20:飲めども呑まれるな - 4/6

4

「東眞遅いわねぇ」
 珍しい、とルッスーリアは朝食の準備に取り掛かりながらそうぼやいた。台所にはゆで卵やサラダが並んでいる。そして、その隣では修矢がトマトをとんとんと丁寧に切ってサラダの上に乗せていた。
「起こしに行ってくる。酒が入った日は姉貴目覚まし付けないと起きないんだよな」
「あら、そうなの?ついでにボスも起こして来てくれる?」
「 い や だ 」
 寝起きのあんな男の顔を見るのはまっぴらごめんだ、と修矢は毒づいてから手を一度水で流してキッチンを後にした。
 東眞の部屋はイタリアに来た際に一度教えてもらったので覚えている。右左右右と角を曲がっていると、途中で綺麗な銀色と遭遇する。スクアーロ、と修矢はその男の名前を呼んだ。
「なんだぁ…てめぇも起こしに来たのかぁ?」
「も、ってスクアーロもなのか」
「ボスが起きねえのはいつものことだが、東眞が起きねぇのは珍しいからなぁ」
 起こしに行こうと思った、とスクアーロは端的に述べてごつごつとまたブーツを鳴らしながら歩くのを再開する。コンパスが大きく違うので修矢は少しばかり追いかけるような形でとんとんと速度を速めながらスクアーロの隣を移動する。
 会話がないのもなんとなく寂しいので話を切り出した。
「いつも姉貴を起こしに行ってんの?」
「ん゛ん、いや、普段は起こしに行かなくても起きてんだろぉ」
 尤もな意見に修矢は成程と頷いた。スクアーロはさらに話を続ける。
「ただあいつが起きねぇと誰も起こしに行かねぇんだよなぁ…」
「誰も?誰を」
「ボスだぁ…あいつの寝起きは最低なんでなぁ」
 それは修矢も知っている。思いだすだけでむかっ腹が立つのである。あの時哲がフライパンで止めなければ間違いなく刀を振り上げていたことだろう。それにだぁ、とスクアーロは話をさらに続けた。
「ベルも東眞が起こしに行ってから、あいつが起きねぇと色々面倒だぜぇ」
 たく、とさも面倒くさそうにスクアーロは溜息をついた。それに修矢はあんたも大変なんだな、と少しばかりの同情をした。スクアーロは大変なんてもんじゃねぇ、と顔を顰めたが。
 そんな何気ない会話をしていると、いつの間にか部屋の前にたどりつく。修矢は姉貴、と呼びかけてからノブを回した。酒が入って眠るとノックなどの小さな音では起きないのは知っていたので、取敢えず部屋に入る必要がある。扉を押して開くと、中に足を踏み入れた。スクアーロもそれにならって(少しばかり気が引けていたようだったが)部屋の床をブーツでごとりと音を鳴らして入る。
 こざっぱりとした部屋を修矢はとたとたと歩いて、ベッドの方向まで歩く。だが、通路を抜けたとき、その動きはびき、と音を立てたように止まった。
「どうしたぁ?」
 硬直した修矢にスクアーロは疑問符を浮かべながら、すいと体を乗り出す。しかしながら大して驚くような光景は広がっていない。というよりも随分と見慣れた光景が広がっている。だが成程、この坊主には免疫はないだろうなとスクアーロはそう思った。
 ベッドの上にあるのはシーツの下にある女だけではなく、ずん、と重量感のある巨体も乗っている。上掛けがないのは少し寒そうではあった。シャツとズボンで寝ている様子から見て、どうやらベッドに座った直後に眠くなったようでシャワーもどうせ浴びていないに違いない。
 浴びてから寝りゃぁいいのに、と心の中でそう呟いてからスクアーロは声をかけようと一番初めの音を出した。その音だけでも十分に大きいので目覚まし時計変わりにはなる。「う」に濁点が付いた音が空気を震わせる。おおぉい、と続けようとしてスクアーロも目の前の光景に絶句した。当然それは修矢が固まったのとはまた別の理由である。
 ぱく、と酸素の足りない魚のように口が一度開閉して、一気に耳まで赤くなる。巨体は動かないままだったが、小さなシーツの山の方がゆるりとうごき、そしてシーツを下に落としながら体が持ち上がる。
 スクアーロはひどく後悔した。向こう側のベッドの影から覗く洋服を見ればこの光景につながることは容易に想像ができたはずなのに。
「な、な、ぁ…っ!」
 肺と横隔膜が頑張ったが、脳がまだ頑張っていない様子でなんとも間抜けな音しか出てこない。修矢はまだベッドの上にXANXUSがいた、という事実についての怒りが整理できていない様子で現在スクアーロが目撃している情報は脳まで達していない。
 とろ、とした目のまま、細い腕が動いてベッド脇の机に乗せられている時計に指が触れて、時刻を確認する。と、その眼が大きく見開かれた。
「ぁ、い、寝坊!」
 朝ご飯、と慌てて東眞はスクアーロと修矢の方を向く。そして、おたおたと混乱した状態で、すみません、と謝罪する。
「ご、ごめんなさい。スクアーロ、起こしに来てくれたんですか?ルッスーリアがご飯作ってくれてるんでしょうか…」
「ままっまま、ま、まてぇ!動くな!動くんじゃねぇ!!一歩たりともそのベッドから下りんなぁ!!」
 シーツがずれたことでさらに肌の露出が増える。本人は寝起きで慌てているようでまだ現在の自分の状況が分かっていない。白い背中と体のラインを目撃して、スクアーロは混乱しつつ、目を必死で泳がせる。今現在のただ一つの救いは、そこに寝ている男が起きていないことである。起きれば一体自分はどうなるのか―――――――――――想像せずとも恐ろしい。だが少しばかり眼福、と思っているのは黙っておく。
 ベッドから下りてこちらを向きでもすれば、まさに生まれた時の姿を目撃することになる。それを目撃すれば正直な話命はないと思う。現在でも命の保証は一切されていないが。頼むから起きるな、とスクアーロはそこで寝ているXANXUSに祈った。
「ど、どうしてですか?えぇ、と取敢えずベルを起こして、それからルッスーリアを手伝って…顔も洗って着替えも―――――――…」
 着替えもして、と言おうとして東眞はふ、そこで体が妙にシーツの感触をリアルに伝えてくることに気付いた。そして、スクアーロの方にちらりと肩越しに視線を向ける。スクアーロは向けられた視線を硬い感じで逸らした。そして東眞は視線を恐る恐る足もとに向ける。そこにあるのは昨日来ていたブラウスと、ジーンズと、シャツと――――――――、それから下着。
 下着?
 下着がここにあるというのはおかしい。そもそも足元に落ちている洋服は今現在身につけていなければならないものだからだ。それが下に落ちている、ということから導き出される答えは一つしかない。
 東眞はゆっくりと、非常にゆっくりとした動作で自分の体を見下ろした。広がっているのは肌の色である。
「…」
 動きを止めた東眞にスクアーロは慌てて弁解をする。勿論XANXUSを起こさないように極力小声である。
「い、いや、べ、別に悪気があったわけじゃねぇぞぉ!ただてめぇが起きてこねぇから、起こしに来ただ
 そしてスクアーロは見た。顔面と数センチの所にある目覚まし時計を。けだ、とそう最後まで続けることもできずに目覚まし時計が鼻を潰した。すこーん、と素敵な効果音が文字で書けるならばそんなふうな音を鳴らして、時計が吹っ飛び、スクアーロはのけぞる。その拍子でスイッチが入ったのか、じりり、と酷く喧しい音がけたたましく鳴り響きはじめた。
 スクアーロは慌てて体を起こす。この音で起きないというのは考えづらい。そして、スクアーロの目は捉えた。ベッドの上でどっしりとシーツを沈めていた体がのっそりと起き上がり始めている。
「……るせぇ…」
 まだ頭は覚醒していない。ここで逃げれば死亡確定は免れる。スクアーロは硬直したままの修矢の首根っこをひっつかんだ。
「う゛お゛ぉ゛い!!逃げんぞぉ、ぉ
 お、と言いかけたが足が動かない。明らかな殺意がこもった眼がこちらに向いている。冷や汗がたらりと背筋を伝った。振り返りたくない。視線の正体を確かめたい気持ちはあるが、それを確認するために振り返れば何かしら恐ろしいものがそこにあるような気がする(振り返らなくても一緒だ)
 がん、とブーツが床を叩く音がした。
 怖いもの見たさ、ではなく状況確認のためだけにゆっくりと視線だけを後ろに戻す。銀色のカーテンの向こうで赤い瞳がこちらを見ていた。言わずとも知れたそのとんでもない殺気を隠そうとはしていない。おいもどカスも何にしろ何かの言葉を発していない時点で、三途の川が見えてきそうである。
 見られるのが嫌なら何脱がせてんだ、とスクアーロは甚だしく憤慨した。当然その憤りが伝わるはずもない。添い寝で脱がせる必要性などどこにもありはしない。脱がせるならば寝間着を着せろ!と心の中でスクアーロは叫んだ。
 きゅぉ、とその手の平に光が集まり始める。不味い、と本気で全身が震えた。
 スクアーロは無理矢理修矢の首根っこをひっつかんだまま、床にたたきつけるようにして伏せた。間一髪でその上空すれすれを憤怒の炎が空気までも焼き焦がす。殺される、と思ったが次の一声でその張りつめた空気は消えた。
「な、なんで私こんな格好何ですか!」
 XANXUSが寝ていることに対してはもう慣れているようなので、東眞もそれに関して追及するようなことはしない。だが、気付かないうちに剥かれたのはどうやら初めてのようで、スクアーロのように耳まで赤くして怒鳴る。
 それにXANXUSは何故怒鳴られているのかさっぱり分からない、と言った様子で(実際に分かっていないだろう)答えを返す。
「邪魔だろうが」
 寝るのに、という言葉は省かれている。それは間違いなく慣れない親切心からの行動であって、東眞も頭ごなしに怒ることが出来ない。
「スクアーロも!いつまでそこにいるんですか!修矢連れて早く出て行ってください!」
 癇癪、というよりも恥ずかしさでいっぱいの言葉にスクアーロは慌てて頷いて硬直したままの修矢をその肩に担ぐと東眞の部屋から退出した。だがしかし、扉を閉めようとした時にもう一つの体が押し出される。
 ぎょ、とスクアーロは目を見開いた。
「XANXUSさんもです!」
「あぁ?おい、ふざけん
「黙って出て下さい!」
 怒りますよ!と東眞は怒鳴って(それはもう怒っているのではないのだろうか)XANXUSの背中を無理やり押して扉を強制的に閉めた。女性の部屋から追い出された男三人は一瞬だけ手持無沙汰に呆然としていたが、一番初めにスクアーロがこの非常にまずい状況に気付く。
 だが、少しばかり気付くのが遅かった。向けた背中に、おい、と声がかかる。
「な、何だぁ…」
「…見たのか…てめぇ」
 地の底から響いて来るような低音にスクアーロはぞっと体を震わせて反論をする。
「あ、あれは不可抗力だぁ!俺のせいじゃ…つーか、あれはどう考えてもてめぇの責任だろうがぁ!」
 これで半殺しにされるなどお門違いもいいところである。しかしながら、目の前の男にそう言った常識(?)が通じるとは到底思えない。事実一切通じない。じゃき、と銃の音が鳴った。
 部屋から無理矢理出されたのと、怒鳴られたことに対して怒っている様子なのはよくよく分かる。どうしてこうもついていないのだろうか、とスクアーロは自分に絶望した。ショックなどとそのような生易しい。
 だがしかし、幸か不幸かこの場には自分と上司以外にもう一人別の人間がいた。こいつを理由に言い訳すれば、とスクアーロはそう考えたが、その考えは少しだけ甘かった。
「…なんで、姉貴は裸なんだ…?」
 こいつもか!!
 ようやく状況の整理が追い付いて来たようで(それでも十分に遅い)修矢はそう告げた。裸、という単語にXANXUSの眉尻がつり上がる。例え弟でも嫌だという何とも子供染みた独占欲である。
 修矢の瞳がくり、と動いてXANXUSを捉えた。目が、全くと言っていいほどに笑っていない。
「…しかも、姉貴怒ってたよなぁ…?それにアンタは何で姉貴のベッドにいるんだよ…なぁ…?」
 どこかのホラー漫画に出たらMVPくらい軽くとれそうな表情で修矢はXANXUSをすぅと見据える。一方XANXUSはといえば、こちらも子供が恐怖で昇天しそうな面持ちで修矢を見下ろしている。二人とも怒りの頂点はとっくの昔に越えているようだった。
「あぁ?婚約者が一つベッドで寝ることが不満か?カスが」
「…その婚約者はさっき姉貴に部屋追い出されたんだよな?」
「…てめぇも追い出されてんだろうが…」
「…」
「…」
 嫌な沈黙が漂う。
 頼むから早く出て来てくれ、とスクアーロは閉ざされた部屋の扉を見つめた。しかし残念なことに扉はうんともすんとも言ってくれなかったが。