20:飲めども呑まれるな - 6/6

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 ただいま、と一声かけて修矢は玄関を開けて中に踏み入る。
 机の上には今帰ってくるのを分かっていたかのように、祖父からの置手紙があった。哲はそれを取って、今しがた帰られたようですね、と小さく笑った。
「そっか…もう少しゆっくりしてきゃよかったのに」
 土産も買ったのにな、と修矢は重たいトランクを居間に放り投げて、かちんと鍵を開ける。短期間の滞在だったので、二人分の荷物を一つのトランクに詰めたが、土産を含めてもまだ少しばかりの余裕がある。
 家はきちんと片づけてから出たので問題もない。ただ、昼飯を作る気力はなく(作って欲しいはずもなく)出前かカップラーメンに落ち着きそうだ。トランクから服を取り出しながら、修矢は哲が購入したという土産を取った。からごつとする音からは一体中に何が入っているのか想像もつかない。触れた感触は何かしら小瓶のような感じもするが。
 修矢は後ろで取り出した服を畳み直している哲に声をかける。
「なぁ、哲」
「何ですか、坊ちゃん」
 一度手を止めて哲は振り返る。修矢は紙袋を少しだけ持ち上げて、哲にこれ、と見せた。
「土産って何買ったんだ?」
 ああ、と哲はそれに少しはにかんだような表情で、修矢に答える。さもばっちりですよ、と言わんばかりに。その表情に修矢は何か非常に嫌な予感がした。ものすごく期待はずれなものが入っているような気がする。それは、と短い始めの声の次は、やはり予想的中の答えとなった。
「トマトソースです」
 今先ほど、学生の土産としては甚だしく間違っている答えが返ってきた。修矢は頬を引きつらせて、言葉をこぼす。
「…は?」
「ですからトマトソースです。オリーブオイルやパスタでもいいかと思ったんですが…」
 トマトソースは何にでも使えますからね、と素敵な笑顔で告げた哲に修矢は本気で頭痛を覚えた。
 一体どこの世界に中学生のイタリア土産として学友にトマトソース、もしくはオリーブオイルやパスタを渡す人間がいるのか。お母さんのお土産ではないというのに。何故その選択をしたんだ、とぎち、と歯が鳴った。
「安心なさってください。この間来ていた坊主たちと余分に二缶買ってありますから、足りないことはないですよ」
 合計五缶もトマトソースを買ったというのか。
 修矢はずれている自分の側近に深く深く溜息をついた。そして、今度イタリアに行く際は自分で土産を買おうと固く、決心した。
「あ、そういや田辺さんには?」
「…どうしてそこで田辺氏の名前が出てくるんですか…」
 非常に嫌そうな顔をして哲はう、と言葉を詰まらせる。修矢はそれに小さく笑って、イタリアでも世話になっただろ、と答える。哲はそれにしぶしぶと言った様子で連絡してみます、と電話を取った。数回のコール音の後に相手がでる。
「田辺氏ですか」
『よぉ、哲坊。どうしたんだ?』
「いえ、今どちらに」
『まだ、イタリアだ。おっと、悪ぃな哲坊。またかけ直す。』
「は?ぇ、ちょ」
 待って下さい、と哲が声をかける前にあっさりと電話は切られた。それに哲はむすっとした目を携帯に向けて、懐に戻す。そしてやはり苦笑している修矢に、今忙しいそうです、と返した。

 

「なぁ東眞、これでいい?」
「はい、それに溶かしたバターを入れてよく混ぜて下さいね」
 東眞にそう言われてベルフェゴールはりょーかい、と気の良い返事をしてボールの中に溶かしたバターを入れてくるくると混ぜ始める。修矢が帰ってからというものベルフェゴールの機嫌は非常にいい。
 あの二人相性が悪いのかしら、とルッスーリアは思いつつトッピングの材料を皿に盛り付けていた。
「おい、これはどうするんだ」
「えーとですね、それは、」
 大量の苺を持ったレヴィに東眞はそれのヘタを落して水洗いするように頼む。ふんと一つな鼻を鳴らしてレヴィは、その体格からは考えられないような器用さでてきぱきとヘタを切り落としていった。マーモンはその隣でやはり同じように果物を水で洗っている。
 現在キッチンが改装中なので、オーブンを使う菓子は作れないが、ベルフェゴールがどうしてもとねだるので、クレープを作ることとなった。共同の広間にはどん、と大きめのプレートが置かれている。
 スクアーロはホイップクリームを音を立てながら電動ミキサーを掴んでいた。背後の大きな椅子にはXANXUSがいつものように不機嫌な顔をしてどっかりと腰を下ろしていた。その指がするりと動いてカップに注がれたダージリンを口元まで持って行く。
 赤い瞳は何かしら考えているかのようにどこか遠い所を眺めていた。
 奇妙だ、と考えられるのはディーノの件に関してである。そもそも、ディーノとはおそらく面識のないハウプトマン兄弟をシルヴィオがどうして紹介したのかも気になる。跳ね馬ならば普通に、それこそスクアーロを通して東眞に会うことも可能であったはずなのだ。それを差し置いてシルヴィオがハウプトマン兄弟を推した理由が気にかかっている。
 それに、東眞が自分の女であるということはすでに隠してはいない。町にも時折出ているし、それなりの情報は回っている。誰かを雇ってまでわざわざ会うことをしなくても、どうせ近い将来顔を見せることになる。
 分からねぇ、と思いつつカップを口から離した。
「おい、カス」
「誰がカスだぁ。てめぇ俺の名前覚えてんのかぁ?」
 スクアーロは手を止めないまま、そうXANXUSに言い返した。しかしそのスクアーロの問いに答えることはなく、XANXUSは少しばかり考えていたことを口にした。
「てめぇ…跳ね馬に東眞のことを教えたのか」
「あ゛?あ゛ぁ゛、アイツがどんな奴かって聞いてきたからなぁ」
「聞いてきた?」
 ディーノが言っていたこととの僅かな誤差にXANXUSは眉間に皺を寄せた。怪訝そうに聞き返されてスクアーロはそうだぁ、と未だ座ったままのXANXUSに答える。
「この間酒屋で会ってなぁ。そん時に、東眞について聞いてきたんだぁ」
 その時の様子を思い出しつつ、スクアーロは電動ミキサーでホイップクリームに角ができるかどうか確認する。
「だがまぁ、あいつが興味持っても何ら不思議じゃねぇぞぉ?俺にしたって未だに不思議でたまらねぇんだからなぁ。なんつったって、てめぇがだぜぇ?全く夏にあられでも降ってくるんじゃねぇか?」
 からからと笑うスクアーロにXANXUSは飲みほしたカップを投げつけて、また考え込む。
 どう考えてもおかしい。スクアーロに聞いているならば、やはりスクアーロをつてにしてあった方がいいのだ。跳ね馬は踊らされていた、とそう考えると一番納得がいく。詰るところシルヴィオを通じて、ハウプトマン兄弟を雇わせ、そしてこちらの―――行動としては東眞を観察させた。
 誰が、と気持ちの悪さを覚えながらXANXUSは紅茶の皿に乗せられてあったクッキーを口に放り込む。
 ベルフェゴールがクレープの種を東眞に見せて、東眞はいいですね、と笑う。そして二人で一緒に熱したプレートに丸いクレープ生地を描いていく。柔らかな匂いが鼻をくすぐった。スクアーロは東眞にボールを見せて、できたホイップクリームを渡す。レヴィはカットした苺を皿の上に適当に盛り付けている。ルッスーリアとマーモンは少しだけ皿の上のトッピングをつまみ食いしている。
 まぁ、とXANXUSはその光景を眺めながら、喉を動かして口内の唾液で溶けたクッキーを嚥下した。
「…関係ねぇか」
 誰が来ようが奪うものは全て潰すだけなのである。
 問題はねぇ、とXANXUSは次々と重ねられていくクレープの皮を一枚手に取った。

 

「ノーノ」
 明るく柔らかな日差しが入り込んでくる部屋でシルヴィオはふっくらとしたソファに腰掛けていた。
 ノーノ、と呼ばれた男性は向かいの机に、両脇に少しばかりの書類を重ねた状態で、優しく朗らかに微笑んでいた。ソファに座っているのはシルヴィオだけではない。金色の髪を流している空色と深い海の色をした青年が二人、ハウプトマン兄弟も座っていた。ヴィルヘルムは対面に座っている男に目を向けて、全く、と小さく零した。
「危うく殺されるところだった。XANXUSを相手にするのはもう御免だな。シルヴィオ、とんでもない依頼を回さないでくれよ…」
「それを請け負うのがお前たちの仕事だろうが。俺はデスクワーク派なんだよ。前線なんてまっぴらだ」
「だからって何も俺たちをぶつけることないだろ…。まぁ、報酬いいから受けたけどさぁ…ヴォル、お前もなんとか言ったらどうなんだよ」
 黙ったまま、静かにソファに腰かけている弟をヴィルヘルムは溜息交じりに肘でつついた。だがヴォルフガングは一言、別に、と返してまた口を閉ざした。話の振りがいがない、とヴィルヘルムはがっくりと肩を落とした。で、とシルヴィオは二人に切り出す。
「ディーノは上手くやってくれたのか?」
「ま、綺麗に踊らされてたみたいだな。シルヴィオ、お前性格悪いよ」
「よく言われる。御曹司が気付いている様子は?」
「…どうだろうなー…あの時は気付いてなかったと思うけど、ああ、ディーノは気付いてなかったね。でもあれだ、東眞もXANXUSが来なけりゃあれ、本気で俺を撃ってたよ。前から薄々は思ってたけど、ああまで割り切られると少し寂しいきもするな」
 手をひらひらと振りながらヴィルヘルムは首を軽く横に動かす。
「つーかさ、XANXUSもXANXUSだ…東眞が絡むと人変わってる」
 それは、と向かいに座している男が問うた。その人を愛しているということなのかな、と。ヴィルヘルムはその問いに対して、首を縦に振った。
「独占欲強過ぎだな。でも東眞の方も…XANXUSをしっかり受け止めてるみたいだし、傍から見ればいいカップルだと思うよ。ただ迂闊に近づいたらこっちの命が危ない気もするけど」
「はっは、それ俺も銃突き付けられたぜ。まったくちょーっと顎すくい上げただけなのにな」
「それはシルヴィオが悪いでしょ…それは怒るよ。俺なんて握手しようとしただけなのに?」
 頭が下がるね、とヴィルヘルムはそう言ってから、喉が渇いていたのか出されていたグラスから、一度鼻で臭いをかいでから喉に通した。その仕草に穏やかに微笑んでいる男性が、毒は入っていないよ、と優しく告げる。職業柄仕方ないんだ、とヴィルヘルムは小さく笑って謝罪した。
「ところで、」
「んー?」
「俺たちってどう考えても噛ませ犬だよな、シルヴィオ」
「ま、そうだな」
 シルヴィオ、と声のトーンが下がる。ヴォルフガングはソファから立ち上がって、ゆっくりと出口の方に向かっている。ヴィルヘルムはゆっくりとその空色の瞳をシルヴィオに向けて、瞳から冗談も笑みも全てを取り払って、口を動かした。
「次、こんなくだらない依頼をするなら――――――お前から殺す」
 お前もだ、と向けられた瞳に座る男性はすまないね、と小さく笑った。ヴィルヘルムはくるりと背を向けて、ヴォルフガングが開けていた扉から外に出た。海の瞳も閉じられた扉の向こうに消えた。
 二人分の気配が去って、四人いた部屋が半分に減ることで部屋を埋める熱量が減る。
「おお、怖えーの。ノーノもあんまり俺に無茶振りしてくれるなよ。俺も命は惜しいんだ」
「ああ、知っているよ。済まないことをしたね。二人には倍の報酬を払っておこう」
「それはポケットマネーか?ノーノ」
 それにくすくすと男性は笑って、個人的依頼だからね、と困ったように笑った。顔に刻まれている皺がそれに合わせて優しく動く。綺麗な笑い方をする、とシルヴィオは思わずつられて笑った。
「XANXUSは私が出向いたところで…入れてくれるとは思えない…」
「ノーノの権限を使えば簡単だろ?」
「それはしたくない。私はXANXUSとそういう関係になりたくはない」
「…悪いな、少し意地悪だった」
 ひら、とシルヴィオは手を振って謝罪の意を示す。それにノーノ、と呼ばれている男は気にしないでくれ、とやはり穏やかに微笑んだ。<男性はゆっくりと肘を机について、顎を組んだ手の上に乗せる。その仕草はよく似合っていた。
 柔らかな日差しが大きな窓から入り込んで、部屋を暖めている。
「東眞さん―――――――は、とても良い女性なのだね」
「俺から見ても、なかなかいい女だと思うぜ。育ちの所為かどうかは知らねーが、器が広い。割り切りもいいしな。御曹司も―――――――、そこに惚れたんじゃねーのか?」
 シルヴィオの瞳がゆっくりと持ちあがって、楽しげに笑う。
 あの子に、と初めて男性の瞳に影が落ちた。シルヴィオはその表情の変化に気付いて、ふと口を閉ざす。男性は暗い瞳をまぶたの裏に隠してしまった。
「あの子に愛を、誰かに愛される幸せと、愛する幸せを教えてくれたのだね」
 私はそれができなかった、と俯いた男にシルヴィオは静かに、温かいのに冷えた感じがぬぐえない部屋で、ノーノ、と声をかけた。ティモッテオという名前の老人はかつての後悔を胸の澱みに沈めた。