24:妊婦と旦那 - 1/6

1

 自称も他称も王子の青年は、胸に金銭欲に満ち溢れているというか金銭欲しか持ち合わせていないのではないだろうかという赤子の容姿をしたものを腕にしていた。そして金銭欲溢れる赤子のような姿をした、しかしながら口調そのほかともどもそれは赤子と見るには多少難のある者はその腕の中におさまっていた。
「マーモン」
 ベルフェゴールはソファに座った状態で、その腕の中の金銭欲の塊の名前を呼ぶ。それにマーモンは自称も他称も王子に何だいと返事をした。
「ここまで来るとボスもウゼー」
「それボスの前で言ってごらんよ、きっと君次の瞬間には灰になってるよ」
 その切り返しはもっともだったので、ベルフェゴールは小さく溜息をついた。思い返せば、とベルフェゴールは少しばかり前に記憶を遡らせた。

 

「貸せ」
「XANXUSさん、これくらい自分でできますよ」
 非常に困ったような顔をして東眞は遠ざけられた洗濯物の山に再度手を伸ばす。だが、XANXUSはその動きを見て取って、その山をもう少しばかり離れたところまで押す。ああ、と落胆した声が上がった。それにXANXUSはさらに眉間に皺を寄せると、その洗濯物の山を持ち上げて、そしてそれを雑誌を読んでいるスクアーロの上に落とした。あ、と東眞は声を上げたが、すでに洗濯物は落とされていて今更どうしようもない。
 洗濯物の山に危うく生き埋めにされかけたスクアーロはそれをかき分けて顔を出した。
「げ、ほ…っ!てめ、てめぇ、何しやがる!!」
「片付けろ」
「か、片付けろって…こりゃ東眞の仕事じゃねぇか。ボス、シャルカーンにも言われただろうがぁ…東眞にゃ普通の生活させてやれって…」
 聞いてなかったのかぁ、とスクアーロは溜息交じりにそう返す。しかし、向けられた銃口に頬を引きつらせて、即座に何でもねぇ、と掌を返した。東眞が困ったような顔をしていたのが目に入ったが、これは見なかったことにする。見なかったに限る。良心が痛むとか痛まないとかこの際は目をつぶることにした。
 洗濯物を下に落として、そしてゆっくりと何事もなかったかのようにたたみ始めた。気遣ってやるならば自分でたためと少し心の底で思ったが、もう言っても無駄そうなので(というかあの男にたためるとは思えない)黙っておくことにした。
 東眞のもとに戻ったXANXUSは立ったままで、上から東眞に視線を落とす。
「動くんじゃねぇ」
 そんな無茶な、とその部屋にいた誰しもが思ったが、XANXUSはそれを一切不思議に思っていないのか、そのまま所用を果たしに部屋から出て行った。XANXUSの足音と気配がこちらに気づかないほど遠くに行ってから、スクアーロは深く溜息をついた。
「てめぇも大変だなぁ」
「…手伝います、スクアーロ」
「そうしてくれぇ。アイロン掛けてくれるかぁ」
「はい」
 任せてください、と東眞はほっとしか顔で微笑んだ。
 全くXANXUSの過保護は異常である。シャルカーンの言葉は本当に頭に入っているのか。スクアーロはげんなりとしながら、洗濯物を手際よくたたんでいく。
「そういや、もう三ヶ月目にはいんのかぁ」
「そうなんですけど…」
 ふ、と東眞に不安が芽生えた。実は何となく感じてはいたのだが、今まではまだ我慢できていた。だが、そろそろも我慢できるかどうか微妙なところである。
 黙り込んだ東眞にスクアーロは手を止めて、どうしたぁ、と尋ねた。
「…いえ」
「腹もさわりゃ、ちったぁ分かるくれぇにはなってきたんだなぁ」
 ベルフェゴールがしょっちゅう興味深そうにほぼ毎日触っているのでスクアーロにはそれが印象に残っていたらしい。東眞はそれに、ええ、と答えて、するりと自分の腹をなでた。ほとんど目立たないが、確かに分かる。幸せそうなその表情を見て、スクアーロはすっかり母の顔だなぁ、と笑って東眞を茶化した。東眞は小さく笑い返してアイロンをかけるのを再開する。
 しかしスクアーロはふ、と違和感を感じてなぁ、と声をもう一度かける。
「顔色悪ぃが、どこか調子でも悪ぃのかぁ?」
 シャルカーンに連絡取るぜぇ、とスクアーロは親切心でそう言ったが、東眞はこれが一体何の症状であるかよくわかっているので、大丈夫ですと答えた。
 が、その時、テレビがぷつっとつけられる。CMの音がうるさかったので、スクアーロは軽く眉間にしわを寄せた。
「う゛お゛お゛ぉぉい!ベル!もうちっと音下げろぉ!」
「は?そっちの声のほうがうるせーっての」
「な、
 んだとぉ、と言いかけてスクアーロはふと隣の東眞の異変に気づく。口元をその両手で押さえて、小さく震えている。
「ど、どうしたぁ!」
「す、みぁ
 せん、と東眞はたちあがって駆け出した。スクアーロはあわててアイロンを切るとその後を追う。ベルフェゴールも流石に不審に思ってそのあとをひょいひょいと追いかけた。
 東眞はトイレに駆け込んで、後ろ手て扉を閉めると便器の両脇に手をかけた。気持ちが悪い。うぇ、と昼に食べた物が胃から食道にまで押し戻されて口から出てきた。げほ、と数回せき込んで内容物を吐き戻す。
 鍵が閉められているので、スクアーロは全く中の様子が分からず、首をただかしげるばかりだ。だが、何かがあったことは確かなので、ただ慌てるしかない。
「う゛お゛ぉ゛おい!!ど、どうしたぁ!平気かぁ!?」
 扉を叩くものの返事はない。到着したベルフェゴールもどうしたんだよ、と平然と尋ねる。スクアーロはそれにわからねぇ、と答えて頭を悩ませる。
 いきなりトイレに駆け込まれては一体何があったのかが分からない。しかしながら心配ではある。
 だがそこに、そして今現れるには最悪なものが姿を現した。
「どうした」
「…」
「何があったと聞いている。カス」
 黙ってしまったスクアーロにXANXUSは睨みをきかせながら、再度問うた。それにスクアーロはしぶしぶといった様子で答える。
「いや…あいつが…口元押さえて突然トイレに駆け込んじまって――――って、ちょ、ちょっと待てぇ!何開けようとしてんだぁ!」
「うるせぇ!」
 蝶番に銃口を向けたXANXUSにスクアーロは心底後悔した。大体中でふつうに用を足している可能性だってあるというのだ。確かに返事がないのはいささか不安ではあるが、腹が痛くて等々理由はいくらでも考えられる。流石のスクアーロもそれは阻止しようと扉の前に立ちはだかった。いくらなんでもそれは東眞が気の毒である。
 だが、スクアーロの制止はXANXUSの拳で儚く散り、そしてXANXUSは容赦なくその銃で二つの扉を支える蝶番を破壊した。そして取っ手をとると、そのまま無理矢理扉を破壊して開けた。
「」
 壊された扉の先には、青い顔で口元を押さえている東眞が座り込んでいた。それにXANXUSは目を大きくする。座り込んでいる東眞を抱き上げようとXANXUSは手を伸ばしたが、しかしその手が触れる前に、というよりも触れそうになった瞬間東眞は便器に向かって吐いた。
 それでXANXUSの動きは僅かに止まる。
「――――――…っ、ぅ、すみ、ま…っXAN、XU、Sさ…っ、向こうに…い、…てぇくだ…さ、ぃ…っ…」
「…あ、あぁ?」
 その拒絶にXANXUSの眉間に深いしわが寄った。口調には苛立ちが含まれる。東眞はもう一度すみません、と謝ったが、XANXUSのところには近づこうともしない。てめぇ、とそれにXANXUSは腹を立てようとしたが、そこに柔らかな声がかかる。
「あらあっら、男共がそろってそんなところで何してるのよ」
「ルッス、…リア」
 ひふ、と一つ息を吐いた東眞にルッスーリアは気づいて、あら、ともう一度小さく笑った。そして、青筋を立てている不機嫌なXANXUSの顔も見る。
「ひょっとして、つわり?」
「…がま、ん…してたん…ですけど…」
 もう限界みたいで、と東眞はひどく弱弱しくそう返した。ルッスーリアは事情を知らない男たちの間をすり抜けて、東眞に手を伸ばした。爽やかな柑橘系の香りに胸やけがどうにか収まりつつ、東眞はルッスーリアの手にすがった。まずは、とルッスーリアはトイレに添えつけられてある飲料用の水道から冷水をグラスにいれると、それを東眞に渡した。
「取り敢えずこれで口をゆすいで。ボス、コーヒー飲んだんじゃないの?」
「…それがどうした」
 む、としたXANXUSにルッスーリアはそれよ、と苦笑した。
「つわりは匂いとかにすごく敏感になるのよ、ボス。コーヒーの匂いも駄目って妊婦さんもいるんだから。考えてみれば、もう三ヶ月ですものねぇ…普通は二ヶ月目からって聞くし、我慢してたの?」
 しなくてもよかったのに、と言ったルッスーリアに東眞はでも、と口元をぬぐってから答えた。
「そこまで、ひどくも…なかった、んです…」
「もう。言ってくれれば、私だってつわり用の食事作ったわよ。ボス、ボスたちの料理は今日から私が作るけど…」
「あぁ?」
 理解できない、といった様子のXANXUSにルッスーリアは少し溜息をついた。全く彼は過保護なのかそうでないのかよくわからない。
「言ったじゃないの、匂いが駄目なのよ。スクアーロなにか匂いのあるものとか見なかった?食べ物とかの」
「あ、王子さっきピザのCM見てた」
「CMでも駄目なの?」
 驚いた様子のルッスーリアに東眞はすみません、ともう一度謝った。それにルッスーリアは気にしなくてもいいのよ、と優しく微笑む。東眞はこの時ほどルッスーリアがいてくれて嬉しかったことはなかった。
 そういうわけなのよ、ボス、とルッスーリアはXANXUSに告げる。東眞に近づこうとしたXANXUSだったが、ふとその足を止めてから踵を返してその場を去った。コーヒーの匂いが去って、東眞はほっと胸をなでおろす。
 歯磨きでもしてくるんじゃないかしらね、とルッスーリアは笑い、東眞はそれにつられて、小さく笑った。そして、ルッスーリアは東眞に手を貸して、それから夜は寝られてる?と尋ねた。それに東眞は実はちょっと、と返した。
「牛乳は大丈夫?」
「…はい、牛乳は」
「なら寝る前にホットミルクを持って行くわね。不眠症によく効くらしいから…それからビタミンB6も欲しいわね…。東眞のは多分吐きづわりだと思うから…悪化防止にビタミンB1もいいんだけど、肉は大丈夫?」
「ちょっと…」
 それは、と答えた東眞に魚は?と尋ねるとはい、と答えた。
「それならマグロのカルパッチョにしましょうか。それでB1は補給して…まぁ、料理は任せて頂戴!」
「ありがとうございます」
 心底ほっとした顔で東眞は息をついた。
 勿論その後、コーヒーの匂いを無くしたXANXUSが平気か、と尋ねてきたのは言わずもがな。

「確かそのあとボスが大量の炭酸飲料買ってきたんだっけ」
「そー。なんか本でつわり中でも飲みやすいって書いてたみてー」
「…ボスは極端な男だと思うよ」
 本当に、と続けたマーモンにベルフェゴールは否定をすることもなく、頷いた。そして市販のクッキーを手にとって、少しばかり東眞が作ったクッキーを食べたいと思った。