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「こんにちは、お嬢さん」
柔らかな笑みを白いベンチに腰かけて向けてきたのは一人の老人だった。
東眞は野菜が入っている袋を片手に持っている状態で、自分以外の人間が周囲にいるかどうかを確かめる。しかしそこにいたのは明らかに自分だけで、老人が声をかけたのは自分にがの誰でもないということになる。一拍置いてから東眞はこんにちは、と返した。
「とてもいい天気だね」
「はい。空がとても綺麗ですね」
「それは、今晩の夕食かい?」
老人はにこにこと人あたりの良さそうな笑みを浮かべて、東眞が持っている袋を指差した。東眞はそれに微笑み返して、はいと返事をした。すると老人は夕食は何にするのかな、と東眞に尋ねてくる。時間的にも余裕はあるので、東眞は老人の座っているベンチに近づいた。そして隣に座っていいかどうか確認してから座る。
「日本語お上手なんですね」
「親戚が日本にいるんだ。日本はとてもいいところだね」
有難う御座います、と東眞は笑顔でそれに答えた。やはりそう言ってもらえると嬉しいものである。微笑んだ東眞に老人はイタリアはどうだい、と尋ねた。
「明るくて、とても素敵な国です」
「Grazie. ところでお嬢さんはどうしてイタリアに?野暮だったかな…」
聞くのは、と言うと東眞はいいえと首を横に振ってから、婚約者がいるんですとそう返した。それに老人は若いというのはいいねぇ、としみじみとした様子でそう告げる。
「婚約者の方はどんな人なのかな」
「…凄く、優しい人です。口調はぶっきらぼうなんですけど、大切にしてもらっています。あの人に出会えて、心から良かったと思います。傍にいるだけで…とても、幸せなんです」
目を細めて少しばかり頬を赤らめ、本当に幸せそうにそう言う東眞に老人は口元にゆるやかな笑みを添えた。
「幸せなのは、いいことだね」
「はい」
「時間は大丈夫なのかい?イタリアの男は皆揃って嫉妬焼きだというから」
嫉妬、と聞いて東眞はXANXUSの姿をふっと脳裏に思い浮かべる。そこまで嫉妬を受けているようには感じないが、そもそもあれ嫉妬というよりも独占に近い感じがする。
大丈夫だと思います、と東眞は笑ってそう返した。
「そこまで心の狭い人じゃありませんし」
この場にもしVARIAの隊員が一人でもいれば、そんなことはないと揃って首を縦に振ることだろう。
理解のある人なのかい、と老人は東眞に尋ねた。東眞はそれに首を縦に振った。
「はい、とても」
「――――――――その人は、笑うのかい」
「笑う?」
また唐突に話が変わって、東眞は思わず聞き返す。それに老人はあなたが良く笑う人だから、と付け加えた。それにゆっくりと東眞はそうですね、と前ふりをしてから肯定した。
「口元とかがほんの少し。後、目がとても柔らかくなるんですよ」
「目が、柔らかく」
「はい。綺麗な瞳をしているんですけど、その瞳が時々こちらがそれだけで嬉しくなるくらいに優しくなるんです」
そうなのかい、と老人はそれにとても嬉しそうな目をした。白いベンチに座っている老人は小さく、本当に小さく数回だけ頷いた。気のせいか、東眞には老人が泣いているように見えた。実際には泣いていなかったが。
老人はゆっくりと腰を上げて、それから東眞をしっかりと見た。見下ろしてくる瞳は本当に優しく、穏やかで、すぅと心が落ち着いた。
老人の口がゆっくりと動く。
「ありがとう」
お嬢さん、と告げて老人はひらりと細い手を振ってその場を後にした。東眞もベンチから立ち上がって、そして帰路についた。
「優しいおじいさんにあったんです」
パンをちぎりながら、東眞はそうXANXUSに切り出す。それにXANXUSは口に入れようとしたパンを止めて、それを皿に戻すと、怪訝そうに眉を寄せる。
「あぁ?」
「夕食の材料を買いに行った帰りにベンチでお会いしたんです。とても優しそうな人でしたよ」
「…寄り道せずに帰って来いつったろうが」
「少しくらい大丈夫ですよ」
食べるのを再開したXANXUSに東眞は苦笑をこぼしながら、平気ですと付け加える。その答えが不服なのか不満なのか、XANXUSは始終無言でがつがつと目の前の料理を片付けている。
その代りにスクアーロが東眞の会話を繋いだ。
「ボスの言うとおり、じゃねぇが、てめぇはもちっと警戒した方がいいぜぇ?いくら老人でも男だろうがぁ」
「心配のし過ぎですって。そういう方には見えませんでしたし」
「…見えねぇってなぁ…」
呆れた調子で肩を落としたスクアーロに東眞はひらひらと手を振って大げさですね、と笑う。
大げさなのは承知の上だが、本人にはもう少し警戒というものをして欲しいところである。ボスでなくとも心配になる、と思わざるを得ない。とは言っても常に銃を携帯しているし、そうそう不安なこともないのだが。
東眞はもとより人を嫌うような性格はしていないが、話しこむということはあまりしない。その彼女が珍しくいい人だとのたまって、かつ話し込んだ様子が少しばかり気にかかった。尤もXANXUSは別のところが気にかかっている様子ではあるが。
こちらに皿が飛びませんように、とひっそりと両手を心の中で会わせながらスクアーロは東眞に尋ねた。
「で、どんな話したんだぁ?」
「どんな…と、ですか…ただの世間話ですね。XANXUSさんのことも聞かれましたよ」
「…何?」
聞かれた、という単語にスクアーロは敏感に反応する。だが、東眞は慌てて名指しではなくて、とスクアーロの危惧を否定しておく。と、そこでふとスクアーロは東眞が日本語以外の言語は流暢でないことを思い出す。
「そいつ日本語話せたのかぁ?」
「はい、とても上手でして。なんでも日本に親戚の方がいらっしゃるらしいです」
「ふぅん…」
そうかぁ、とスクアーロはそこで話を切った。
そして、ちらりと食事をがつがつと口に突っ込んでいるXANXUSに視線を向けた。老人、日本に親戚がいる、という情報にまさかなぁ、とスクアーロは小さく笑った。流石にそんなまどろっこしいことをする理由が見つからない。
リング争奪戦からこの父子の間は以前ほど固いものではなくなったが、やはりXANXUSは確たる一線を九代目に引いている。その理由も分からなくもない。長い間で蓄積された恨みと憎悪、憤怒が溶けた後も、そう容易く仲良くすることはできないのだろう。それ以上にこの男は素直に甘えるという行動がインプットされていないに違いないのだ。
東眞と会ってからは少しはましになったと思っているが、それは父に対する愛情とはまた違う。独占欲に近い表現で表せるのに対して、父に対する愛情はそれでは表現できない。親愛、というものをおそらくXANXUSは知らないのかもしれない。九代目も九代目でずっとXANXUS自身に負い目を感じているから、XANXUSもそれを敏感にかぎ取って素直になれないのだ、とスクアーロは考えている。
そしてその考えは間違っていない、という確証もある。尤もこの自分の上司が九代目に向かって「お父さん」などという姿は全くこれでもかというほどに想像が出来ないが。
だが東眞と結婚するとなれば、XANXUSは否が応でも九代目と会う必要が出てくる。
今でも数か月に一度くらいは会っている様子だったが、それはまるで他人の茶会のようである。互いに何も言わず、ガラスの壁でもあるかのような空間に座り続けている。結婚式のときは一体九代目のことを、己の父のことをXANXUSはどう紹介するつもりなのだろうか、とスクアーロは疑問に思っている。
父だ、と紹介することは現状況では考えづらい。かと言って、おいぼれだ、というのも場にそぐわない(そんなことをいちいち気にかける人間でもないかもしれない)どちらにせよ、東眞はXANXUSと、つまるところ「九代目の実子」と結婚するわけである。本人の意思は関係無い。こいつはどこまでもそれに縛られて生きているんだな、とXANXUSをそんな風に感じた。本当の子ではないのに。東眞にもそれを告げるのだろうか、と二人を眺める。
言わなくても関係無いなら、おそらくXANXUSは口にしないだろう。口にもしたくないに違いない。東眞はXANXUSが「九代目の実子」だから好きになったわけではないので、別にどちらでも問題はないのだろうが。
と、そこまで考えてスクアーロは思考を止めた。
ベンチに座る老人からどうしてここまで考えが発展してしまったのか、自分も随分な心配症だ、と溜息をついてパンをかじった。噛めばほんのりとする塩味に美味しさを感じる。
XANXUSさん、と東眞がXANXUSに話しかける。赤い瞳がゆっくりと動いて東眞を捉える。東眞は一つ笑って、明日一緒に買い物に行きませんかと誘う。それにXANXUSは一拍置いてから、短く返事をした。
そんな光景を眺めながら、心配はいらないかもしれないとスクアーロは赤ワインに手をつけた。