ」
修矢はハウプトマン兄弟に攻撃を仕掛けられた時のことをはっきりと思い出す。圧倒的な力の差はなかったにせよ、相性の悪さから苦戦を強いられたのは記憶に新しい。
「俺は、銃は嫌いなんだ」
「?」
ぽつりとした呟きに哲は小さく首をかしげた。自分の主は好き嫌いが強い性格だが、その好き嫌いで扱うかどうかを決めるような人間ではない。
そんな哲の反応に気づいて修矢はかすかに続ける。
「殺した感触が、ない。引き金を引くだけで簡単に人の命を奪える。肉を断つ感触も、命をこの手で奪う感覚も、薄い。それが――――――――――俺には、怖い。お前も姉貴も、忘れないから使えるんだろうけど、俺は忘れそうで怖い。この身にはっきりと覚えさせたいんだよ、俺は。先のある命を俺が、この手で、断ち切ったっていう事実を。絶対に忘れないように。それに俺は、それを忘れちゃいけないから。絶対にだ。」
絶対に、と繰り返した修矢に哲は短く、そうですかと返す。やけに部屋が静まり返って、修矢はからりと笑ってそれを溶かす。
「まぁ、俺の持論だ」
「今度刀でもお贈りしましょうか」
「やめとけ、お前当分好物が食えなくなるぞ」
プリンがな、と笑われたが哲はそうですね、と簡単に返した。そして銃の組み立てを再開する。
「そのように考えておられる坊ちゃんへと贈る刀ならば、それだけの価値はあります」
そうでしょう、と視線を向けられて修矢はつと答えに詰まった。胸の奥から嬉しさがすくんと持ちあがってくる。何故だか妙に気恥しくなって、修矢は、口先を尖らせた。