17:本当のところは - 6/7

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 ぴぴ、と音がした後東眞は体温計を受取って体温を確かめて、ほっと笑う。
「下がりましたね」
 完全に、と東眞は平熱をを表示した体温計をしまう。一方、XANXUSはがきごきと体の関節を鳴らしながら、傍らに置かれたスポーツドリンクをぐいと飲む。そして飲んだグラスを突き出した。東眞はそれを受取って中身を注ぎ直すとXANXUSに差し出す。大きな手がそれを受取って、再度グラスの中身が喉に消えた。は、と息が小さく吐き出されてグラスはベッド脇の小さな机の上に置かれた。そして、最後に水と薬を腹の中にいれてXANXUSはベッドを鳴らして立ち上がった。もうその足にふらつきは一切ない。
 くすくすと東眞は笑いながら、でも、と言う。二つの赤い瞳が動いて、ブラウスを着つけながら笑う女を捉えた。
「XANXUSさんが熱を出して寝込まれるなんて、そうそうないんでしょうね」
 スクアーロたちが驚いてましたし、と続けた東眞からXANXUSは視線を逸らして鼻を鳴らす。ズボンに手がかかったので東眞はくるりとXANXUSに背中を向けた。衣ずれが静かになり、かちゃりとベルトが閉まる音がした。
 そして、その背中におい、と声がかかる。一つ返事をして振り返れば、黒くて長いものが目の前に突き出されている。
「締めろ」
 その命令とも呼べる言葉に東眞は小さく笑ってはい、と答えた。そして椅子から立ち上がってネクタイを手に取ると、背の高いXANXUSの首にそれを回し、長さを調節して手際よく締める。
「修矢も始めは締められなかったんですよ」
 ネクタイ、との東眞の言葉にXANXUSの眉間に深い皺が寄る。けれども東眞は仲の良い兄弟の話をしているだけなので、対して気にもせずに続ける。
「哲さんが見本を見せたんですけどね?ちっとも上手にできなくて、結構なんでもソツなくこなすのにネクタイだけは難しかったみたいですね。だから始めのうちは私が締めてたんですけど―――――…まさか、こんなところで役立つとは思いもよりませんでした」
 はい、ときっちりとネクタイを締め終わった東眞は手を離す。しかし、XANXUSはそのしっかりと締められたネクタイを指先で軽くほどいた。第二ボタンまで開けて、軽く首を振る。そして暫し無言で東眞を見下ろして、それからようやく口を開いた。
「…締めるな」
「はい?」
 目的語も主語もない動詞だけのそれに東眞は首をかしげて聞き返す。XANXUSはくるりと背を向け、隊服をひっかけると歩きはじめる。そして投げるように、少しむすくれた感じで言った。
「俺以外のネクタイを締めんじゃねぇ」
「…」
「返事はどうした」
「…え、ぁ、はい」
 誰もそんなネクタイを締める頼みなど今頃してはこないだろうに、と思って返事が遅れる。東眞の返事に満足したのか、XANXUSはその話題を打ち切った。
 ごつごつと床を踏みしめる音だけが二人の間に流れる。ただ、静かに。ただそれだけの空間だというのに、東眞はそれだけでいいような気がした。全てがまるまま戻ったわけでは決してないが。雨降って地固まる、雨の勢いが凄まじいものだったが、雨は止んだ。ぬかるみは次第に乾いていった。そして、今がある。
 何もかもがいいことなはずがない。味わった苦しみも痛みも悲しみも、全ては現実であるし、それから目を逸らそうなどとは決して思わない。進んで思い出したいとも思わないが、それでも今回の件で自分たちの関係は少しだけ、ほんの少しだけ良い方向に傾いた。
 強制するだけではなく、互いを知ろうとする努力をすることをXANXUSは知ったと思う。そして東眞自身も本気の覚悟ができたと思う。もう、どんなことがあっても揺るがない。
 全てが悪いことなはずもなく。
「XANXUSさん」
「…何だ」
「今日は――――――――――いい天気ですね」
 とても、と東眞は笑った。それに誘われる様にしてXANXUSは外の景色に視線をやる。空は晴れていたが、ところどころ雲もある。いい天気、ともまぁ呼べる範囲ではあろうが、そこまで言うほどいい天気でもない。
 言葉の意味が良く分からず、XANXUSはそうだな、とも何ともいえずに答えに詰まる。だが東眞がそれに対しての大した答えを求めていないのは分かっているので、返事はしない。そして、XANXUSはふと思い出した。
「午後の予定は空けておけ」
「何かあるんですか?」
「出かける」
 非常に短く、どこにとも要件一つ言わずにXANXUSは執務室への扉を開けた。開けた先にあった光景にXANXUSは頬をひくり、と思わず引きつらせる。机に積まれた大量の書類が一体何であるのか、考えるには容易だが。
 部屋に入る一歩手前でボス!と五つの声が重なった。XANXUSは泣く子も――――さらに泣きだす目付きで、振り返る。
「――――――――あぁ?」
 そこに立っている五人の表情はXANXUSが回復した、という喜びもあったが、それ以上に何かがある。勿論、それは机の上の書類に起因していることは間違いがないだろう。
 XANXUSの不機嫌そうな顔をみたベルフェゴールはスクアーロの背中をドンと押して、まるで罪人のように突き出す。スクアーロはこの野郎!と視線を向けたが、口籠りつつちらりとXANXUSの方に視線を向ける。そして非常に切り出しにくそうに、もう本当にこれ以上ないほどに、そのだなぁ、と口を開いた。
「…いや、別に俺は迷惑とかこうなる結果を想定していたわけじゃねぇぞぉ…?」
「私は止めたのよ、ボス」
「うるせぇ!てめぇ何抜駆けしようとしてやがる!」
 小指を立てたルッスーリアにスクアーロは怒鳴りつけたが、東眞の見る限りルッスーリアの言うことは事実に思える。一人と四人。どう考えても一人の言うことを聞きそうな彼らではない。XANXUSは地を這うような低音で、それでも尋ねた。
「…何しやがった…カス共が…」
 ふつふつと怒りのパロメーターの限界に近づいて来ていることを本能的に察しつつ、スクアーロはようやく本題に入る。そして。
「…そのだぁ…ぶっ壊れたっつーか…だなぁ?悪ぃ東眞!!!」
「え?な、何がですか?」
 突然頭を下げられて、一体何のことやら見当がつかない。東眞はきょとんとしてXANXUSとスクアーロたちを交互に見やる。その先はルッスーリアが持った。
「そのね、悪気はなかったと思うんだけど…東眞の部屋に復活祝いの飾り付けをしてたのよ、この子たち」
「はぁ…――――――――――あ。ああ、成程」
 そこまでで東眞は察した。というよりも、このメンバーで山積みの書類が出来る事態など想像するに易い。東眞は尋ね返した。
「つまり、ベルとスクアーロそれから…レヴィさんもですか?が、私の部屋で飾り付けをしていた際に喧嘩が勃発して」
「…悪ぃなぁ…」
「部屋を破壊した、と」
 うわぁ、と東眞は流石に言葉もない。スクアーロは慌てて、そんな放心状態の東眞に付け加える。
「だ、だがなぁ、部屋の壁とベッドとだなぁ…後窓とか他少々が壊れた程度だから、てめぇの持ち物自体はそう壊れてねぇぞぉ」
 もともと物をそんなに置いていない部屋だったので、大した問題でもないだろう。しかし、折角ルッスーリアがコーディネートしてくた部屋を全壊でなくとも半壊させたことに、東眞は口をへの字に曲げた。珍しく不機嫌をあらわにした東眞にスクアーロやベルフェゴールたちはぎょっとする。
「王子もちょーっとは、わ、悪いこと…しちゃったかなーっていうか…」
「は、始めは善意からだぞ!」
「俺も悪かったぁ!だから泣くなぁ!!」
 誰も泣いてはいないのだが。ただ少し不機嫌そうな顔になっただけで。僕も止めたんだけどね、とマーモンはぼそりという。止め役二人にせよ、この三人を止めるのは至難の業である。
 だがそれよりも問題がある。
「…まぁ、部屋は別に…構いませんけど。私が持ってきたものは壊れていないんでしょう?」
「お、おお!壊れてねぇぞぉ!ベッドだか机だか、あと窓やら壁やらはぶっ壊れたけどなぁ!」
「…自慢げに語られても困ります」
 む、とした東眞にスクアーロはすまねぇ、と再度謝った。その問題を口にしようとしたとき、隣でこぉ、と耳をつく音と光が灯った。目の前のスクアーロたちは顔面をこれ以上ないほどに青くして、悪気はねぇんだ!と叫んでいる。
「―――――――――るせぇ、死ね。てめぇらの不始末で書類増やしやがって…」
「う゛お゛ぉ゛おい!!ま、待てぇ!!」
 病み上がり、ということもあり、書類の増加は当然苛立ちの原因になる。だが、次の瞬間、スクアーロの発した一言でその動きがぴたりと止まる。
「必然的に東眞がてめぇの部屋に泊まるんだぞぉ!」
「え?」
「…よくやった」
「えぇ!?」
 灯されていた炎が消えて、スクアーロたちはほっと胸をなでおろす。だが東眞はそれどころではない。うろたえながら、尋ねる。
「あ、あのどういうことですか!?」
「い、いやそのだなぁ…?壊れた部屋で寝るわけにもいかねぇだろぉ…?」
 それに、とスクアーロはちらりと執務室に(足取り軽く)入って書類に手をつけ始めたXANXUSに目をやる。つまりは東眞はスクアーロたちの不始末を一番の被害者ながら、一身に背負ったわけで。
 スクアーロたちは東眞の前にぱんと手を合わせた。レヴィは任せた!とばかりにウィンクを送っている。慌ててルッスーリアに助けを求めたものの、ごめんなさいねぇ、と無言の答えである。
「一緒の部屋っつっても、最近は一緒の部屋だったわけだし問題はねぇだろぉ…?」
「そ、そんな!」
「俺達は信頼のおける友人だぁ…違うかぁ、東眞」
 ぱすん、と肩の上にスクアーロの義手が乗る。ものすごく格好いいことを言っているのだが、この状況下においては唯の言い逃れである。ごまかしである。
「今更恥ずかしがる仲でもねぇだろうし…健闘を祈るぜぇ」
「何のですか!」
 スクアーロ!と叫んだが、あっという間に、その信じれないほどの身体能力で全員がその場から逃げだす。レヴィだけが少しばかり遅れていたが。
 取り残された東眞に執務室に座っているXANXUSは声をかけた。茶、と。その声がどこか機嫌が良さそうだったのは―――――――聞かなかったことにしておく。

 

 取敢えず机の上の書類の山を片付け終えて、XANXUSは東眞が淹れてきた紅茶に口をつける。いつもよりも少し熱い。しかし爽やかなレモンティーは体を中から温めた。
 そしてXANXUSは時計を見る。針は午後二時を示していた。椅子から音をたてて立ち上がり、ごつごつと足早に広間の方に足を運ぶ。扉を押しあければ、ソファの上に東眞がのんびりとした様子で腰かけていた。片手には本。
「おい」
「…あ、はい」
 反応が普段よりも少しばかり遅れている。やはり部屋を壊されたのは堪えたのだろうか、と思い直してスクアーロたちに雑用でも押しつけることを考える。
「来い」
「どこに行かれるんですか?」
「来れば分かる」
 立ち上がった東眞に背を向けてXANXUSは歩き出す。東眞はその隣を追った。途中で会ったスクアーロが問答無用で殴り飛ばされていたが、部屋の一件もあったので東眞は呻くスクアーロを軽く無視した(これくらいの報復は許されるだろう)案内された先には一台の車があり、XANXUSは運転手に一言告げて発進させる。移動していく車から見える景色は森から次第に街の風景へと変わっていく。しかし、何度車に乗っても慣れない、と東眞は思う。この見るからに大仰な車は正直な話目立つ。どうにも車と自分があっていないような気がして仕方ない(おそらく実際に不釣り合いなのだ)
 ぼんやりと車の内側から外を眺めている東眞の前ではXANXUSがグラスを揺らしながらテキーラを飲んでいる。
「本当にお好きですね」
 お酒、と続けるとXANXUSは、ああ、と短く返した。そしてまた無言が車内に降りる。二人でいると話している時間よりも黙っている時間の方が格段に長い。しかし病み上がりすぐに動き回るのはどうかと東眞は思っていた。それを読んだのか、XANXUSはグラスをからりと揺らして口を開ける。
「いつまでも寝ていられるか」
「…無茶はされないで下さいね」
「てめぇの心配してろ」
「?」
 怪訝そうに眉根を寄せた東眞にXANXUSはにやりと笑った。何故だかそれが妙に色気がある笑い方で、二つの細められた赤い瞳から東眞は慌てて眼を逸らす。心臓が跳ねている。
 と、ちょうどその時車がゆったりとした調子で停止した。運転手の腕が良いので、それは本当に振動をほとんど感じさせないほど。一拍置いてから扉が外から開けられて、XANXUSが先に降りる。来い、と短く告げられて東眞もそれを追うようにして下車した。扉を出た先にあったのは、何とも値の張りそうな外装の店。初対面時のことが思い起こされて腰が引ける。
「どうした、来い」
「あの、私お財布にあまりお金が…」
「?」
 何言ってやがる、と続けてXANXUSは東眞の腕を掴んで歩かせる。少し引っ張られる様にして歩きながら、未だに不安が隠せていない東眞をちらりと見やって、XANXUSは初めて歩みを止める。扉の一歩手前。
「―――――――遅くなった」
 そして、扉は開かれた。