20:飲めども呑まれるな - 3/6

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 さて、と片付けのために袖をまくったルッスーリアの隣を大きな体が移動する。それにルッスーリアは声をかけようとしたが、ふと何を思ったが言葉を喉で止めた。
 東眞の座るソファの端にはベルフェゴールがひどく退屈そうに座っている。だがそこに大きな影がかかりすっとその金色の髪が上に持ち上げられる。口が緩やかに動いて、それはどこか嬉しそうに呼称をする。しかしながら対して大きな影をつくっている存在はあまり興味がなさそうに退け、と一言告げた。
「ボス」
 くったりとした東眞の体をXANXUSは容易に持ち上げて、ベルフェゴールの言葉に視線を向ける。
「何だ」
「明日さ、あいつら帰ったら東眞と一緒にケーキ作ってもいーい?」
 にしし、と笑ったベルフェゴールにXANXUSは一拍置いてから勝手にしろ、と告げた。XANXUSの返答にやりぃ!と明るい声が響く。そして東眞を抱きかかえ、すたすたと何事もなかったかのように歩きはじめるXANXUSの後ろにベルフェゴールはついて行く。
 そんな光景を後ろから眺めながら、ルッスーリアは思わずくすりと笑った。と、そこにまだ若い声がかかる。
「あのさ」
 修矢が卓上の皿などを指差して、片付ければいいんだろ、とルッスーリアに手伝いをすると持ちかける。東眞の教育はこんな所にもいきとどいているのか、とルッスーリアはそれによくよく感心した。
「あら、手伝ってくれるの?」
「姉貴に…手伝いはするようにって言われてるから」
 どうやら日常生活の一部に組み込まれているようである。頭が上がらないのか、はたまた愛するが故の行動なのかは不明だが、ルッスーリアはいい子ねぇ、と修矢の頭を撫でた。修矢はその手をむっとした表情ではじいて、もう子供じゃない、と口先を尖らせた。そういうところがまだ子供なのだが。
 かちゃかちゃと無言で皿を片づけていく修矢を横目で見ながら、ふとルッスーリアは話しかけた。
「ボスと東眞二人っきりにしちゃっていいの?」
 ボス、という単語に修矢の眉尻がぴくりと持ちあがる。一瞬その手が止まったが、ゆっくりとした深呼吸の後また動き始める。食器がかち合う音の中で、修矢は一人に聞こえる程度の大きさの声でルッスーリアの質問に答えた。
「俺だって、そこまで分からず屋じゃない。そりゃ腹も立つけどイラつくけど…何気にあの男が陣痛起こせばいいとか思ってるけど」
 さりげなく物騒な単語を混じらせながら修矢はかしゃん、と同じ種類の皿を重ねていく。
 でも、と小さくその後に接続詞が続いた。そこから長めの空白の後、修矢の肺が酸素を吸って、そして一度吐きだしてから言葉を紡ぐ。俯きがちの瞳はどこかしら寂しそうにしていた。
「―――――――姉貴が、全てを預けてるのは…あいつなんだ。だから、俺が騒いだってそんなの姉貴にとってちっともいいことにならないし、むしろ邪魔してる。でも、あの男の顔見てるとむかっ腹立つし、姉貴は全部自分のものだって顔が気に喰わない。…その、だからちょっと、意向返しのつもりで」
 姉貴にべったりしてたんだ、と修矢は恥ずかしそうに耳を赤くしてグラスを片付けていく。その意向返しは非常に強い効果を持っていたのだが、知らぬは本人ばかりと言ったところだろう。
 ルッスーリアは真白だったテーブルクロスを丸めて籠に放り込むと、その何もなくなった机を台拭きできゅ、と軽く拭いていく。
「俺があいつを嫌いでも、姉貴はあいつを好きだから。その点差し引いて少しくらい…は、譲ってもいい」
 ふ、と修矢の脳裏にあの大きな絶対的な背中が思い起こされる。銀の壁で即座に遮断されたが、それは手の届かない位置にあった。
 あの男が言った姉に関する言葉はほとんど真実で、少しだけそれに安心した―――――のは、口が裂けても言うつもりはない。しかしながらやはりあの男の独占欲は自分に負けず劣らず強すぎるし、一生相容れないと思う。姉から全てを遮断しようとする傾向だって見える気がするし(実際電話なんてしょっちゅう切られる)だから認めてやらない。
「――――姉貴は、あいつだけの姉貴じゃない」
 ぽつ、とこぼした言葉をルッスーリアの耳は拾ったが、それに対して何かを言うようなことはしなかった。
 そしてところで、と話をすりかえる。視線の先には酒でぐったりとしてしまっているスクアーロと哲がいた。哲は半ば付き合うようにして飲んでいたのだが、最終的には飲まされる形になっていた。酒は進むと恐ろしい。
「彼、私が連れて行きましょうか?」
「スクアーロはいいのか」
「スクアーロは自分で歩いて帰るわよぉ」
 心配しなくても、と笑ったルッスーリアに修矢は慌てて心配してない!と言い返した。何ともからかいがいがあるというものである。
 大丈夫です坊ちゃん、と哲は口元を押さえながら手を振ったがどうにも大丈夫そうには見えない。何しろその隣には酒の瓶が五六本転がっている。それを二で割ると一人頭二本半である。どちらにしろ飲み過ぎだ。控えめに見ても大丈夫というラインは超えている。
「取敢えず一回吐いてこいよ、哲。ルッスーリアに手伝ってもらうにしても、途中で吐かれちゃ困る」
「…すみません」
 謝るならとっとと行って来い、と修矢は手をひらりとさせて哲を部屋から追い出すと、また片付けを再開する。
「哲もさ、俺のことちゃんと見てくれてるし…それに応えるだけの人間にはなりたいと思ってる、から」
 修矢は一拍置いてから、ルッスーリアに背を向けて花がいけられた花瓶を机の中央に戻す。そして、小さな声でしかしながらしっかりと、姉貴にばっか頼ってらんない、と呟いた。

 

「…おい、どこまで付いて来るつもりだ」
 と、XANXUSはある意味不機嫌そうに後ろを歩くベルフェゴールに声を投げる。それにベルフェゴールはちぇ、と一つ舌打ちをしてから、おやすみぃと言って二人に背を向ける。
 ようやく二人になって、それはとても久し振りの二人であるからなのかもしれないが、XANXUSは息を短くはいて落ち着いた。
 東眞の部屋にはいつも鍵が不用心と言っていいほどかけられていないので、そのままノブを回して内側に開く。きちんと整理整頓がされた部屋は見た目からはそうものも多くなく(実際にそう多くもないが)こざっぱりとしていた。その中を二人分の体重を乗せたブーツが音をたてて歩く。両手で足りるほどの歩数を歩けば、一つのベッドに辿り着く。以前、見事に破壊されていたベッドは現在では元通りである。違うところ言えば、今度はあの煩わしいレースが付いていないというところくらいだろうか。
 寝ているために体に力が入っていないので普段よりも少しばかり重く感じられる体をベッドの上に降ろす。黒い髪が白いシーツの上に散った。鼻から抜けるような息が一瞬だけこぼれる。
 くたりと力の抜けた体は不思議なくらいにあっさりとシーツに沈んでしまっている。少しばかり酒で上気した頬をなでれば、指はするりとその上を滑った。度の強い眼鏡を外してベッド脇の机に置く。無言でその頬の上に乗せていた指を手の平へと変えて、ゆっくりと味わうように頬の表面に触れていく。大きな手は乗せるだけで顔を覆える。何度触ってもその肌には傷一つない。自分の顔の皮膚とは違って。上気している目元に非常にゆっくりとした動作で唇を落とす。目は覚めない。
 起きねぇか、とそんなことを思いつつ肌に唇を這わす。這わす、というよりも乗せていくという表現の方が幾分正しい。両腕でつくっている檻の中で未だ眠りから覚めぬままの女の肌を唇で感じる。上唇を軽く噛むようにして触れるが、吐息はそのままである。至近距離にある瞼の奥にあるであろう瞳をじぃと見てみる。
 白い肌は暗闇には驚くほどによく映えて、うっすらと毛細血管すら見えた。目は、やはり覚めない。
 半身を起こし、腕で作った檻をほどいて体の上に風邪をひかぬようにとシーツをかけかけて、ふ、と手を止めた。着替えさせとくか、と思い至って隣にあった洋服ダンスを探してみたが、どこに何があるのかよく分からない。きちんと丁寧に折りたたまれてはいっているが、それを一々取り出すのは煩わしい。
「…」
 面倒臭ぇ、とXANXUSはおもむろに東眞の服のボタンに手をかけた。
 服がなければないで構わないのである。ぷつぷつとブラウスのボタンをはずしながら、幼子から服を脱がすようにしてシャツを肌から離す。シーツに埋もれている上半身を片腕で起こさせて、力なく垂れた腕から袖を抜く。色気のないシャツを万歳のような体勢で脱がせ、床に放り投げた。ブラウスとシャツがベッド横に重なる。そしてその力の入っていない体を自分の体に預け、後止のブラジャーのホックを適当に外してそれも容赦なく脱がせる。 酒で深い眠りについているので起きることはないようだった。好都合だ、とXANXUSは思いつつズボンに手をかけた。
 白いシーツに残っていた肌色以外の色がそうやって全て取り除かれる。白さに残るのは肌の色と髪の黒だけである。
 よし、とXANXUSはいいことをしたような気分になって東眞の上に風邪をひかぬようにと上掛けを乗せた。
 そして時計に視線を向けて、もう深夜を回ったことに気付く。それに気付くと、眠たさが一気に頭に浸透した。くぁと大きくあくびを一つする。このまま部屋に戻るのもどうにもだるい。それならばいっそここで寝てしまった方がいいか、とXANXUSは座っていたところから体を持ち上げて、東眞の隣に横たわる。
 非常に珍しいことに酒に香が腕の中からしたが、そうそう悪いものでもない。
 少し目を下げれば白い肌が覗いている。一度だけそこに強く吸いついて明るい色を残す。ここから先を続けようかどうしようか、さても一瞬だけ迷ったが結局睡魔に負けた。それに腕の中の鳥はもう自分の羽根で逃げたりはしない。
 そんな安心感からXANXUSは目を閉じた。手中の女のぬくもりだけがひどく柔らかく、温かく、眠りを優しく包み込んだ。