18:楽しい休暇の過ごし方 - 3/6

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「で、」
 ルッスーリアは少し離れたソファから、東眞とそれを抱えるXANXUSを見ていた。その対面にはスクアーロが頭に痛々しい包帯を巻きつけてコーヒーをすすっている。
「シルヴィオが来てからあんな調子なわけ?」
「…その通りだぁ」
 足の間に体を座らせて後ろから抱きしめる、というよりは覆いかぶさっている。まるでコートのように。東眞といえば、もう抵抗するのも諦めたのか、その腕の中ですいすいと編み棒を走らせていた。一見、素晴らしく微笑ましいこの光景だが、近寄っただけでものが飛んでくるので要注意である(最初の犠牲者は言わずもがな)
 大変ねぇ、とくすくすとルッスーリアは笑う。それにスクアーロは笑いごとじゃねぇ!とがなりたてた。いや、十分に笑いごとなのだが。け、と一つ吐き捨ててスクアーロは目の前の皿にあるカップケーキをがつがつと食べる。相変わらず文句のつけようがない味で、スクアーロは少しだけ鼻を鳴らした。
 そしてちらりと二人に、ほのぼのとした、否、女は兎も角、男は近付くもの全て喰い殺すと言わんばかりの殺気を放っている、視線を向けた。東眞の手の内にはワインレッドの毛糸がするすると糸という形から他のものへと変化している。趣味が多彩だ。
 しかし、と溜息をつく。その溜息にルッスーリアはどうしたのよ、と声をかけてくる。そして揶揄するように口元に手を添えてニヤッと笑った。
「あら、ひょっとしてスクアーロったらボスに構ってもらえないから拗ねてるの?」
「気色の悪いこと言うんじゃねぇ…」
 構うというよりもあれはパワーハラスメントである。く、と顔を歪める。誰が、と返したスクアーロにルッスーリアはそうなの、と小さく肩を笑わせた。その時、ふ、と鼻が嗅ぎ慣れた臭いを感じ取った。
 鉄錆の、臭い。
 顔をげてふる、と周囲を見渡す。だが悲鳴も襲撃を受けた様子も一切ない。そんなスクアーロの様子にルッスーリアはどうしたの?と尋ねた。
「ルッスーリア、てめぇ…怪我でもしてるかぁ?」
「怪我?私の美しい肌に怪我なんてとんでもないわ!」
「…だよなぁ」
 XANXUSが怪我をするなど全くもって考えられないし、東眞だって怪我をする程そうそう間抜けではない。だが、確実に鮫の嗅覚はその鉄の臭いを感じ取っている。
 取敢えず、本当に取敢えずだがスクアーロはXANXUSに問うてみた。
「う゛お゛ぉ゛い!ボス、怪我でもしたかぁ?」
「あ?」
「血の臭いがするぞぉ」
 血の、とXANXUSはそこで初めて意識的に臭いをかいだ。抱え込んでいる柔らかな肢体の匂いと、それから―――――――スクアーロの言うとおり血の臭い。それは東眞の体からだ。
「おい」
 呼ばれて東眞は手の動きを止めた。そして肩越しにXANXUSを見上げようとして、しかしそれは未遂に終わる。
「ひゃ、あ!な、何を…っ」
 東眞はたくし上げられたシャツを必死で下ろそうとする。下着どころか肌まで丸見えである。大きな手が肌の上を這う。ルッスーリアはあらあら、とスクアーロは顔を真っ赤にさせてその行為を直視していた。
 探る手が止まって、今度は東眞の手を持ち上げてその指先を見る。が、目的のものは見られない。東眞は全く訳が分からず、しかしこの行為に耳まで真っ赤にしてうろたえる。
 手の平を見た後、袖がまくられて、白い腕が外気にさらされる。しかしそこにもXANXUSが探していたものはなかった。そこでようやくXANXUSは言葉を持って東眞に尋ねる。何とも遅い。
「怪我でもあんのか」
「…怪我?いいえ、どうしてそんな急に」
「血の臭いがする」
 くん、と鳴らしてXANXUSは東眞の首筋に鼻を埋めた。血の臭いはそこからはせず、ただほのかな石鹸の香り。血、と東眞はその言葉を反芻して、さらに顔を赤くしてXANXUSの腕の中から立ち上がる。立ち上がろうとした、が、立ち上がった時点でその腕を不機嫌そうな顔をして掴まれる。黒いジーンズにベージュのセーターの下はブラウスという格好で東眞は、その手を離してくれるように頼む。
「す、すみません、ちょ、ちょっと…」
「あ?」
「…お願いします」
「…怪我はどうした」
「け、怪我はしてません」
 本当です、と東眞はXANXUSに訴える。けれどもXANXUSは眉間に皺を寄せたままその掴んだ腕を放そうともしない。説明を求めているが、東眞は流石に口ごもった。視線を泳がせるが、きつい二つの視線は東眞をまっすぐに射ている。
 東眞は慌ててスクアーロに助けを求めるが、頼みの綱は何故か顔を真っ赤にさせて固まっている。そして、は、とルッスーリアの存在に気付いて、アイコンタクトを送る。それを受け止めて、ルッスーリアは苦笑しながら立ち上がった。
「ボス、女の子の事情なのよ。トイレにでも行かせてあげて?」
「あ…?便所?」
 少し東眞は手を引いたのだが、それに気付いてXANXUSは逃がすまいとその掴んでいる力を強める。XANXUSさん、と東眞は懇願にも似た響きで名前を呼ぶが、眉間の皺が増すばかりでどうにもならない。
 ルッスーリアと視線を交わして、東眞はとうとう観念した。それでもやはり大声で言うのは憚られて、ぼそ、と呟く。だがどうやらそれはXANXUSの耳には届かなかったようで、あぁ?と尖った声が発される。その、ともう一度東眞はそれを言う。
「多分…そのですね、生理です」
「…」
 二人の間に嫌な沈黙が下りる。
 だが、東眞はそれ以上にほっとしていた。生理が来たということに対して安堵をおぼえてる。よかった、と。それを表情から敏感に感じ取ったのか、XANXUSはそうか、と短く返して、ようやく東眞の手を離した。
「片付けてとっとと戻って来い」
「…あ、はい」
 返事だけして東眞はその場から離れる。
 そしてXANXUSは口元を押え、顔をゆでダコのように赤くして固まっているスクアーロに容赦なく手元のグラスを投げつけた。それは大変良い音と、目を見張るような美しい水滴を散らして、スクアーロの額に直撃した。

 

 東眞は血に濡れたその下着を水で洗ってから洗濯籠に放る。幸いジーンズの方まで染みてはいなかった。
「―――――――――――…よかった」
 ぽつ、とそんな言葉が漏れる。
 情けない話だが、本気でよかったと思っている自分がそこにいた。あの時のあの行為によって妊娠しなかったということに、これほどまでに安堵している。
 あれからXANXUSはきちんと避妊具を使用したSEXを行ってくれた。子供が欲しくないわけではない、が、まだそこまで責任が持てない。二人きりの時間がまだ欲しい、というのも事実だろう。
 水に濡れて冷たくなった指先で口元を押える。少しだけ、震えていた。指の根元にはまっている貴金属の装飾品が唇に触れている。
 こんなことを考えている自分を彼は軽蔑するだろうか。と、そんな考えが脳裏をよぎる。
 あのような状況ではあったものの、XANXUSは東眞に堕ろすな、産めと言った。
 手が自然に腹部へと延びる。
 もしもここにもう一つの命が宿ったら、と思う。新しい命を育むことが自分にできるのであれば、もしそれをXANXUSが望み、自分自身も望めたら。果たしてどうなるのだろうか。不安は消えない。それが一体何に対しての不安なのか、東眞はまだ分からない。母になれるかどうかの不安か、それとも。
 そこで音によって思考が途切れた。
 見れば、XANXUSが扉を開けてそこに立っている。東眞はあ、と短く言葉を発して、それから視線を落とした。考えていることを読まれたくなかった。XANXUSはまず一言、遅ぇよと告げた。すみません、とどこかトーンの低い東眞の声に僅かに眉根を寄せた。
「…よかったじゃねぇか、できなくて」
 望んじゃいなかったんだろうが、とXANXUSはぶっきらぼうに言う。考えた末の言葉だった。東眞はそれにす、と視線を上げて何かを言おうとしてから口を閉ざした。また下りてしまった沈黙にXANXUSは東眞の冷えた腕を掴んで胸に引き寄せて抱きこんだ。静かな心音に東眞は耳を傾ける。静かで、穏やかな。XANXUSはゆっくりと言葉を紡いだ。
「―――――――本当に欲しかったら、そん時にできんだよ」
 だから気にするな、と最後の言葉はなかったがXANXUSは東眞にそう告げた。腕の中で東眞は小さく頷いて、XANXUSの背にゆっくりと手をまわして、ぎゅ、と体を密着させる。心音がより聞こえる。
 だが、ふとそこで東眞の動きが止まる。背中に感じる大きな手のひらの感触、は、服の腕はなく、直接肌に触れている。
ぎょっとして東眞は慌ててXANXUSの顔を見上げた。
「…あの?」
「あ?あぁ、鍵なら閉めてる」
 そういう問題ではない。
 東眞は慌てて背に回していた手を胸元に持ってきて、必死に押し返す。抵抗されたのが気に喰わない様子で、XANXUSの眉間に皺が寄った。そんな顔をされても困る。赤い目一杯に不機嫌な色を滲ませながら、XANXUSはポケットを探ってコンドームを見せる。これか?とばかりに。当然それも(東眞が抵抗の色を見せた理由とは)違うわけだが。
「せ、生理中です!」
「別にいいじゃねぇか」
 俺は構わねぇ、とXANXUSは東眞を怪訝そうに睨みつける。私が嫌なんです、と東眞ははっきりと断る。当然XANXUSの顔は不機嫌になる。しかし東眞もここでは引かない。
「駄目です」
「…ちっ」
 小さく舌打ちをしてからXANXUSは背中に入れていた手を抜いた。ほっと一安心しつつ、東眞は胸をなでおろす。そしてふとXANXUSが普通に扉を開けたことに気付いた。あれ、と思って東眞は恐る恐る聞いてみる。
「あの…鍵は閉められたんじゃなかったんですか?」
「誰も開けやしねぇよ」
 最中に、と続けたその言葉に、東眞はXANXUSさん!と声を上げた。当然、XANXUSは何故東眞が怒鳴るのか皆目見当もつかず、怪訝そうに眉を寄せただけだったが。