23:この子は - 2/5

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 呆然としている東眞にシャルカーンは静かに、全くもって冷静に質問をした。
「月のものは来ましタカ?」
「え、ぁ…いえ、そういえば、まだ」
「一か月。一か月デス、東眞サン」
 シャルカーンの質問の意図がさっぱり分からずに、東眞は困惑の色を濃くする。それにシャルカーンはもう一度、今度は東眞でも分かるように言葉を選んだ。
「一か月は、まだお腹にほとんど赤ちゃんがいない状態なんデスヨ。赤ちゃんが丁度着床し終わったところデス。数日前だと思いマスヨ。まだ人のカタチもしていないデス。もう一度言いマス。赤ちゃんは まだ 人のカタチを していまセン」
 言葉を区切り、一言一言を強調していく。
東眞は半ばそれは本能的に自分の腹を押えた。
「命―――、に関わると、言うのは…それは、今だから、という話…ですか」
「イイエ、これから先でも一緒デス。アナタの体は子を産むには随分とガタがきてマスネ。その、おナカの古傷」
 すいとシャルカーンの服が動いて、東眞の腹、それは数カ月も前に背後から腹を一突きされた事件によってついたもの、を指した。今ではその傷はすっかりふさがり、痕は残っているものの、痛みなどは一切感じられない。信じられない、という顔を見せたのか、シャルカーンは言葉を続ける。
「器官がその傷から脆くなってマス。子供を産むには非常にキビシイ状態デス。勿論日常生活を送るには一切問題ありまセンヨ。ですが、子供を産むとなると話は別デス…産むのはススめまセン。アナタが死ぬ可能性の方がずっと高イ。もちろん母子共々死ぬかもしれナイ」
 ワタシなら、と細い、それは開けているのかどうなのか判断しがたい瞳が向けられた。
「今、ココで、赤ちゃん堕ろせますヨ」
 医者の見解としては、とシャルカーンはゆっくりとそれで言葉を締めくくった。
 東眞の腹の上にゆったりと乗せられていた手は僅かに強張る。指先が、震えていた。
 授かった命を殺す。予期せぬ命だったとはいえ、もう自分はそれを喜ばしいと感じている。そう、思えるように、なっている。人の形をしていないから、まだ一月も経っていないから殺すというのか。
 いやです、と言おうとした東眞の言葉をシャルカーンは無情に遮った。どうしマスカ、と。そして心を揺さぶるかのような言葉を次々と並べていく。
「『ハイ』なら、今スグやりますヨ。勿論ボスにも黙っていまショウ。一か月じゃ素人目には分からないデスシ。産んでも産まなくても、もう子供はできないと思ってくだサイ。今回の着床に体が耐えられたのだって、奇跡に近イ」
 東眞サン、とシャルカーンは非常に冷静な顔をして、そして医者の顔で東眞に告げた。
「奇跡は二度も起こらなイ」
 その言葉に体が震えた。
「生まれた子もすぐに死かもしれナイ。アナタも死ぬ可能性が高イ。産まなければアナタの命は保証しますヨ。タダシ、赤ちゃんはもう産めませんケド。アナタの体は今の、一人分の命をしょい込むので精一杯なんデス。それ以上は体が許してくれナイ。満杯のグラスにそれ以上の液体を注ぎ込めば、中身は当然溢れマス。アナタがもし二人分の命を宿せば、溢れるのは両方か、それとも赤子カ。万が一産まれたとしても、その子が無事に生き延びたとしても、アナタの体はボロボロになりまスヨ。可能性は、万分、イエ、もっと低い」
 今まで体の不調を感じたことがなかったので、まるでシャルカーンの言葉はどこか遠いもののように聞こえる。だが、シャルカーンは嘘ジャないデス、と断った。
「立って歩いて走って、それくらいの日常生活ならば『まだ』体は動かせるんデス。勿論一杯一杯ですケドネ。デモ、アナタが子供を産むつもりならば、そのグラスの淵、表面張力の均衡を確実に崩すことになりマス」
 一つ一つの言葉は東眞の胸に重く深く暗くのしかかる。ひゅ、と喉が鳴った。
「ワタシも医者の端くれですカラ、プライベートは守りマス。その点は心配しないでくだサイ」
 それはXANXUSには子供ができたことすら言わないということである。この時の会話もその内容も、ここ二人だけの秘密ということになる。だから、東眞がどちらを選択したとて、それはこの二人の間だけの出来事なのである。子供は、はなから、存在しなかった。いなかった。
「万分の一の確立に賭けて分娩台にのぼってみマスカ?ただ、
 その次の言葉は東眞のその体を確実に縛り付けた。
「ボスを残して死ぬかもしれないことは、覚悟しておいてくださいネ」
 身が、凍った。
 彼を残して死ぬということが、どれほどの裏切りになるか、東眞はそれを何よりも分かっていた。
 死にたくなどない。自分が死ぬことによって、それで自分が大切に思う人たちに泣いてほしくない。悲しんでほしくない。だが殺したくない。宿った命を、自分の命を守るために殺したくない。もう、二度と起きない奇跡に縋るより、今のこの奇跡に賭けたい。
 怖い。そう、頭も体も末端神経までもがそう叫んだ。
 子供を産まなければ、このまま生きていける。子供をここで殺せば、ここから罪を背負っていく。誰も知らない、自分と彼と出来事の中で。
 自分の夫ならばなんというだろうか、と東眞は考える。だが、だがしかし、彼がなんと言おうと決めるのは結局自分なのである。腹でも深く蹴りつけられない限り。以前彼は産めと言った。子供は天からの授かりものだと言った。だがもう天は手を差し伸べてくれない。
 最初で最後の―――――――――――、奇跡。
 思考を巡らせる東眞に、シャルカーンは問うた。
 彼女と二人きりになれる機会はもう巡ってこないだろうと考えていた。あのXANXUSが用も何もないのに、二人きりになることを許すはずもない。今もおそらくシャワーを浴びて体を清めて、すぐに舞い戻ってくる。ブーツの音が聞こえたら、もう選択肢は一つである。彼の性格から考えて、堕ろせというのは目に見えている。彼は非常にシビアな人間なのだ。
 1%の奇跡より99%の確実を取る。
 人はそれを臆病と呼ぶかもしれないが、そんなことはない。崖に渡された一本の今にも焼き切れそうな藁を歩けと命令しないだけなのである。たとえ目の前に金銀財宝があったとしても。だからこそ彼は今の地位にいるのだし、そして今の彼がいる。
「シニョーラ、どうしマスカ」
 だが、彼女にも当然自由意志は存在する。だから選ばせるべきだと思う。
 その身に子を宿すのは母であり、身を切るような痛みを覚えるのもまた、母であるからである。生命の神秘は女性だけが持ち得る奇跡だ。
 自分たちのあの高慢で傲慢で冷静でかつ人を惹きつけてやまない上司の妻は一体どう答えるだろうか、とシャルカーンは東眞の言葉を待った。もう、そう時間はないのだが。待つ。
 東眞は軽く唇をかんだ。深く深く、息を吸って、細く細く、吸った息を吐き出す。そしてまっすぐにシャルカーンに目を向けた。僅かにその瞳は怯えていた。
「産みます」
 成程、とシャルカーンは目の前の女性を理解した。この女性は、桧東眞という女性は、奇跡に賭けるタイプの人間だと。しかし、その考えは東眞の次の言葉で覆される。
「でも、死にません。私は死にません。あの人を、XANXUSさんを残しては――――――死にません」
 理由も根拠もない言葉だが、シャルカーンはこれもよく知っていた。
 あきらめることのない人間は、何よりもしぶとく、逞しいことも。それは時として、すべてを覆すものともなる。人はそれをしばしば奇跡だなんだのと言うが、何のことはない。ただそれは人があきらめなかった結果だ。当然の帰結なのである。
 危険な道を歩くか安全な道を選ぶか、XANXUSは常に後者を選び、東眞は常に前者を選ぶ。どちらが正しい、勇敢であるとは言わない。ただ、前者を歩く上司には絶対につきたくはない。
 強い瞳をした、戦女の目にシャルカーンは敬意を表して頭を下げた。
「ワカリマシタ。では、ワタシは最善を尽くしまショウ。アナタが死なないよう、無事に子供を産めるよう、ありとあらゆる手を使って手助けしマス。デモ、もう一度言っておきマス。死ぬ確率は、高いデスヨ。子供が死んでしまう可能性も高イ。分かりまシタカ」
「はい」
 はっきりと、真摯に答えた東眞にシャルカーンはハイ、と笑った。
「それト、ボスには言いマスカ?体のコト」
 シャルカーンの言葉に東眞は一拍置いてから、いいえ、と首を横に振った。
「私は、死にませんから」
「…イイ答えデス。デハ、黙っていまショウ。アナタがもし言いたくなったら、その時にボスに言うとイイ」
 間違いなくその時は来るだろうとシャルカーンは思いながらそう告げた。そしてそれが一体いつになるかも、なんとなくだが、分かっていた。人とは、総じて欲張りな生き物なのであるのだから。
 東眞はゆっくりとシャルカーンに頭を下げた。
「ありがとうございます、チャノ先生」
 その呼ばれ方にシャルカーンはぴたりと動きを一瞬止める。驚いた様子に東眞は反対に何かまずいことをいったかとうろたえた。
「え、あの、な、何か…」
「イエ、イエ。先生なんて呼ばれたのは久し振りでしてネ。嬉しいデスネ。トテモ」
 トテモ、とシャルカーンはひどく嬉しそうに言葉をはねさせた。
 もう長らく医者としての自分は埋もれていたので、医学に通じるものであればやはりその言葉ほど嬉しいものはない。
「取り敢えず今のままの生活を続けていても問題はないデス。一か月に一度体内の気の流れをよくしますカラ。つらくなったら迷わず誰かの助けを借りてくだサイ。デモ運動しないのも駄目ですヨ。適度な運動は健康に繋がりマス」
「はい」
「頑張って、くだサイネ」
「はい。頑張って、産みま
 す、と言いかけたときバタンと扉が激しい音を立てて開かれた。その目は丸く大きく見開かれている。どこまで聞かれているのかとすこし東眞はそれを危惧した。
 だが、話は最後の一文しか聞かれていなかった様子だった。
「―――――――――餓鬼が、いるのか」
 驚きを大量に含んだ声に、東眞は微笑んだ。そして、はい、と答えた。その答えにXANXUSはそうか、と髪を混ぜて東眞に歩み寄ると、その腹に触れた。
「…ちっともわからねぇ」
「妊娠一カ月ですからネ。それはボス、無理というものデスヨ」
 フフ、と笑いながらシャルカーンは口元を押さえた。と、その時、周囲が声であふれかえる。
「餓鬼だぁ!?おいおい、結婚式の翌日に妊娠…って、どれだけ頑張ってんだぁ…?」
「んまー!赤ちゃん!?東眞、がんばってね!」
「ボ、ボスの子供が…っ」
 それぞれに言葉を聞きながら、東眞は嬉しく目を細める。これほど嬉しい言葉はない。だが、とスクアーロはふと尋ねた。
「避妊してたんじゃねぇのかぁ?」
「…そういえば…そう、ですね?」
「…あれじゃねぇのか」
 ぼつ、とXANXUSはしゃがんでいる状態で少し考えて答えを出す。東眞もその「あれ」という言葉を考え直して、あれですか、と問い返す。
 二人の会話についていけないスクアーロはなにがだぁ、としびれを切らして質問した。
「いえ…実は一度コンドームに…穴が、開けられていたことが…ありまして」
「穴ぁ?」
 スクアーロが首をかしげたその横で、ベルフェゴールはぱちんと手を鳴らした。
「やっり!やっぱ王子より小さい奴いねーのってあれなんだよなー。マーモンは外見だけだしさー」
「…てめぇか…」
 その時の惨状(と呼べるかどうか)を思い出しながら、XANXUSはゆらりと立ち上がる。立ち上った殺気にベルフェゴールはそれが失言だったということに気づいて、顔を青ざめさせる。そして頬を引きつらせると、一目散に逃げ出した。勿論、他の幹部も巻き添えを食らわないようにと蜘蛛の子を散らすように逃げだす。
 すっからかんになってしまった部屋の中で、シャルカーンと東眞は笑いをこぼす。
「一緒に頑張りマショウ」
「はい」
 東眞は透き通った声で、そう、元気に返した。