24:妊婦と旦那 - 5/6

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 もう触れれば時折足でけりつけてくる感覚に東眞は思わず目を細めた。それを深い金色の髪のカーテンからベルフェゴールは見る。母、の顔だった。
「なー、東眞」
「何ですか、ベル」
 ぺたっと大きくなった腹に耳をつけて、その胎動を感じているベルに目を落とした。ベルは腹の中の命が動くのをその耳に感じながら、ここに、と笑った。
「ここにホントに赤ちゃんいんの?」
 信じられないといった様子で尋ねられて、東眞は思わず小さく笑ってから、そうですよと答えた。人を殺すことを生業としている者として、そして命をその身に宿せない男として、それは不思議な現象に違いないのだろう。
「男?女?」
「さぁ、どっちでしょうねぇ。分かりません」
「調べねーの?」
 最近は調べられんじゃん、と言ったベルフェゴールに東眞は産まれてからのお楽しみですと微笑んだ。
 体を預けている柔らかなソファの中で、幼い子供の言葉に耳を傾ける。それからベルフェゴールは名前、と東眞に向かって言った。
「俺、名前つけていい?」
 すっげーカッコいー名前にするからさ、とベルフェゴールはなぁなぁと東眞に問う。しかし東眞はそれは無理だろうと笑う。
「XAXNUSさんが首を縦に振ったら」
「…それぜってームリ!ボスがいいって言うわけねーじゃん。ちぇーっ」
 ぷぅと頬膨らませたベルフェゴールの姿に東眞は数時間前までいたXANXUSを思い出す。その時のXANXUSもベルフェゴールと同じ行動を取っていた。ただ新しい命に耳を傾け、腹の中でゆるりと動くいた赤子に、一つ、動いたぞと心なしか弾んだ声でそう呟いた。
 男所帯なここだが、意外とどの人も東眞に会えばその腹に触りたがる。ベルフェゴール、スクアーロ然りである。勿論ルッスーリアもそうだった。傍観していると思ったマーモンでさえも、その小さな手を腹に乗せたものだ。
「不思議ですか?」
「あ、何が?」
 聞き返したベルフェゴールに東眞は、ここに赤ちゃんがいるのがと尋ねた。それにベルフェゴールは東眞の腹にもう一度、その両手を乗せて、まーねと返した。
「生きてる、ってのが、不思議。根絶やしにしろって命令があった時、東眞みてーに腹が大きな女がいてさ。とーぜん任務だから殺ったんだけど。冷たかった。すげー、冷たかった」
 だから不思議、とベルフェゴールは答えた。そしてまた子供のような笑みを浮かべる。
「動いてんじゃん、すっげ。腹ん中で動いてんだろ?破けたりしねーの?」
「――――――…したら困りますよ。こうやって動いてくれるのは元気な証拠です」
「ふーん。ボス似?東眞似?」
「それこそ産まれてみないと」
 分かりませんよ、と東眞は二度目になる答えを返した。そんな光景を眺めながら、ルッスーリアは平和ねぇとぼやく。
「もう七ヶ月目だったわよねぇ…もう本当にボスには大変だったわぁ…」
「…ええ、まぁ…まさか、ああまで大切にされるとは思いませんでした…」
「全くだぜぇ。グラスの再購入の量がここ数カ月倍になってるぞぉ」
 すみません、と謝った東眞にスクアーロは、てめぇは気にすんなぁと手を軽く振った。
 鬼の居ぬ間に、とはよく言ったもので、現在XANXUSは会合で席をはずしている。マーモンとレヴィは珍しい組み合わせで任務に出ていた。
「でも、」
 と東眞はふと思い出した話を持ちだした。

 

 ぎゅ、とシャワーのコックを捻って温かな湯を頭から浴びる。目立ってきたお腹に滴が弧を描いてゆるゆると落ちて行っていた。髪の毛に指を差し込んでごしごしと頭皮をマッサージするようにして洗髪する。肌を伝っていく湯に東眞はほうと息を吐いた。全身を、腹を丁寧に洗ってからよいと体を持ち上げて、湯船につかる。浮力も手伝ってか、湯の中は大層体を動かすのが楽である。気持ちがいい、と東眞はほろりと言葉をこぼした。大きく伸びを一つして、ほうと息を吐く。肩の力を抜いて、少しむくみの見える足をほぐす。
 シャルカーンは東眞にきちんと妊娠中毒についての説明もしており、東眞もそれをよく聞いていたので、これがその一種であることは知っている。もう少し食生活を見直した方がいいだろうか、と東眞は本日の三食を振り返りながら、後でルッスーリアに相談することにした。
 湯の上に濡れたタオルを乗せて、ぷぅと風船を作った。
『姉ちゃん!それ、どーやんの?』
 すっげ、と小さな目を輝かせた修矢の顔が脳裏をよぎる。小さな手では小さな風船しか出来なくて、修矢はそのかわりにいつもそのほっぺたに大きな風船を作っていた。
 この子も、と東眞はふとその腹に手を乗せて考える。そうやって、楽しんでくれるようになるのだろうかと。
『いーちにさーん、しーご、ろーく、しちはーちく!おーまけのおまけのきしゃぽっぽ、ぽーっとなったら、』
「…かーわりましょ」
 小学生に読むにしては随分と幼年時向けの本だったが、興味を示していたので読むと、修矢はそれを一つで覚えて風呂で歌うようになった。確かその歌は絵本では、ブランコを交代する時に歌った歌のはずだった。
「はい、次は
 修矢、と思い出を振り返るようにして呟こうとした言葉は、突然開けられた扉の音で消えた。ぎょっとして東眞は慌ててそちらに目を向ける。体中に深い傷を残した男が立っていた。
「…XA、XANXUSさん…」
 腰にタオルを巻きつけてあるとはいえ、突然の来訪に驚かざるを得ない。しかし、XANXUSはそんなことは大して(どころか全く)気にしていない様子で、ずかずかとタイルの上を歩く。
 そして、湯船のところまで来て東眞を見下ろした。
「寄れ」
「え…あ、はい」
恥ずしがるなどともうそんなことは頭から吹っ飛んでいて、東眞はXANXUSの言葉に素直に従った。
 少し寄って、目の前のスペースにXANXUSは足を突っ込んで湯船に体を沈めた。ざばりとその体積の分だけ湯があふれ出す。ふ、と息を吐いたXANXUSに東眞はようやく、どうしたんですかと声をかけた。
「不満か」
「い、いえ。そういうことではなくて…どうされたのかと。その、一緒に入るのは…初めて、ですよね?」
「ぶっ倒れたらことだろうが」
「…倒れませんよ。流石に」
 そこまで不注意ではない、と東眞は苦笑を浮かべた。しかしXANXUSは聞いているのかいないのか、一つ鼻を鳴らして全身の力を抜くと湯に体を任せた。
 ぽちゃん、と天井から落ちた滴が湯の中に波紋を作る。
「でかく、なったな」
「はい、もう七カ月ですよ。チャノ先生が言うには、もう人の形ができてるそうです。時々指もしゃぶってるらしいんですよ。羊水の中をくるくる回ったりして、ほら、触ると動いてるのがよくわかるんです」
 その言葉にXANXUSは手を動かして、東眞の腹に触れる。肌と肌が触れ合い、より直接的な感覚がその掌に伝わった。
「…動いてんだな」
「動きますよ。ベルと同じことを言うんですね」
「るせぇ」
 むっと顔をしかめたXANXUSに東眞は微笑んで、声を少したてて笑った。その頬に大きな手が触れて、髪の毛を掬う。
「ありゃ、何の歌だ」
「歌?」
 聞き返した東眞に、XANXUSは軽く苛立ちを含めて、さっきのだと繰り返した。それに東眞は、ああ、あれですかとその歌をもう一度口ずさむ。
「修矢に読んだ本に載っていた歌ですよ。ついつい懐かしくて。この子にも、読んであげるのかな、とか」
「…てめぇは、暇さえありゃあのクソ餓鬼のこと考えてんだな」
 は、と息を吐いたXANXUSに東眞はそうでもないんですけれど、と苦笑を浮かべた。だが決して、やめろと言わないあたり少しは彼も修矢に対して好感があるのだろうかと東眞は期待する。
 数分無言で浸かってから、XANXUSは湯船から上がって、シャワーの前に立つ。そして視線だけを動かして東眞に目をつける。
「おい」
「はい」
 なんですか、と言葉を待つ東眞にXANXUSはどかっと腰を落として、結局伝わらなかった言葉に業を煮やして続きを述べる。
「洗え」
「…」
「二度も言わせんじゃねぇ」
 黙ってしまった東眞にXANXUSはタオルを東眞に投げた。それを受け取って東眞は苦笑をこぼして、はいと返事をした。

 

「イタリアでは普通なんですね」
 ああいうことは、と東眞は笑いを交えながらそう言った。ルッスーリアは恐る恐る東眞に答えを分かりつつも尋ねてみた。
「…それが普通だっていうのは、誰から聞いたの?」
「?XANXUSさんですが…普通だと一蹴されましたよ」
 ボス。
 ヨーロッパ文化の違いですね、と穏やかに微笑む東眞にスクアーロをはじめとしたVARIA幹部はこっそりと涙した。全く偽物のヨーロッパ文化を植えつけられた東眞を気の毒には思ったが、それを正した際に振りかかる災禍を考えれば口は閉ざしておくに限る。しかも洗わせるなどと、のぼせるのを心配して入った男が過保護なのかどうなのかよく分からない行動である。
「…ボスって分かんねー…」
「私たちにボスの崇高な心は分からないわよ…ベル」
 レヴィに一目置いちゃうわ、とルッスーリアはふっと遠い目をする。それにスクアーロは全くだぁ、と口元を引きつらせて頷いた。
「あの…どうされたんですか?」
 皆さん、と怪訝そうな顔をした妊婦に、知らない方がいい真実もあると、一同はそうしっかりと心にとめた。