28:貴方の妻であるということ - 2/6

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 静かな部屋だった。とても、静かな部屋だった。アパートの階段を上って開いた扉の先には、ソファとベッドと取り敢えずの日常生活用品が置かれていた。
 東眞はふらりとそのソファの上に腰掛ける。小さな部屋はそれだけで一杯になっているようだった。腕の中におさまった小さな命は瞳の色をきらきらとさせて自分を見上げている。何も知らぬ、その瞳で。
「…セオ」
 XANXUSが息子にとつけた名前を思い出す。その名前を呼ぶと、寂しくなる。悲しくなる。思い出して、泣きたくなる。優しく手をつないでくれた、穏やかに見守ってくれた、温かく包みこんでくれた存在を、思い出して。
 また逃げてしまったと、そう思う。伝わらないので逃げてきた。伝わらないと思ったので逃げてきた。きっとそう遠くない未来に捕まるであろうから、逃げてきた。言葉が整理できていないから、逃げてしまった。
 まだ思考がまとまっていないのである。謝ればと思うが、謝って許してくれるような人間でないのは東眞自身がよく知っている。そして、謝って済むような世界でもないことを、東眞自身が知っていた。
「セオ」
 名前に反応して、小さな手が持ち上げられ、そして東眞の頬に触れる。小さな、手。それはあまりにも小さいのだが、とても温かく、命の輝きがある。
 こうやって伝わらないと言っているのも、きっとそれは逃げているだけなのだろうと東眞は思う。
 伝えようとしないから、伝わらないのである。伝わると思わないから、伝わらないのである。それでも、今までの経験が全てがありとあらゆるものが、「伝わる」という思考を妨げてしまっている。先入観とは恐ろしい。
 伝えたいが、伝わらないと、そう思考する。そうすることで自分を正当化しているだけだと考えている。伝わる、というのはつまり自分から相手だけではなく、相手から自分も含まれているのである。伝わると、伝えられることを覚悟しなければならない。
 まっすぐすぎるほどまっすぐな感情を今の自分は受け止めることができない。
 誰にも頼れない。頼りたいのに、頼れない。話し合おうと、話し合いたいと思う半面で、話し合うことで自分の考えを曝け出す恐怖がある。それを理解してもらえない恐怖が、そこに在る。この考えを理解してもらうことはとても難しいであろうし、理解できないと(ああこれもただの言い訳だ)東眞は思う。
 それは相手が男であるから、という理由ではない。相手がXANXUSだから、である。山ほどの葛藤を重ねて、結局そういう結論に至った。
 くす、と東眞は自嘲じみた笑みをこぼす。こすってしまった目尻がひりひりした。
「―――――――結局、自分のことしか、考えてない」
 伝わらないと口を噤むのは、自分の想いが伝わらなくて、自分が傷つくのが怖いから。伝わらないと逃げ出すのは、相手の感情に自分が押しつぶされるのが怖いから。伝わらないと泣いて叫ぶのは、相手の感情から自分を守るため。
「伝えたい」
 でも、伝わらないと自己保身が働く。自分の醜い部分を目の当たりにした。
 シルヴィオは、ここに自分を案内する時にこう言った。人間、傷つきたくないと思うのは当然だ、と。だが自分はもう、そうであってはいけないのだ。一番に考えるべきは自分ではなくて、XANXUSであるべきなのである。
 幸せが堆積していく中で、すっかり忘れていたのかもしれない。大切にされていたから、その事実を見失っていたのかもしれない。それは紛れもない―――――――自分の落ち度。
「最低」
 誰が、勿論自分が。
 その時思考を遮るように扉を叩く音がした。シルヴィオにしてはやや重いような気がしたが、ここを知っているのは彼しかいない。はい、と東眞は立ちあがってドアノブに手をかけた。そしてノブを回して、その先に――――――、赤い瞳を、見た。

 

「薄汚ねぇ車だ」
 はっきりとそう侮蔑の色を示したXANXUSにシルヴィオはそう言うな、と笑ってから運転席に乗り込んだ。XANXUSも後ろの席にどっかりと腰を下ろす。車は特に合図もなく発進させられた。がたんと古びた固い椅子が音を立てる。
 沈黙の空間で、シルヴィオはXANXUSに断りもなく煙草に火をつけた。それにXANXUSは眉を潜めたが何も言わない。
「御曹司」
 忌々しい呼び方をして、シルヴィオはハンドルを握ったままXANXUSに話しかけた。視線を上げることもせず、XANXUSは耳だけそちらに傾けた。
「嬢ちゃんが憎いか」
「てめぇには関係ねぇ」
「まぁ、そうだがな。だが、お前は嬢ちゃんが逃げた理由を知ってるか?」
 その問いかけにXANXUSは馬鹿馬鹿しいとばかりに舌打ちを一つならした。そんな答えは一つに決まっているのだ。殺されるのが恐ろしいから逃げた、それ以外の答えは存在しない。
 シルヴィオはXANXUSのその思考くらいは読めているようで、そうじゃない、と言った。
「殺されるのが怖い、か。だがな、それだけじゃねーよ。嬢ちゃんはな、自分が嫌になったんだ」
「あぁ?」
 何を言ってやがる、とばかりに上がった声にシルヴィオはやはりそこまでは考えていなかったか、と笑う。
 実際この後部座席に座る男は事実認識しかしない。事実によって導き出される答えしか、理解を示さないのである。事実に経験を絡めて答えを出す。それはごくごく一般的な行動だが、この男と彼女の場合はその経験に大きな差異がある。だからこそ今回のような擦れ違いが生じたのだろうとシルヴィオは踏んでいる。
「嬢ちゃんは何も言わなかった。一言も、何も。勿論俺はこういう職業やってるわけだから、大抵のことは分かってたけどな?でも、嬢ちゃんの口からは何一つとして聞いちゃいない。伝えたいことはあるかって聞いたら、さっき言った言葉を呟いただけだ。御曹司――――――――嬢ちゃんはお前を包んでくれたんだろうが、お前は、嬢ちゃんを包んでやってたのか?」
 その言葉にXANXUSはむっと顔を顰める。
 そうしてきた、つもりである。あらゆる外敵から庇護し、大切に、扱ってきた。
「嬢ちゃんにとっての特別は、やっぱりお前だよ。だから、あんま嬢ちゃんをいじめてやるな」
「虐める?」
「話を聞いてやれ」
 苛立ちを含んだ声にシルヴィオはそう、静かに答えた。
「嬢ちゃんはお前の嬢ちゃんなんだろうが、だが、嬢ちゃんが伝えようとした言葉をつぶしてやるな。聞いてやれ。話せなかったのは、お前にも一因があるんだぜ?お前がそういう男だって知っていたから、嬢ちゃんは何もかもを話さなかったんだろうよ」
 運転席に座る男が、何を知っているのか、それとも知らないのだろうか、XANXUSは知らない。し、知る必要もないと思っている。けれどもその言葉は、相手を知らずに続けられる。
「お前が最も愛する女は、お前を愛するが故の自責の念に埋まってんだろうな。どうして、と。嬢ちゃんがそうやってお前に甘えたように、お前は嬢ちゃんに甘え過ぎだ。だが、お前らの違いは嬢ちゃんはお前に甘え過ぎて起きた出来事を悔いるが、お前はそれをしないことだ」
 勿論、とシルヴィオは続ける。
 窓の外の景色が流れて行っていた。
「お前はそれが許されるんだろうがな。当然許されるだけの権利には、施行されうる義務が生じているわけで、お前はそれを全うしているわけだ」
「何が言いたい」
「男と女の付き合いが長く続く方法って知ってるか?」
 話が飛んで、XANXUSは怪訝そうに眉を潜める。シルヴィオはそれにかぷりと煙を吐き出した。車の中に、煙が回る。
「相手の話を聞いてやることだ」
「聞いてる」
「お前のは、口に出された話を聞いてるだけだろーに。話を聞いてやるってのは、相手に話してもいいっていう状況を作ってやることだよ。お前みたいな高圧的な男に話せと迫られて話せるわけねーだろうが。それがデリケートな内容ならば尚更、な。さらに言わせてもらえば、嬢ちゃんは女でお前は男。思考も論理もまた違うし、だからお前は話を聞いてやる姿勢を忘れるべきじゃねーんだ。 いつだって嬢ちゃんがお前のことを全て受け止められるなんて勘違いするな。嬢ちゃんだって、一人の弱っちぃ女なんだからな」
 ゆっくりとエンジンの振動が収まってきている。一つの古びたアパートの前で車が止まった。
 シルヴィオが車から降り、そしてXANXUSも車から降りる。アパートを見上げて、その三階、左から二つ目の部屋をシルヴィオの指が差した。
「あそこに嬢ちゃんはいる。さて、俺との契約はしっかり守ってもらおうか。一つ、暴力を振るわない。二つ、無理強いをしない。これを守らない場合は俺はボンゴレを敵に回す。これがどういう意味か、分かるな?」
 XANXUSはシルヴィオを一瞥すると、階段に足をかけた。鉄錆びができている階段は一歩登るたびにぎっしと音がした。その音を数回聞きながら、XANXUSは目的の部屋の前へとたどり着く。
 少しだけ、頭が冷めていた。腕を持ち上げて鉄製の扉を叩く。一回、二回、三回。はい、とあの柔らかな声がした。耳によくなじむ、その声が。まるで何日も耳にしていないように思えた。
 扉が開かれる。その少しだけ暗い部屋の中に、眼鏡が見えた。その灰色の混ざった黒の瞳が、こちらを――――――――――――――見た。