28:貴方の妻であるということ - 3/6

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 ぞっ、と脳に通常に命令が神経を通じて到達する前に、東眞は反射的に動いた。それは一種の、まるで脊髄反射であった。開けるために握っていた取っ手を閉めるために押し戻す。だが、セオを抱えた腕の力と速さでは、扉が完全に閉まる前に黒いブーツが扉の間に押し入れられる。鈍い音がして、それ以上扉は閉められなくなった。ひゅ、と引きつった呼吸が東眞の口からこぼれる。赤い瞳が、見ていた。
「開けろ」
 暴力は振るわないという約束なので、扉を蹴破ることはできない。しかし気に食わなかった。自分と視線があった瞬間に、あの瞳に怯えの色が走ったのが、気に食わない。
 お前だけは、俺を恐れないのではないのか。
 静かな命令に東眞は身を震わせて首を横に振って、扉に背を押しあてて、セオを腕の中に抱き締めた。
 すると扉の隙間から手が伸びてきて、ぐ、と外側から押される。それを背中で押し返すが、そんなものは抵抗でないも等しい。ずるりと踏ん張っている足がずれた。ず、ず、と扉の隙間が広がる。
「開けろ」
「――――――――…っぃ、や…です」
 精一杯の拒絶をする。何も言葉にできない状態で、セオを、殺されるかもしれない。空のない籠に閉じ込められたくは、ない。それがたとえ自分の過失によるものだとしても、取らなくてはならない責任なのかもしれないけれど、それでも。
 開けろ、とXANXUSはもう一度繰り返す。だが、扉の向こうからの反応はない。頭のどこかで、すぅと血の下がる感覚がした。体の、心臓すらも通り越して体が冷える。
 それならもういい、とXANXUSはポケットに入れていた連絡用通信機を取り出した。そしてそれを口元に当てる。返事など聞かずとも、連絡を受け取る相手のそれはただ一つだけである。
 XANXUSは肺から息を吐き出した。それは振動となり、音となり、空気を震わせて言葉となる。
「やれ―――――――――根絶やしにしろ。殺し尽く、
 せ、の言葉が終わる前に扉が開かれた。どこに、と音のない声が唇から発される。腕に抱きかかえられた幼子は不穏な空気を感じ取っているのか、その胸の中、母の体に己を押し付けている。
 東眞は一度空気を吸い込んで、XANXUSに問うた。
「誰を―――――…っ、何を!」
「てめぇの帰る場所は俺の隣だ―――――――――他に、必要ねぇ」
 その言葉に東眞はぎゅ、っと唇を噛みしめて激昂を露わにする。瞳にともされたその明らかな敵意にXANXUSは顔をしかめた。ふつりと怒りがわいてくる。
「…っ、何だ、てめぇは―――――、俺のことは気にもかけねぇくせに、あのクソ餓鬼のことは気にかけんのか…っ!」
「修矢は、私の弟です!誰にも代わりのできない、大切な、大事な、私のかけがえのない弟です!」
 怒りの滲んだ声に負けじと東眞は声を張り上げる。恐らくは、と東眞の思考はフル回転した。VARIAの誰かが、修矢を、自分の大切な存在を奪いに行っている。自分のしでかしたことが原因で。
 対等に戦えるとは思えない。いくら桧が他の組よりも戦闘的な組であろうとも、彼らとは根本的に違う。殺される。それを考えるだけで、大切な存在が自分の大切な人に殺されると、そう思うだけで身が痛んだ。
「てめぇがそう思っていいのは俺だけだ!」
「―――――…っ貴方は、特別です!特別ですけど、私にだって…っ、大切な人は…いるんです…っ!私と関わってきたくれた人たち、ルッスーリアやスクアーロ、レヴィさんに…、それにヴィルやヴォル、田辺さんに、ティモッテオさん…っ。とても、大切な人たちです。あなただけが、私の全てではありません!確かに、私の世界でXANXUSさんは特別です…、とても、愛しい…、大好きで、大切で、言葉にするには難しいほどの、想いが貴方には、あります。でも、」
 東眞は言葉を区切って、唇を噛みしめた。
 しかし、XANXUSは気に食わない。冷えていた頭にまた怒りが浸透し始める。
「てめぇは俺だけ見てりゃいいんだ!俺の声を聞いて、側にいて、それで幸せだと――――…っ、てめぇは、」
 言い淀んだXANXUSに東眞はまっすぐにその瞳を見返した。色々なものが、吹き飛んだ。悩みも何もかも。ただ今目の前にいるのは、自分がしでかしてしまったことでとても、酷く傷つけてしまった自分が最も愛する人である。
 逃げてはならない。この人には、誠実で―――――、ありたい。
 きゅ、と東眞は口元を引き締めた。
「幸せですよ。私は、XANXUSさんの隣が一番幸せなんです」
「なら――――」
 そこでXANXUSの脳裏にシルヴィオの言葉がよみがえる。話を聞いてやれ、と。
 話を聞いてやっているとふとそう思った。東眞が話して、それを耳にしている。意見を聞いてやっている。これは聞いてやっていることではないのか、と。なのにどうしてうまくいかないのかとも、同時に。
「修矢から、手を引いて下さい。私の大切な人を奪わないで、ください…っ!」
 その名前にまた体がしびれるような怒りが走る。二言目にはあのクソ餓鬼の名前ばかりが口をついて出ている。そして一言目には、
「セオのことも、」
 黙っていて御免なさいと謝った言葉はXANXUSの耳には届かなかった。
 一言目にはその子供の、自分がつけた、命の名前ばかり。ああとXANXUSの中で静かに、ゆるやかに深いものが揺らぐ。
 餓鬼のために命を捨てるのかと。俺の隣が幸せだと言いながら、てめぇはそいつのために命をかけたのかと。相談されなかったのが、一番腹が立つ。そんな大事なことを自分に黙っていたことが、忌々しいのだ。どれだけ自分が大切に、それこそ東眞が言う様な大切な存在のように、思ってきていたのか、それを、振り返りもしないで一言で切り捨てた。
『そう言われるのが、分かってたから』
 そんな一言で、自分の想いを切り捨てられた。
「被害者面するんじゃねぇ…!!てめぇは、俺が話を聞かないと決めつけてるだけじゃねぇか!!」
 俺だって、とXANXUSは憤る。
 言われれば、耳くらい傾けてやった。相談されたならば、聞いてやることくらいした。命をかけると言われれば、首を縦に振ることはなかっただろうけれども、それでも聞いてやるくらいのことはした。
 それではいけないのか、とXANXUSは唸るようにして、東眞を睨みつける。それに東眞は目を一度丸くして、そして、しかしきゅっその瞳を見つめ返した。
「聞いて、も、貴方の気持ちは―――――っ、知ってたから、分かったから、だから話さなかったんです!」
 東眞は別れた時と同じ言葉を繰り返した。まただ、と胸が締め付けられる。
 相談すべきだった、というのは分かっている。納得させるまで話しあうべきだったというのも、分かってる。でも、それができる相手とできない相手がいることも、東眞は分かっていた。判断したのだ。XANXUSは絶対に首を縦に振らない、と。
 だから話せなかった。話さなかったのではなく、話せなかった。
 そうすべきであったとしても、それによって得られる結果はたった一つで、そうするしかなかったのだ。
 東眞のその言葉にXANXUSは壁に拳を打ちつける。凄まじい音がして、部屋が震えたように感じた。ぱら、とひびの入った壁の破片がちらりと落ちる。
 XANXUSはぎりぃと奥歯を噛みしめた。てめぇが、と小さな声で苦しげに、どうしようもないような声が響く。
「―――――――――てめぇが、それを言うのか…っ」
 言わないと伝わらないと、伝えるには言葉が必要だと言ったお前が。だからずっと言葉を探して、慣れないことをして、できるだけ言葉を介して付き合ってやったのに。だというのに、
「てめぇが、伝えることをやめんのか!」
 細く、袋小路に突き当たった赤い目から、東眞は目をそらせなかった。
 どうして自分はこの人を悲しませているのだろうか、と苦しい。痛い。抱きしめたいと思った。だが、今自分が抱えていられるのは、自分と、それから手の中の子供で精一杯である。
 もうどうしたらいいのか、東眞にも、そしてXANXUSにも、分からなかった。

 

 途切れた音にレヴィは雷撃隊に命令を下す。
 視野に入るのは、瓦造りのそう大きくもない日本屋敷。破壊音が、響き渡る。そして銃声も。
「ボス」
 その命令に変更はない。
 すぅとレヴィはその目つきを鋭いものとした。そして、ゆっくりと一歩踏み出して、根絶やしにせんと、地面に降り立つ。だが、その行く手を遮るかのように、一人のスーツを着た少年が立っていた。レヴィはその男を知っていた。と、なれば少年も、こちらを知っているはずである。
 どこで見たのか、と言えば答えは至極簡単だ。しかしながら、容赦はしない。
 少年の手には一振りの刀が握られていた。鋭い、人を殺す者の目がこちらに向けられている。その唇がゆるりと動いた。
「久し振りだな。レヴィ・ア・タン」
 久し振りだと、少年は言ったが、言葉とは裏腹にその刀をずるりと鞘から引き抜いている。肌からあふれ出る殺気は、間違いなくこちらに向いていた。
 レヴィは自身もその武器を取って、修矢と対峙する。
「何があったのかは聞かない。だが、あんたたちは俺たちを殺しに来た」
 そう話している向こうでは銃声が響いている。それでも少年はただ静かに立っていた。
「ならば、俺たちはあんたたちを殺しに行こう。まずは――――――――お前だ」
 ずん、と修矢の体が深く沈む。かしじ、と鞘が地面をこすり鈍い音を立てている。スクアーロのそれとは全く違う剣技がレヴィの前にさらされる。
 しかしながら、その程度で驚き動きを止めるようなレヴィでもない。冷静に、冷徹に、ただ相手を始末する。背に突き立てて在る二本の電気傘を取って、その下から振り上げられた刀を防ぐ。ぎちり、と重みが腕に伝わる。そのまま他の電気傘による雷撃を喰らわせようかとしたが、それをする前に、修矢はすとんとあっさりレヴィから距離を取った。
「ふん――――…スクアーロのような力で押すタイプではないようだな」
「生憎俺はそこまで力はない」
 それはイタリアに行ったときに修矢が思ったことだった。
 幾ら鍛えようとも、まだ成長途中の体では出せる力などたかが知れている。スクアーロのように力で押さえつけるようなものは、修矢には、ない。ならばどう戦うべきか、答えは簡単である。
 修矢は刀を一度鞘に納めて抜刀の姿勢を取った。相手も相手で、流石は暗殺部隊というべきか(沢田たちに聞いたときからは少しばかり驚いたが)一切の油断がない。
 後ろは哲が守る。ならば、自分がこの刀の一振りに集中させる相手はただ一人である。
「ゆくぞ」
 暗殺部隊なのに律義な掛け声を、と修矢はふと口元を笑わせた。
 相手の本気に押し潰されたりはしない。押し潰されなければいい。
 レヴィは八本の電気傘を宙に集中させる。手元がお留守になっているが、それでも構わないのである。レヴィボルタは一撃必殺。当たれば即死である。どんな人間も、雷撃には敵わない。
「レヴィボ」
 ルタ、とばちんとその雷が青白い光を放つ。しかし、それを最後まで言い切る前に、レヴィは視界の端に鈍く煌めいた銀に後方へと下がる。刃はちりと隊服を一文字に触れた。肉にまで達することはなかったが、はらりと布が垂れる。
「貴様…っ!」
 屈辱、とばかりにレヴィは顔を歪め、修矢を睨みつける。しかし、修矢はそのまま足を止めることなく、一度ブレーキをかけた地点からさらに踏み込んだ。突き出した刃の先にはレヴィの目がある。
 暗く、どこまでも静かな、人を殺すことだけに特化した瞬間の瞳の色をレヴィはその眼でとらえた。しかし、レヴィも馬鹿ではない。雷撃を無防備になっている、自分を追いすがる修矢の背に放つ。だが、修矢の動きの方が少しばかり早く、それは地面をえぐっただけに終わる。
 再度二人の間に距離が置かれ、緊迫感が生まれる。
 戻された電気傘を再度手に取り、レヴィは砂利を踏んだ。手こずっている、というわけでもない。ただ相手の品定めは終わった。
 そして、レヴィは勝利を確信した。それは武器故にある。相手の武器は鉄製の武器、つまり電気をよく通す武器である。次に攻撃を仕掛けてきたときが、この男の最後だ、とレヴィは構えた。
 最後まで構え終わる前に修矢はまた地面を蹴る。繰り出された突きをかわし、そしてそこから払ってきた刀を、電気傘で受け止めた。
 ここだ。
 ばち、と激しく雷が弾け飛んだ。これで相手は感電死しているはずである。
 だがしかし。レヴィが目の当たりにしたのはそうではなかった。変わらぬ静かな目でこちらを見て、打ち付けた刀を傘に滑らせて、再度突きを繰り出してきたその姿であった。
「ぬ、ぅ!」
 ちり、とレヴィの頬に熱い感触が走る。感電死しているはずの人間は、平然とした顔をして立っている。何故だと疑問に満ちた表情に修矢は刃を払って、距離を置いているレヴィをしっかりと見る。次の行動は何か、と。
「貴様―――――――何故…」
「自分の手の内を明かすのは馬鹿のすることだ。それは、あんたたちが一番よく知ってるだろう。安心しろ、俺は一切の手を抜かない。ただこの刃であんたの心臓を止めるまで、刃を振るう。殺せるものならば殺してみろ」
 銀の刃が表には敵の、裏には持ち主の姿を映し出した。
「桧の牙を容易く折れると思うな」
 そしてレヴィと修矢は地面を蹴った。