24:妊婦と旦那 - 2/6

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 ひどい目にあった、とスクアーロは頭にできたたんこぶ(いつものことである)に氷嚢を当てながら溜息をついた。
 こんなことは日常茶飯事だが(花瓶を頭でたたき割られたり、コーヒーの入ったマグカップを投げつけられたり、顔の皮膚が伸びきるほど髪を引っ張られたり)全く最近はこと、顕著に、明らかな八つ当たりの嵐にさらされているような気がしてならない(実際にそうなのだろう)
 大切にしたい気持ちは分からないでもないが、行きすぎはよくないということがどうして分からないのか。
 スクアーロは切実にそう思う。そして、ハタ迷惑な自分の上司とその穏やかな妻を思い浮かべながらもう一度溜息をついた。口癖が溜息になるくらい、溜息をついているといっても過言ではない。
「やってらんねぇぜぇ…」
 そうぼやいてみたものの、幸か不幸か、それに同意してくれるような人物が自分の周囲にいないことは百も承知である。こうなれば、諦めてこの日常に一日も早く溶け込めるように努力すべきなのだろう。溶け込みたいとは思わないが。兎も角、自分の上司は、XANXUSは、育児書を一度でいいから真面目に真剣に、実行してみるべきだとそう思わざるを得ない。読むだけでなく。

 

 自分たちの手とは違う、白くて細い手が、オレンジの皮をむいている。スクアーロはそれを眺めながら、お゛ぉ゛い、と声をかけた。眼鏡の奥の瞳がこちらを向いた。
「つわりはもういいのかぁ」
「はい、もう随分と良くなって」
 その言葉にスクアーロはほっと息をつく。彼女のつわりが一番ひどい時期は(妊娠が発覚してから)今までで一番XANXUSの気が荒れていたのだから。報告書でさえ出しに行くのは至難の技であったともいえる(それでいいのか暗殺部隊)
 それでも、あの男に誰かを労わろうとする気持ちがあったのだな、と思えば多少の嬉しさはある。限定的なそれをどうにかしてくれれば、の話だが。大体あの男はもう少しばかり日常的なことに関して視野を広く持つべきなのである(口が裂けても言えはしないが)
 軽く溜息をつくと、そこに一つ楽しげなステップを奏でる足音が響いてきた。
「あら、東眞!スクアーロと一緒に何話しこんでるの?」
「誰も話しこんでなんかねぇぞぉ」
 ルッスーリアの誇張表現に呆れた調子でスクアーロが肩を落とすと、冗談よとルッスーリアはその明るい声を返した。思えば、この女―――男、どちらでもいいが彼女(?)もXANXUSの被害にあった人間の一人である。東眞は有難うございました、と礼を述べた。
「いいのよ、気にしないでちょーだい。私も久々に料理の腕が揮えて楽しかったんだから。でもあれね。東眞、意外とボスのお茶とお菓子に気をつけてたのねぇ」
「…まぁ、他にすることもないですから」
 それくらいしか、と苦笑をこぼした東眞だったが、ルッスーリアはそんなことないわよ!と体をよじった。そして、その視線をもうふくらみが確認できる腹に目を落とす。
「もう四カ月だものねぇ。そうそう、知ってた?」
「何をですか?」
 ルッスーリアは東眞の隣にそろりと優しく腰を落としながら、まるで見てきたかのように(実際見てきたのだが)その話を始めた。
 勿論スクアーロはその最たる被害者なので、眉間に深い皺を落としながら、その話に耳を傾ける。唯一あの男がまともに話を聞く(聞いているのかもしれない)女性には是が非にでも話を聞いてもらいたいところである。
 話し上手のルッスーリアはするりと手を動かしながら、まずはの語り始めを口に含ませた。
「そのマタニティウェア」
「これですか?」
 XANXUSが突然部屋を蹴り破って入ってきたかと思うと、大量に、とまでは言わないが抱えるほどはベッドの上に落とされた服である。その張本人はそれをベッドの上に放った後、妙にやり遂げた顔をしてベッドに倒れこむと、膝を貸せとを要求した。それ以来身につけるようになった服だが、圧迫感がなくて、非常に楽である。
 着やすいです、と東眞は本音をそのままにホロリとこぼした。そう言ってもらえると、嬉しいわぁとルッスーリアは手をたたいて喜んだ。ソファの背に腰掛けているスクアーロがそれはなぁ、と続けた。
「俺とボスが――――いや、俺は無理矢理荷物持ちに付き合わされたようなもんだが…」
 その時の光景を思い出すとぞっとする。
 男二人(正確にはルッスーリアを含めて三名)が妊婦用のマタニティウェアをそろえてある店で肩をそろえていたらどう思うか。想像だに恐ろしい。しかも、しかもだ。その男は三人が三人そろってガタイはいいし、人相がいいとは到底言えない。約一名など(言わずもがな)人相が悪い、などという話ではない。目付きまでが凶悪である。あんな凶悪な目をしてマタニティウェアを選んでいれば、誰も近寄れまい。近寄りたくもなかったが。無言でそれをただ選び、そして自分に押し付けられていくそのマタニティウェアに辟易した記憶はまだ新しい。
「―――――…もう、二度とごめんだぁ…」
 そう、スクアーロは切実に、涙が溢れるほどにそう呟いた。思いはどこまでも切実である。東眞は苦笑するしかなく、申し訳なさそうにすみません、と謝った。当然、東眞が謝罪する必要などどこにもなく、むしろ付き合わせた本人にその言葉を聞いておきたいものである(一生無理だが)
「レヴィが任務だったから仕方ないわねぇ」
 荷物持ちがいなかったんだもの、とルッスーリアはくすくすと笑う。それにスクアーロは噛みつくようにして怒鳴った。しかし、スクアーロが怒鳴ることなど日常茶飯事なので、ルッスーリアも大して気にする様子も見せずに手を振るった。
「私が荷物持ちなんてやーよ。ボスだって荷物持つわけがないじゃない。必然的に選ばれるのはスクアーロだけでしょ?」
「何で俺がそこで矢面に立たされんだぁ!大体マタニティウェアなら張本人連れてけばいいじゃねぇかぁ!」
 そう、スクアーロはその時にXANXUSに言った言葉そのままをぶつける。無論、そう言った直後に容赦なく殴られたのは頭の痛みが覚えている。
 しかし、その言葉にルッスーリアがばっかねぇ、と笑う。
「ボスが東眞をわざわざ人ごみの中に連れていくわけがないじゃない」
 そうでなくても囲っておきたがってるのに、との尤もな言葉にスクアーロは詰まった。
 確かに尤もではある。特に、最近はその傾向が顕著で、部屋にいろと命令さえ下している。東眞がどうにかこうにかでここの広間に来ることだけは取り付けたが。
 もとよりソファに座っている女性は散歩などが好きな性質なようで、気付けばここの周囲に広がる庭を歩いていたりする。妊娠が分かってから、東眞がそれをしたりなどしていると、XANXUSの怒号が飛んでいた。今ではそれもなくなったが、というのはただたんに東眞が庭歩きを一人でしなくなっただけで、XANXUSが付いてこられるときだけ庭を散歩している。
「通信販売…」
「ボスがそんな手抜きするわけないでしょ?」
「…結局俺のあれは必然だったわけかぁ…」
 レヴィを恨む、とこの時ばかりはスクアーロはXANXUS信者を心から恨んだ。とはいうものの、レヴィからすればXANXUSと一緒に買い物に行ったスクアーロに嫉妬するのだろうが。面倒くせぇとスクアーロは深く深く長く溜息をついてがっくりと肩を落とした。もうどうしようもない。
「三人で行かれたんですか」
「そうだぁ。男三人で、男と女一人ずつならまだいいが、三人だぞぉ?」
 女が一人もいない状況で、とスクアーロは愚痴を述べた。それにルッスーリアが非常に不満そうな声を上げたが、聞かなかったことにしておく。少なくとも外見上で女と間違われるような人間がそろっていることはなかった。
「…三人で、この服を買ってこられたんですか…」
「…そうだぁ…あいつどうにかしてくれぇ…」
 無理です、と東眞は笑顔でそう断った。いい性格になったものだ、とスクアーロはそれに息を吐く。
 そうは言うものの、彼女自身が一番XANXUSが人の話を聞かない男だというのを理解しているのだろう。納得である。何しろ今一番拘束されているのは彼女自身なのだから。妊娠中の妻のために何かと心配をするその姿が献身的で健気である――――なんということはない。断じてない。  初めは微笑ましく思った、などということもない。0か100しかない男だから、ひどく極端なのである。無論、言うまでもなくその被害者は周囲のものと、そして妊婦本人だが。
 互いに苦労しているんだな、とスクアーロはしみじみとそう思った。
「―――…まぁ、随分と腹もでかくなったなぁ」
 またベルが騒いでんじゃねぇのかぁとスクアーロは嫌な記憶をしっかりと埋めて話を切り替えた。東眞ももう見た目でもしっかりと分かるそのふくらみに手をおいて、はいと答えた。
「ベルがまだ生まれないかって毎日尋ねるんですよ?」
「十月十日だったかぁ」
「一般的には。まだ半分以上ありますね」
 半分、とスクアーロは繰り返す。まだ半分も、間違いなくこれからひどくなるであろうXANXUSの動向に付き合うことを考えると胃が痛くなった。しかしながら、こうやって命がはぐくまれていく過程をその二つの目で間近に見るのは悪い気はしない。
 立ち上がろうとした東眞にスクアーロはほぼ反射的に手を伸ばす。
「有難うございます」
「気にすんなぁ。辛くなったりしたら遠慮なく言えよぉ」
 そう笑ったスクアーロに東眞はほんのりと微笑み返した。
 そしてそんな光景を眺めながら、ルッスーリアは思った。アナタも大概よ、と。

 

 差し出されたジャスミンティーを飲みながら、スクアーロは手前の小さなカップケーキを取って口に放り込む。数回咀嚼して、ごっくりとそれは喉を落ちて行った。額に当てた氷嚢が随分と溶けて、ごろりと水の中で氷がこすれる音がした。
 全く東眞に書類の整理の手伝い(とはいっても名前をアルファベット順に並べる程度だが)を頼んだくらいで蹴りが飛んでくるとは思わなかった。あの後、部屋に戻っていろと睨まれた東眞は大丈夫だっただろうかと(身体的な心配は多分要らない)スクアーロは本日何回目になるか分からない溜息をついた。