28:貴方の妻であるということ - 5/6

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 確実に打ち取る、修矢の目はそれだけを捉えていた。
 切先を構え直して、もう周囲を気にすることは一切なく、ただ目の前の相手だけに集中する。指先、目、足の其の微々たる動き一つすら見逃すことはなく、観察し、思考する。相手の武器はもはや手の中にある電気を発生させるためのもの、二つのみ。他は全て哲によって撃ち落とされている。もしもそれ以外にもあったとしても、もう問題はない。背後からの援護射撃がそれを阻害する。
 力で劣ろうとも速さがある。力で押しつぶされる前に速さで仕留める。刀で心の像をえぐれば、人は死ぬ。
 じゃり、とレヴィの足が地面をひっかく。まだ、重くない。もう一歩二歩、そして、そのつま先に重みが強く圧し掛かった。それと同時に修矢も動く。
 突きだされた傘を刀の峰で受け流しつつ、力の方向を変える。そして反対側から突きだされた電撃を纏う傘は地面を強く蹴って高く飛び、宙で体を反転させてかわす。相手の背中が見えた。落ちながら、相手が振り返る前に仕留めようと修矢は刀を残していた状態から持ってくる。足が地面に着くと同時に体を捻り、心の像をえぐり取る。切先が肉にのめりこみ、背骨、肋骨に邪魔をされぬように水平に潜り込ませる。
 しかしながら、相手もそうたやすくもなかった。刀が体に届くよりも僅かに早く傘でそれを大きくはじく。方向をずらされた切先は相手の耳だけを軽くかすめた。鮮血がぷっつりと宙に舞う。だが、その視界に修矢は赤色以外の、小さな機器を見た。
 通信機、そう判断する。レヴィ自身もそれが外れたのに気付いたのか、飛んだそれを手で取ろうとしていたが、修矢の刀の方が一寸早い。刀の峰で空気の流れに乗せるようにし、修矢はそれを自分の方へと弾き、そして通信機を掌に納めた。追いすがってきた傘を刀ではじき、後退することで避ける。
 両者の間にまた距離が開けられる。
 レヴィを睨みつけながら、修矢は手の中に在る機械をするりと弄んだ。広範囲の音まで拾うことのできる高性能のものである。そこからは、ハウプトマン兄弟に関して今後どうするのか、命令を求めている部下の声があった。光っている白いボタンと、それから赤いボタン。
「こっちの赤いボタンは――――――――何だろうな?」
 くっと修矢は口元を歪めた。白が部下への連絡用ならば、赤は恐らく「あの男」であろう。自分の最も大切な存在を奪い、今現在、姉を一番悲しめているであろう存在。
「待
「動くな。一歩でも動けば、お前の頭を哲の銃弾が吹き飛ばすぞ」
 ちき、とレヴィは銃口がはっきりと自分の眉間に標準を合わされているのに気づいた。動いたとしても確実に当てられる、というのが見解である。電気傘で防いだとしても、先程の銃弾を使用されれば、砕け散った弾丸の破片が体を貫く。
 レヴィはぐっとそこで踏みとどまった。任務は確実に遂行しなければならないが、ハウプトマン一家が出てきたならば、一旦退却するかどうかで検討せねばならない。あの兄弟相手ではいくら雷撃隊であろうとも分が悪いと言わざるを得ない。アクシデントによる不要な死者は避けるべきである。
 修矢は押し黙り、唇を噛みしめているレヴィに対して警戒だけは怠らずに、その通信機に向かって言葉を投げた。

 

 嫌な沈黙が下りている。言いたいことを、蟠っていたことを双方口に上げたが、結局それで解決する問題ではない。
 そもそもの意見の食い違いは思想の違いからあるのだから、お互いの想いが述べられたところで、どうにもならないのである。つまりは、どちらかが下がらなければ、相手の論を僅かなりとも受け入れなければならない。
 だが、その緊迫感は突然這った通信音でいとも簡単に崩れ落ちた。ざざと鈍い雑音の後で、東眞の耳には最も聞きなれた、よく知った声が聞こえてきた。
『聞こえてるか、この屑野郎』
 XANXUSを屑よわばりするのは、少なくとも東眞が知る中では一人である(いい加減にやめるように言ったのだが)修矢、とほろりと東眞の口からその名前がこぼれる。無事だ、と分かって体の力が一気に抜けた。
 XANXUSは返事をしない。だが、通信機の向こうでは声がさらに続けられた。通信機をつぶさないのは、ただ、潰しても会話が持たないからである。
『姉貴に何をしたのかは、今は俺が問うことじゃない。それは、姉貴の問題だ。だが、姉貴は俺たちの仲間だ。俺たちの家族だ。俺たちの一人だ。アンタが姉貴に、桧の者に無理矢理に手を出したならば、俺はアンタを殺しに行く』
 すぅ、とXANXUSの赤い瞳が動く。しかしそれは通信機の向こうに伝わるはずもなく、修矢はさらに続けた。
『姉貴――――――――…もし、そこにいるなら、聞いてくれ。どこにいても、俺たちは姉貴の味方だ。今回桧が被ったことは、姉貴が背負うことじゃない。桧は、俺たちは全力を持って仲間を、友を守る。だから、姉貴』
 東眞は修矢の声に目尻に涙をためた。
『こっちの心配はしなくていい。姉貴は、自分のことだけ、考えてくれ』
 心配しないで、と修矢の声は切れた。たったそれだけの言葉で、通信はなくなる。以前の修矢ならば、XANXUSをどこまでも悪しざまに罵ったことだろうに、と東眞はどこか遠くでそう思った。
 そして何より、その心遣いが嬉しかった。一つだけ、胸が軽くなる。ほた、と頬の上を滴が伝って下に落ちる。
 泣く女を、XANXUSは眉間に皺をよせて見ていた。
 また泣いた、と思った。
 目の前に自分がいるのに、腕に子供を抱えて、縋ることもなくただ立ち尽くして、涙を落したと。幸せだと言うのに、いつだってこうやって一人で泣く。縋って泣けばいいのに、もっと頼ればいいのに、大丈夫だと笑って。
 考えていた。本当は、車の中でも、狂う様な怒りの中でも、ずっと。
 自分がああやって子供のことを持ち出すたび、誰かが持ちだすたびに、一人でたった一人でこうやって泣いたのかと。笑顔を見せて、新しい命に触れながら、反面で、抱え込むその不愉快になるほどの悲しみを一人で泣いて暮らしていたのかと。
 幸せだと笑って、幸せだと触れて、幸せだと歌いながら――――――――泣いていた。
 頼られなかったのに、腹を立てていたのだ(今でも立てているが)自分がいるというのに、それを無視されたような気がした。頼っていると周囲は(特にルッスーリアは)言うが、そんな風には見えない。思えない。今だって、こうやって一人で泣いている。一歩だけ下がって、抱きよせることもさせずに、そうやって距離を自ら開けて。自発的に距離を置いて、こちらから手を伸ばすとさらに一歩下がる。そんなちっぽけな罪悪感など、打ち砕いてやるのに。
「逃げんじゃねぇ」
 息を一つ吐いて、XANXUSはそう、東眞に告げた。
「俺から、逃げるんじゃねぇ。お前だけは、俺から逃げるんじゃねぇ」
 目の前の瞳が揺らいで、立ち止まっている。見上げている瞳は、困惑していた。腕に小さな命を抱いて、それを守るかのように。誰から、俺から。
 言葉を探す。相手が自分に言葉を伝えられるように、と。
「――――――――餓鬼を、どうこうするつもりは、ねぇ。俺が、怒ってんのは、そうじゃねぇ」
 まだ黙ったまま、こちらを見上げている。まだ話せないのか、と言葉をさらに探す。静寂の空気を自分の言葉が揺らす度に、これであっているのかどうなのか、多少戸惑う。
「てめぇは、なんで俺を頼らねぇんだ」
 今度は、言えた。脅すような声ではなく、静かな、相手に「聞かせる」声で。自分の言葉に東眞の喉が上下して、言葉を探している。
「俺がいるのに、てめぇはなんでいつも一人なんだ。一人で勝手に何でもするんじゃねぇ」
「私は、そんなつもり…は、」
 ない、と言いかけたその言葉を潰す。
「一人で、決めただろうが。てめぇの命も顧みずに、俺――――――…の、ことも考えずに」
 くそ、とXANXUSは言葉を吐き捨てた。口にすれば、これほど恥ずかしい言葉はない。
 黙って東眞の言葉を待てば、ゆっくりとだが答えが返ってきた。
「悲しませたく、なかったんです…それと、産みたかったんで、す。私が、貴方の子を、産みたかったんです。我儘だって、分かってました。それでも、たった一人――――この先は、絶対産むことが叶わない、から…だから」
 XANXUSにその気持ちは分からない。血の繋がりなど問題ではないのだということは、自分が一番よく知っている。血に、翻弄され続けた自分が一番よく知っている。
「愛する、人との子を…殺したく、なかった…っ…それがどんなに、小さな命でも…っ、殺したく、なかった…っ」
 最後は嗚咽に交じった答えが返ってくる。怒鳴りたかったが、まだ耐えてみる。言葉はまだ続いた。
「確率とか、数字の問題ではなくて、ただ、ただ、死にはしないって、そう、決めて…っ、貴方を残しては死ねないって…っ!XANXUSさんがいたから、いてくれたから、産もうって、」
 決めたんです、と涙と言葉が混じった。
 しかしXANXUSにはやはりよくわからない。自分がいるのが分かっているならば、そこは産まないほうに決断すべきなのではないのかと。なのに、何故か目の前の女はそれを産む方へと結論を起こした。分からない、少しも。
「こんな、こんな――――――でも、貴方がいるから、大丈夫だって、どこかで…思ってました」
 それは絶対的な信頼。
「XANXUSさんが、神様でも何でもないのは知ってます。死ぬのは、ずっと怖かった。命と、張り付いてくる死が怖かった。でも、身勝手でも、分かってますけど、相談もせずに期待もするのはお門違いだって…知ってましたけど、でも、貴方がいるだけで、」
 それは確かな勇気となった。
 ほろほろと落ちてくる涙の中で、小さな声が上がった。それは、一つの赤子の泣き声だった。ああ、と声をあげて泣きわめきだしたセオに東眞は涙を流しながら、ぎゅぅと抱きしめる。だが、涙は止まらない。
「身勝手をして―――――――本当に、ごめんなさい」
 ようやく最初から最後まで言えた謝罪は赤子の泣き声にまみれていた。XANXUSは目を眇めて、言葉を探すために一寸置いてから、口を開いた。
「餓鬼は、」
「?」
「親の顔を見て、泣くんだとよ…黙らせろ」
 あのカスが持ってきた本に書いてあった、とXANXUSはぶっきらぼうにそう告げる。許すとは言わなかった。ただ代わりにそう言ってみた。それで伝わると、そう思ったからこそ、そう言った。その言葉をどう取るのかは目の前の女に任せるしかない。ただ、伝われば、いい。
 すると目の前の女はその言葉をどう取ったのか、一度目を丸くしてからそれから、微笑んだ。ほっと落ち着くような、泣かないでと赤子に、セオにその笑顔を向けた。数回腕をゆすれば赤子はあぁと声をあげて、手を振る。涙でまだ顔がくしゃくしゃだったが、すでにその表情は嬉しげな笑顔になっている。
 そして東眞の方をXANXUSはもう一度見ろ押して、そして唇で言葉を作る。
「てめぇは、足へし折られるのが怖ぇから、帰ってくんのか」
 もうすでに帰ってくる前提の会話に東眞は小さく笑った。そして首を横に振るう。いいえ、と答えた。
「貴方の側にいたいから―――――――――――、帰ります」
 XANXUSはその答えに通信機を取って、レヴィ、とその名前を呼んだ。返事は既に少年のものではなく、自分の部下のものであった。
『はっ!』
「撤退しろ」
『……はっ』
 気のせいか、どこかほっとしたような響きがあったように思えた。通信機をポケットに押し込んで、子供を抱える女に向き直る。
「貸せ」
 そう言ってXANXUSは東眞の腕から泣きやんだセオを引っ掴んだ。そして抱き上げて顔をのぞき見る。片腕でひょいと腹と胸を合わせるようにして抱くが、既に首が据わっているので、だらしなく奇妙な生き物のように首が垂れることはない。
 扉を開けて、外に出る。しかしながら、ついてくる足音が足りずに振り返る。暗い部屋の中では東眞が一人、止まっていた。
「構わないん、ですか」
 そんな東眞の言葉にXANXUSは一度振り返っていた赤い目を前に戻して、階段を下り始める。
「しつけぇ。来い」
 そして一人で上がった階段は、三人で下りる階段になった。

 

 もう用はない、と修矢が投げ返した通信機からXANXUSの命令が届き、膠着していた空間からレヴィは背筋を伸ばした。武器は既に下に向けてある。
 双方に敵意がなくなり、修矢は刀を鞘に納めた。
「アンタ」
 部下に通信を終えたレヴィに修矢は声をかけた。その声にレヴィの目が動く。敵意はないものの、緊迫感だけはそこに存在している。
「―――――――――アンタの、ボスは姉貴のことを、大切にしてるのか」
 零れた、レヴィはほぼ初めて聞いた、その誰かを思う声音に一度視線をそらす。そして、その唇から音を紡ぐ。
「俺が願うのは、ボスの幸せだけだ。俺に言えるのは――――――ボスが幸せならば、あの女は、幸せだと言うことだ」
 ふん、とレヴィは鼻を鳴らして、そして地面を強く蹴った。夜にまぎれるものは、夜と同化して、そして初めから何もなかったかのように消え去った。
 哲、と修矢は振り返って口を開こうとしたときに、扉の向こうから表れた二つの金色にああ、と声をかける。二人とも、というよりも約一名が酷く残念そうな顔をしていた。
「いやー駄目だな。さぁやろう!って思った瞬間に引かれちゃったよ。うーん、見せどころがなくて残念」
「…と、言う割にはあまり残念そうにも見えないけどな、ヴィル。哲、負傷者はどれくらいだ。死者は」
 修矢の言葉に哲は死者はいません、と答えた。
「負傷者は五名です。ただし、軽傷ですので心配はいりません。本攻撃に入られる前に、ヴィルヘルム氏とヴォルフガング氏が来たのが幸いしました」
「取り敢えずかかりつけの医者を呼べ。で、ヴィルとヴォルフは…」
「ん、俺たちは仕事も終わったし、今日は―――――――泊めてもらう予定で来たんだけど」
 からり、と笑ってヴォルフガングの肩を抱き寄せたヴィルヘルムに修矢はそうだろうな、と軽く肩を上げた。そして、哲に座敷に二人分の布団を用意させるように言う。
 だが、そこで屋敷を四方に囲うように作られた針の壁にうんざりとした様子で溜息をついた。
「あれ、どうにかならないか」
「問題、ない」
 そう言ってヴォルフガングは唇に自分の親指と人差し指をはさみ、そしてひゅっと息を吐く。指笛の音が響き、針の山は一瞬で溶けた。修矢の目の前で。信じられない光景に修矢は目を見張る。
 どうやったんだ、と視線をやったが、ヴォルフガングは素知らぬ顔をして、勿論対応はヴィルヘルも一緒だった。その対応に修矢はああ成程、と笑う。どうということはない、手の内を相手にさらすのは馬鹿のすることである。
「修矢」
「何だ」
「夜食は寿司がいいなー。寿司寿司。手巻きずしでいいからさ」
 そんなヴィルヘルムに修矢は出前でも取ろうか、と時計を見た。しかしながら、残念なことにどう考えても出前が取れるような時間ではなかった。