24:妊婦と旦那 - 6/6

6

 こほん、と小さな咳の音が部屋に響く。
 それに周囲の視線が一斉にそちらに向いた。視線の先に座っているのは、東洋の衣服を隊服の上に纏ったヴァリアー特殊医療班の人間である。彼はその咳の後、深い深い、深海よりも深い溜息をついた。
「…ワタシの話、聞いてたんデスカ?」
 ボス、とがっかりしたような目元でシャルカーンはそう告げた。東眞の隣で転寝をしていたXANXUSはその声に不機嫌そうに瞼を持ち上げて、眉間を一つも二つも三つも寄せて眼光を鋭くした。けれども、そんな目したってダメですカラネ!とシャルカーンは口を逆三角に曲げて軽く怒る。
 そんな光景に、その場にいたヴァリアー隊員は聞いているわけがない、とそうしっかりと心の中で頷いた。冷めたコーヒーや紅茶をルッスーリアは丁寧に淹れ直していく。
「あぁ?」
「あぁ?じゃナイデスヨ。毎月皆サンの話聞いてるト、ボス何やってるんデスカ。ワタシが一番初めに言ったコト、チッとも守ってくれてないデス」
 ぷすぷすと怒ったそぶりになるシャルカーンをXANXUSはうるせぇ、と一蹴した。モウ!とそれにシャルカーンは憤慨する。
「皆サンが東眞サン助けてくれてたみたいデ、適度な運動はしてたみたいデスケド、ボスがそれを一番に妨害してどうするんデス。これも毎月言ってるんデスヨ!ボス!聞いてマスカ?ボスボスボス!」
「るせぇっつってんだろうが!雛みてぇに喚くんじゃねぇ!腹に障んだろうが!!」
「…今一番響いてるのはボスの声デスケド」
 怒鳴りつけたXANXUSにシャルカーンはにっこりと笑顔でそう切り返した。その言葉にXANXUSは、ルッスーリアが入れ替えようとしたコーヒーのマグカップをその手からもぎ取って、スクアーロに投げつけた。突然の行動に(そしてなぜ自分に投げつけられるのか分からないまま)スクアーロはその投擲を額に直撃させた。
「う゛、ぉ゛…っ!」
 熱々のコーヒーが注がれていなかったことは不幸中の幸いである。しかし、ここでシャルカーンではなく、スクアーロに投げつける辺りがまずおかしい。スクアーロはそれを指摘しようとしたが、何を言っても無駄そうなのでがっくりと諦めた。
 大体ですね、とシャルカーンはぷすと怒ったままXANXUSに続ける。頼むからやめてくれ、とスクアーロはそんなシャルカーンをひそかに恨んだ。
「老いぼれは何か勘違いしてやがるし、テメェの小言なんざ聞きたくもねぇ」
 レヴィが廊下につけた手すりにティモッテオが大喜びしていた、というのにスクアーロはそりゃそうだろうと思う。何しろはたから見ればただのバリアフリーである。
「俺のすることに一々文句つけんじゃねぇ」
「妊婦サンを大事にするのはイイデスケド、ボスは少し――――…イエ、トッテモ過保護デス。大体大切にしてるんだったら、ナンデ体洗わせてるんデスカ」
 言った!とレヴィを除く幹部はぎょっとした。だが、シャルカーンは皆の予想を裏切って、さらに言葉を続ける。
「ココはボスが洗ってあげる方デショウ?」
「るせぇ」
 シャルカーンでさえもXANXUSの流れに巻き込まれているのかどうなのか、注意は少し間違ったところにいっていた。小言は沢山だとばかりにXANXUSは大きく舌打ちをして、話を切り替える。
「どうなんだ」
「ドウ、とハ?」
 仕返しとばかりに口元を笑わせたシャルカーンにXANXUSは眉間のしわをさらに増やす。しかしこれ以上すると自分の命が危ないと踏んだのか、シャルカーンは順調デスヨと答える。その答えにXANXUSは開いていた目を、また眠いのかゆっくりと閉じてソファに体を預けた。
 暫くして聞こえてきた寝息にシャルカーンはヤレヤレと肩をすくめる。
「マッタク。コドモじゃないデスカ」
「随分とでけぇ餓鬼じゃねぇかぁ。餓鬼が生まれる前から世話してんだもんなぁ」
 チビの世話なんてらくじゃねぇのかぁ、とスクアーロはからからと笑う。それに東眞は苦笑して、そんなことはと取り敢えずのフォローをしておいた。
 そしてシャルカーンはふいと東眞に視線を向ける。
「七ヶ月無事に過ぎましたケド、最後は気を抜かないでくだサイネ。早産の危険もありマスカラ。これから暫くはワタシも近場の任務しかないデスシ、そう心配もないと思いマスガ…陣痛の兆しを感じたら、スグ、誰かに言って下サイ」
「はい」
 東眞の返事にハイ、とシャルカーンは笑って、ぱちぱちとその両手を打ちならして皆の視線を集める。
「皆サンもヨーク聞いてくだサイヨ。東眞サンがつらそうにしてたら手を貸してあげてくだサイ。ソレカラ、陣痛が始まっても絶対に慌てないコト。ワタシに連絡下サイ。あと、医療班にも連絡頼みマシタヨ」
 ソレト、とシャルカーンは眠っているXANXUSに目を向けてにこ、と笑顔を深くする。
「その時、ボスが東眞サンを抱き上げたり無理に動かそうとするかと思いマスケド―――――――絶対阻止してくだサイネ?」
 危ないデスカラと括られた言葉だったが、それを止める方は確実に命の危険にさらされることだろう。最後の最後のそれには、どうにも弱弱しい返事しか返ってこなかった。
 シャルカーンは仕方ないデス、と諦めて話をそこで切り替えた。
「ソウ言えば、子供の名前、決まったんデスカ?」
「日本名にしようかどうか迷ってるんですけれど…」
 まだ決めてません、と言おうとした東眞にスクアーロの声がかぶさる。
「それだったら、ボスがもう決めてたみてぇだったぜぇ。なんだか夢で見たみてぇでなぁ…ああいうのを妄想っていうんだろうなぁ」
 ちょっと痛々しかった、とスクアーロは頷きながらその時の光景を思い出す。ルッスーリアはまぁ、と笑いをこぼしてそれでとスクアーロに続きを求めた。
「それで、ボスはなんていう名前にしたの?」
「ちぇーっ、王子がつけてやろーと思ってたのにさー」
「ベル。君さっき諦めてたじゃないか」
「るっせー」
 最後のクッキーを口に放り込んで、ベルフェゴールはべぇと舌を出した。マーモンはそんなベルフェゴールに小さく肩をすくめた。ルッスーリアの質問に、スクアーロは記憶を探って、あ゛ぁ、と手を打つ。
「セオだったぜぇ。確か。イタリアの名前じゃねぇが、Theoでセオ。あー…ギリシャ語で神が由来だったような覚えがあるんだが…まぁ、本来はセオドアとか後に名前が続くのが普通だぜぇ」
「イタリア語はhないものねぇ。神ってのをそのまま引用したかったのかしら?」
 考えられるわね、とルッスーリアは柔らかく微笑む。そんな二人の会話を聞きながら、東眞は小さく、セオ、とその名前を口に乗せる。
「セオ」
 繰り返した東眞にスクアーロはしっかりと頷いた。しかし、深い溜息をついて眉尻をぐいと持ち上げて、重たい息を吐く。
「そーだぁ。全く俺が夜通しの任務行った帰りに呼び出すから何事かと思ったんだが…何が嬉しくてあんなくだぶっ!!」
「……てめぇ、何がくだらねぇだ…かっ消すぞ…」
「た、タヌキ寝入りしてんじゃねぇ!!」
「してねぇ」
「今してただろうがぁ!」
「してねぇっつってんだろうが、カスが!!」
 今度はコーヒーが入ったカップが宙を舞ってスクアーロに直撃する。あちぃ!とスクアーロの悲鳴が当然、部屋中に響く。しかし、XANXUSは理不尽にもそれにうるせぇ!と文句をつけて、さらに空になった皿を投げ付けた。
「ス、スクアーロ」
 大丈夫ですか、と立ち上がろうとした東眞だったが、XANXUSにその肩を押さえつけられて立ち上がることができない。東眞はおそるおそる視線を上げると、XANXUSはほぼ睨みつけていると言っていいその視線で東眞を見下ろしていた。
「動くんじゃねぇ」
「……ルッスーリア…すみません」
 スクアーロをお願いします、と東眞は言外にそう含めて、VARIAの母に助けを求めた。しかし、ルッスーリアが動く前にシャルカーンがさっさと適切な処置を済ませていた。どこから取り出したのか、氷嚢をスクアーロに押し付けている。
「ボス」
「なんだ」
 少しばかり非難めいた響きが言葉に乗っており、XANXUSは不愉快気に言い返した。それにシャルカーンはダメじゃないデスカときちんと言葉を発した。
 一色即発になるのかと思いきや、それは続きのシャルカーンの言葉によって呆気なく空気が崩れた。
「熱いモノが入ってるモノは投げちゃダメデス。火傷しますカラ」
 冷たいモノならイイデスヨ、と言い切ったシャルカーンにスクアーロは信じられねェと言わんばかりの目線をよこす。それにシャルカーンはダイジョウブデス!と元気に笑った。何が大丈夫なのか、是非とも問いだたしたい。
「もうスイブン慣れたデショ?」
「…ふっざけんなぁあああああ!!」
「るせぇ!」
 スクアーロの叫びに空のカップが宙を舞った。