20:飲めども呑まれるな - 5/6

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 きちっと東眞はブラウスのボタンを第一ボタンまで丁寧に閉めて、気分でタイを締めた。今日はいつも以上の着込みをしているのは、今朝の所為ではない、とは到底言いきれない。というよりもその影響が強い。
 扉の向こうからとんでもない破壊音が響いて来ているが、聞こえないふりをする。おそらくXANXUSは親切心でやってくれたのだろうが、いくらなんでも全裸はやり過ぎである。しかも他の男性に裸を見られるのはとんでもなく恥ずかしい。当分スクアーロの顔は見れないような気がする。
 しかし、仕方ないと溜息をつきながら、東眞は破壊音が突如止んだドアノブをまわして、扉を軽く引いた。
「おはようございます、お嬢様」
 そこには非常にさわやかな笑顔を見せた、義弟の側近が立っていた。気の所為か片手には重たい哲の調理器具が握られている。 そしてその足元には桧修矢という名前の青年が倒れ伏していた。頭には大きなこぶができている。ある意味見慣れた光景に東眞は取り立ててコメントすることもなく、おはようございます、と哲に返した。
「お昼の飛行機にのられるんでしたっけ」
「はい。ですから朝食を頂いて、それから荷物の再確認、それが終わったらここを出る予定です」
 また少し寂しくなりますね、と東眞は小さく苦笑した。それに哲は電話やメールがありますよ、と床に落ちた修矢を抱えながらそう告げた。 すると、短く東眞におい、と声がかかる。
 ちらとそちらに視線を向けると、額を切ったのか血を流しているスクアーロと酷く不機嫌そうなXANXUSが腕を組んで立っていた。無視をしていたのが余程気に喰わなかったらしく、眉間のしわは心なしか多い。多少の抗議は許されるだろうに、とそんなことを思いながら東眞ははい、と返事をした。だが答えが一向に返ってこない。
 怪訝に思って東眞はXANXUSにようやく視線を合わせたが、肝心のXANXUSはむすっと唇を綺麗にへの字に曲げてしまっている。怒りたいのはこちらだったのだが、そんな顔を見ていると怒る気も失せてくる。
 取敢えずスクアーロに止血のためのハンカチを渡した。スクアーロは思わず気まずさですい、と目を逸らしたので東眞も思わず赤くなる。
 だが、次の瞬間スクアーロの頭が吹っ飛んだ。うご、と何とも間抜けな声が頭上から響き、長身が思いっきりのけぞった。東眞が慌てて後ろを振り返れば、その光景が気に喰わなかったのか大きく舌打ちをしたXANXUSが立っている。ごとん、とその後に花瓶が床に落ちた。そして頭部に花瓶の直撃を受けたスクアーロはのけぞった姿勢から、背中を床に打ちつけてぱったりと倒れてしまった。ああ、と東眞は息をこぼす。
「カスの心配なんざしてんじゃねぇ」
 これ以上ないほどの理不尽な理由に哲は呆れた視線をXANXUSに向けた。勿論倒れ伏したスクアーロには同情の視線を向けたが。変なところは自分の主とよくよく似ている、とそんな風に思わざるを得ない。
 スクアーロが倒れた振動と、花瓶が頭部に直撃した震動で目を覚ましたのか、かついでいた体がぐら、と揺れた。
「お、おい、哲、おろせよ!」
「…はいはい」
 俵のように抱えていた体をすとんと足から床に下ろして哲は小さく溜息を吐く。スクアーロもあれで気絶しなかったのは素晴らしいのだが、流石に痛かったようで頭を強く押さえている。
 ところで、と東眞は一つだけXANXUSに言っておこうと口を開いた。
「着替えさせてくれようとの気持ちは嬉しいんですけど、脱がせたら何か着せて下さい…」
「てめぇの箪笥がごちゃごちゃしてんだよ」
 整理整頓はしているのでXANXUSの言葉はただ本人が見つけられなかっただけなのだろう。東眞はこれ以上この話題で問い詰めるのはやめることにした。これ以上言ったところで堂々めぐりは目に見えている。
「でも…何で私XANXUSさんに着替えさせてもらうことになったんですか…?パーティーの途中から記憶が…ないんですが…」
「あぁ?そりゃ
 てめぇが、と言いかけたXANXUSの前に修矢が凄いスライディングをかましてそれはだな!と手を大げさなほどに振りながら言葉を潰す。あまりの必死さ加減にXANXUSは修矢を殴るのを一瞬忘れた。
「ああああ、あのな!あのな、昨日な、俺とスクアーロがちょ、ちょっと遊んでてそれで、え、えーと双六だったかな!サイコロがすごい勢いで飛んじゃってさ!そ、それが姉貴の頭に当たって…当たり所が悪かったのか、姉貴気絶しちゃってさ。それでそこの男が姉貴を部屋まで連れてってくれたわけ!なっ!」
「う゛お゛ぉ゛い……てめぇ、何い
「だよな!」
 わけわかんねぇこと言ってんじゃねぇ、と言おうとしたスクアーロに修矢は必死の形相で同意を求める。ここでNOと言えば何か恐ろしいことが待ち受けているような気がして、スクアーロは頬を引きつらせながら首を縦に振った。
「わ、悪かったなぁ…」
「?い、いえ…頭少しも痛くないんで…気にされないでください…?」
 この二人が双六などしていただろうか、と疑問に思いつつ東眞は首をかしげる。しかし修矢が嘘をついて得をすることなどないし、自分に嘘をつくことなど考えられないので東眞は素直に頷いた。
 何必死になってんだこいつは、とスクアーロは思いつつ疑惑の目を修矢に向ける。すると修矢は怖気が走るほど素敵な笑顔でスクアーロに近づいた。
「いやー、大丈夫か?スクアーロ。頭悪そうだよな!」
「……ウゼェ…誰が悪そうだ。痛たそうだろうがぁ、そこは」
 ぼそっとした呟きにも負けず、修矢はスクアーロの肩を音が出そうなほどにぎりぎりと掴んで、瞳孔が開かんばかりの勢いで目を見開く。そして東眞やXANXUS(後者には聞こえているかもしれないが)に聞こえないように小声でこそっと耳打ちする。
『ホントのこと言ったら姉貴絶対自分を責めるだろうが!』
 姉思いは結構なことだが、ここまで来るとただの姉馬鹿である。本当のことを言った方が今後本人のためになるのではないか、とそんな目を向ければ修矢は馬鹿!とスクアーロを小さく怒鳴りつけた。
『それを俺やアンタたちでフォローするんだろう!』
 ふざけんなよ、とスクアーロは思わず言いかけたが、この馬鹿に通じるとは到底思えず、そうだなぁと渋々肯定を返した。まぁXANXUSが傍にいるのであれば酔い潰れてもそうそう問題はないだろうし、あの毒舌は問題だが近寄らなければいいだけの話である。酔った時にXANXUSが何か怪しげな制約を取りつけても、それは彼女の自業自得なので目をつぶることにする。
 スクアーロは頑張れよぉ、と心のうちでそっと東眞を応援した。と、こほんと小さな咳が場の空気を元に戻す。
「ところで早く朝食を食べないと飛行機に間に合いませんよ」
「え!?う、嘘!」
「自分が嘘を吐く必要はありませんよ、坊ちゃん。ほら、早く食べに行きましょう。スクアーロ氏は怪我は…」
 東眞と言い哲と言い、優しい人間もいるもんだとスクアーロは少し感激しながら平気だぁ、と止血用に貰ったハンカチを外した。少し切れてはいるが既に血は止まっている。慣れとはどうにも恐ろしいものである。慣れたいとは思わないが。
「姉貴、い
 こう、と修矢は東眞の手を取ろうとしたが、その手は大きな手でぱしんと弾かれる。
「触んじゃねぇ。来い」
「え、あ…着替えはされなくていいんですか?」
 昨日のままの服だったので東眞はそう声をかけたが、XANXUSは無視をしてごつごつとブーツを鳴らして歩き出す。東眞は一度修矢を振り返ったが、ごめんね、と小さく手を合わせてその背中を負った。
 また不味いことになるか、とスクアーロは溜息をついて修矢を見上げたが、鈍い音の直後に修矢の体が大きくかしぐ。
「では行きましょうか、スクアーロ氏」
「…」
 片手に倒れかけた修矢の体を、もう片方にフライパンを持った哲の姿にスクアーロは先程の考えを撤回した。こんな人の頭をぼこすか殴る人間が優しい人間であってたまるか、と。そして少しばかり気絶した修矢を気の毒に思った。

 

「……坊ちゃん…」
 完全に呆れたような声が哲の口から発される。修矢の指先は東眞の袖をしっかりと抓んで、放していない。そして東眞もそれに困ったような顔をしているだけである。
 哲は時計をちらりと見上げて、すでに搭乗開始されているゲートをちらりと見やった。全く困りものである。
 しかし黒い隊服が並ぶと見る方に重圧を与える光景になる。周囲の人間は少しばかり遠巻きになっているのが多少気になるが、仕方ないと哲は首を横に小さく振った。とはいえども今回はXANXUSとスクアーロ、それからルッスーリアしか来ていないのでまだましなのだろう。
 泣きだしたりしないわよね、とルッスーリアはこそりとスクアーロに耳打ちする。しかしながらスクアーロはそれがない、と言えるほどの確証はなかった。むしろ泣き出しそうな気さえしている。
 俯いて唇をぎゅうと噛んでいる修矢に東眞はようやっと声をかけた。
「ほら、飛行機でちゃうよ」
「…うん、分かってる」
 そう言う割には、袖を掴む手に力がこもっている。約一名がひどく不機嫌そうな顔をしているので、いつ飛行場が壊されても仕方ないといえる状態である。
 その、と修矢は初めて顔をあげて東眞を見た。
「こ、こっちにもちゃんと帰って来るよな?夏休みとか、正月とか…長い休みの時!」
 その質問に東眞はちら、とXANXUSを見上げたが不機嫌そうな顔は相変わらずである。本人の許しさえあれば可能だろうと思うが、東眞は小さく頷いた。それに修矢は本当!?と目を輝かせる。
「ちゃんと連絡して!俺、迎えに行くから!」
「うん」
 小さく舌打ちが聞こえたような気がしたが、聞かなかったことにしようと東眞はそれを流した。修矢はその、ともう一つ話を続けた。
「俺さ、料理も少しずつ練習してるし…姉貴帰ってきたら、俺の料理食べてくれる?」
「うん」
 あらまぁ可愛い!とルッスーリアがそれにゆっくりと笑って小指を立てる。
 哲は時計を見て、再度坊ちゃん、と声をかけた。そろそろ行かないと本気で乗り遅れる。修矢は哲の声に酷く名残惜しそうに東眞の袖から手を離した。
「元気、でな…姉貴。無茶とかすんなよ。何かされたら俺に連絡しろよ、俺は――――、いつだって姉貴の味方だから」
「修矢も無理をして哲さんを困らせないように。後勉強もしっかりとね」
 くしゃ、と東眞の手が修矢の頭を撫でた。修矢の目尻にうっすらと涙が浮かんだが、それをぐいと拭いとって修矢は深く頷く。そしてぎんっ!とXANXUSを睨みつけた。
「俺はアンタを認めたわけじゃねーからな!でも…で、でも俺がいない間は…」
 ぐ、と一拍置いて、非常に言うのを躊躇ってから修矢はXANXUSに向かって叫ぶようにして言った。
「姉貴を――――――――――、頼んだ」
 俺がいない間だけだからな!としっかり念押しはしたが。XANXUSはと言えば、歯牙にもかけずに視線だけをよこして、そして目を閉じた。
「坊ちゃん、行きましょう」
「ん、じゃぁな!」
 ひら、と手を振った修矢に東眞たちは(XANXUSを除く)手を振り返した。
 二人の姿がゲートの向こうに消えて、東眞は小さく少しだけ寂しそうな溜息を洩らした。
「…帰るぞ」
 踵を早々に返したXANXUSに東眞は一度だけゲートを振り返ってから、はい、と答えた。