23:この子は - 4/5

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 冷たい氷嚢を額に当てたまま、スクアーロは扉を押し開けた。扉を開いたその先には、スクアーロが最もよく知る男、そして上司であり、超がつくほど我儘なことこの上ない男が腕を組んで座っていた。
 そして、その手の中にあるカタログに目を付けて、スクアーロは思わず噴き出した。それに赤い瞳がすさまじい速さで動き、机の端に置かれているテキーラが入ったままのグラスが宙を飛んだ。氷嚢の上にそれが直撃して、だらだらとアルコールのにおいが鼻につく。悲しげに用意されていたタオルを取り出して、スクアーロはそれをふき取る。
「笑われたくらいでぶつけるんじゃねえぞぉ…」
「今すぐその口を閉じるか、頭に風穴開けるかどっちがいい。カスが」
 相変わらずな物言いにスクアーロは溜息を内心こぼしつつ、両手を降参の形に挙げ、ごつごつとブーツを鳴らしながら机のほうに歩み寄った。XANXUSの手に持たれている雑誌、一体あれからの時間でいつ手に入れたのかこちらが不思議に思えてしまうくらいの速度で手に入れたそれにスクアーロは再度目を落とした。
「…気が早ぇんじゃねえのかぁ?」
「るせぇ」
 その言葉の後にスクアーロの顔にはXANXUSが持っていた雑誌が直撃する。分厚い辞書でもないので、そう痛くもない。落ちてきた雑誌を手にとって、その横に書かれている文字を読む。幼児服のカタログ――――他、おしゃぶり、オムツ、揺り籠等々、兎にも角にも妊娠一カ月で用意するには早すぎるであろう物ばかりである。
 浮かれるのは結構なことだが、それ以前にこの目の前の男は、東眞に対する劇的な過保護をやめるべきであるとスクアーロはそう思った。今まではそうでもなかったのだが、シャルカーンの言葉を聞くや否や歩かせるのも母体に響くといわんばかりの行動である。成程、シャルカーンの言葉、つまりは「日常生活を送る」ということがいかに難しいかよくよく分かる。
 しかし、とスクアーロはもう一つ似たような内容の雑誌を取り出して眺めだしたXANXUSを見やって、こいつが父親になるのか、とそんな違和感を覚えた。
 XANXUSという名前の男は愛情その他もろもろ、親子や家族愛とは目を背けてきて生きてきたきらいがある。そんな男が、子供ができたと聞いてこの喜びようは(顔は相変わらずの表情だが)少し異常にも思えるし、全くもって不思議だ。この男に、本当に自分の子供が愛せるのだろうかとそんな不安が頭をよぎってしまう。
 机の上に置かれている小さなメモ用紙に万年筆を走らせて、購入しようと予定しているであろうものの名前を書き込んでいる。
 そんな姿を見ていると、自分の心配は悉く杞憂なように思われた。そしてそうだと思いだす。東眞がここに来た時も似たような不安に襲われたことを。来ることに逐一不安を覚えていても仕方ない。自分がすべきことは、今のこの、自分が喜ばしいと感じている現状の手助けをしてやることである。
「ボス」
「…まだいたのか」
 あんまりな言い様にスクアーロはいたぜぇ、と頬を軽く引きつらせながらそう答えた。そしてスクアーロはXANXUSがメモをしているものは、妊娠一カ月の妊婦にはまだ早いことをできるだけ柔らかに分かりやすく説明し、それよりもむしろ、妊婦にとって何が大切か、どう周囲が接するべきかの本を読むべきだと説いた。
 殴られるかどうかぎりぎりのラインだったが、XANXUSはその忠告を非常に珍しく素直に受け入れて、本を持ってくるように命令した。そこでスクアーロはふとXANXUSに質問した。
「そういや、あいつに会わせに行ってよかったのかぁ?」
「構いやしねぇ」
 男には悉く反応するくせに、と思いつつスクアーロはなぜかを問う。それにXANXUSはぎ、と椅子を回した。
「あのジャンキーが女に興味持つなんざ一生かかってもあり得ねぇ」
「…」
 まぁそれはそうだ、とスクアーロは乾いた笑みを浮かべる。しかし、この男がついていかないのは珍しい。どうしてだろうかと思い、扉の前で立ち止まっていると、XANXUSはため息交じりにぼやいた。
「あれ以上あの部屋に経費やってられるか。とっとと行け、カス」
 XANXUSの言葉にああ成程、とスクアーロは頷いて、頼まれた書籍を取りに部屋を出た。

 

 薄暗い通路を通って、かつかつとシャルカーンはブーツを鳴らす。時折振り返って、東眞がきちんとついてきているかどうかを確認していた。
「気をつけないと迷いマスからネ」
「入り組んでますね」
 右左ともう何回曲がったか、数えるのが難しいほどに曲がった東眞はそう答えた。
 そして、二人はその部屋だけ石壁とは明らかに違う素材、鉄かステンレスか、ともかく異なる素材で作られた扉の前に立つ。扉には取っ手はなく、ただその横に音声認識の機械が取り付けられていた。
 シャルカーンは下につけられてある赤いボタンを押しながら、その機械に向かって話しかける。
「ジャン、ワタシですよ」
 ぴっと小さな音がして、それから二秒三秒、それくらいの間をおいてからだるそうな返事がされた。
『オレオレ詐欺は受け付けてませーん。この場合はワタシワタシ詐欺かな?』
 その返事にシャルカーンは小さく溜息をついてからもう一度話しかける。
「VARIA特殊医療班所属、シャルカーン・チャノですヨ」
『…隣にいるのは?』
 どこから見ているのか、と東眞は周囲に目を走らせたが、監視カメラらしきものは目に見える位置にはない。それにシャルカーンはあるんデスヨ、ときちんと断っておいた。隠すのは上手いらしい。
「桧東眞サンです。アナタひょっとしてボスの結婚式出ませんデシタ?」
『そんなのあったのか。知らなかった』
「…あってもこの部屋から出る気なかったデショウ」
『ないね』
 それだけの会話ののち、目の前の重たそうな扉が音を立てながら横に動いていった。薄暗い部屋の中ではパソコン画面の光だけが、ついていた。ウィン、と起動音が部屋に充満している。シャルカーンは小さく溜息をついて、部屋の壁についている電気のスイッチを押した。すると悲鳴が一つ上がる。
「やめろ!!何するんだ、シャルカーン!僕の可愛いニコラに日焼けをさせるつもりか!!」
 悲痛な響きを持ったそれをシャルカーンは少し無視してから、東眞に部屋に入るように告げる。東眞が部屋に入ると、背後のドアは自動的にまた音を立てて閉まった。
「何言ってるんデスカ。ここの蛍光灯はこの間アナタがボスに頼んで、パソコンにも優しいモノに変えてもらったばかりデショ。それにまたこんな暗い部屋でパソコンして…それにさっき猫背でシタネ。あれ程目に悪いって言ったのに覚えてないんデスカ」
 テープまで貼ったのに、とシャルカーンはぷりぷりと怒る。机には赤いテープがびっと貼られており、目のマークが描かれていた。
 がっしゃんと丸い椅子が回転して、男は二人のほうを向く。黄色よりも橙に近い髪は後ろでひとつ、三つ編にして流されていた。そして顔に乗っかったフレームの薄い眼鏡の奥には鮮やかな緑の瞳が少したれ目がちにのぞいている。男は、ジャンは裸足に健康サンダルという姿で一体誰が掃除したのか分からない綺麗な床に立った。
「君がボスの奥さん」
「あ、はい。よろしくお願いします」
 じろじろ、と頭から先まで見た後、ジャンは、
「ふっつー」
 と、返した。それにシャルカーンは失礼デスヨ、と言ったが、ジャンは一向に気にした様子もなく椅子に戻って、またパソコンと向き合う。シャルカーンが代わりに東眞にスミマセンと謝った。
 ジャンは背中を向けたまま、またぶつぶつと呟き始める。
「コアは結構いけそうな感じだけど、容量が足りてないな」
「よ、容量?コア?」
 よく分からない言葉に東眞は疑問符を持って目を数回またたかせる。シャルカーンはその長い袖で顔を覆って、何度目かになる溜息をついた。
「胸と尻。頭はOK」
「…」
 確かに豊満な体つきはしていないが、そこまでずっぱりといわれると腑に落ちないものがある。黙ってしまった、というよりも唖然としてしまった東眞にシャルカーンは気にしないデと慰めの言葉をかけて、ジャンに手を伸ばした。
「ホラ、一度手を止めてくだサイ。ハイハイ」
 問題ナイですネ、とシャルカーンはさっさと診断を終えて立ち上がる。そして、また画面に向かった―――――やはり猫背気味なその背中に目を落として、すっと手を伸ばす。
「ぃ、い゛!!!」
 痛そうな悲鳴がジャンの口から漏れた。びしっとなんとも正しい姿勢でジャンは画面と向き合っている。
「マッタク。チャンとした姿勢って何回言ったら分かるんデスカ」
「おい、シャルカーン、戻せ!戻せ!僕とニコラの絶対的な距離感を妨げるな!!」
「目が悪くなるからダメデス」
「ニコラぁぁっぁああああ!!」
 なんとも奇妙な光景を眺めながら、世界にはこんな人もいるんだな、と東眞はどこか遠いところでそう納得した。そして、彼が愛するノートパソコンの名前は「イザベラ」だと、「ニコラ」を愛おしげになでるジャンから教わったのはまた別の話。