15:沈黙の掟 - 6/6

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 ごぉん、と静寂を震わせて扉が開く。視線が一度にそちらに向いた。
 レヴィはボスご無事でしたか!と言葉をかけようとしたが、その腕に抱えられている存在に思わず言葉を止めた。帰って来ていたルッスーリアも言葉を詰まらす。ベルフェゴールはマーモンをその腕に抱えたまま、まるで一枚の絵のような光景に固唾を飲んだ。XANXUSはそんな四人を無視してゆっくりと足を進める。腕に抱える体に振動を加えないように、ゆっくりと。しかし、その進行方向にレヴィはふと疑問を抱いて声をかける。
「ボス、そちらはその女の部屋とは反対方向ですが…」
 XANXUSが進もうとしている方向に東眞の部屋はない。そんなことはレヴィですら知っていた。当然XANXUSが知らないはずもない。ボス?と再度声をかけようとしたレヴィの腹をルッスーリアがひじ打ちで仕留める。強烈な一撃に体をくの字に折って、レヴィは痛みに呻く。
 XANXUSは一度止めた足をもう一度ゆっくりと進ませ始めた。動かない四人の前をゆっくりと完全に通り過ぎる。そしてXANXUSはそのまま薄暗い回廊に姿を消した。
 異常なまでの緊迫感が消え去り、ルッスーリアはようやく息を吐く。圧迫感で潰されるかと思った。レヴィの迂闊な一言には肝を冷やされたものだ。ベルフェゴールはそこで口を開く。
「オカマはあっちに何があるか知ってんの?あっちは資料室の他は行き止まりだろ」
 その問いにルッスーリアは少し言葉を詰まらせた。何か言うのを躊躇っているかのように、そして両手をぱっと開いて、誤魔化すように笑う。
「ベルちゃんにはまだ早いわ……よ?」
「言わねーとハゲにするぜ」
 じゃん、と片手でナイフを取り出して脅したベルフェゴールにルッスーリアは唸った後に重く口を開く。別に言っても差支えはないようだが、ベルフェゴールの実年齢と外見がそれを言わせるのを憚らせただけだ。あのねとルッスーリアは言葉を紡ぐ。
「あっちには一室地下の隠し部屋があるのよ」
「隠し部屋?」
「隠しって言うほど隠しでもないんだけど、所謂女をつれこむ部屋ね。普通そういったことは連れ込むことよりも外でやっちゃうんだけど、賠償結婚って知ってるかしら?」
 そう言えば聞いたことがある、とベルフェゴールは思いながら、二つ返事をした。そのための部屋よ、とルッスーリアは教える。
「は?なんで東眞がそっちの部屋に行く必要があるわけ?」
「…それは、ちょっと…」
 分からない、とも言えない。考えられる答えは三つある。一つは「東眞が首を縦に振るまで」その部屋で飼う。先程の状況と到着時のことから考えて、東眞の返事をXANXUSはまだ聞いていない。もう一つは単に東眞を他の人間から隔離するため。強姦されかけた東眞へのXANXUSなりの配慮かもしれない。もしくはその両方か。
 XANXUSが東眞を手酷く抱いたことは、ルッスーリアでも分かった。隊服からのぞいていた白い足には、既に酸化を終わらせた血の跡と乾いた精液の臭い。スクアーロの間に合ったという言葉を信じるならば、それが誰のものかは自明だ。気絶する程に抱いたのだろう。そして東眞が泣いていたのは頬を乾かした涙の筋で気付いた。
 ルッスーリアは口を閉ざす。ベルフェゴールは何でだよ、とルッスーリアの隊服を引っ張る。
「――――――東眞、もうそこからでてこねーの」
「…さぁ、どうかしらねぇ…ボスに聞いてみないことには」
 分からないわ、とルッスーリアは答える。会いたいと言えば、会わせてくれる可能性は無きにしも非ずだ。絶対にないとは言い切れない。
 XANXUSの行為は決して責められるものではない。それはコーザ・ノストラであれば、完全なる許容範囲だ。むしろ一部では男らしい男として褒められる行為でもあるだろう。ところによれば、銃をもって妻を抱いたという自慢話もルッスーリアは耳にしたことがある。名誉ある男の妻は時として酷い暴力を夫から受ける場合がある。殴られ蹴られ、無論それがすべてとは言わない。が、そういう場合もある。
 だがそれらは総じて許される行為であるのだ。
 だからルッスーリアはそういった女性に同情はしない。そして東眞がXANXUSに受けた行為に対しても、心情は理解できてもそれでXANXUSを責めることはない。コーザ・ノストラのマフィオーソとして生きるものならばそれは当然だ。しかし後味がこれほどまでに悪い。
 ルッスーリアは小さく溜息をついた。その小さな溜息の上に声が乗った。
「ベル、結局僕らが言えることは一つだけだよ」
 マーモンの言葉ははっきりとしていた。そしてこの場にいる誰もが納得し、知り過ぎている言葉を口にした。
「ボスは正しいということさ」
 いかなる場合においても、と続けられた言葉の後には重苦しい沈黙が下りる。そして思いだしたようにふとレヴィが尋ねた。
「そういえば、スクアーロはどうした」
 レヴィの質問にルッスーリアはああ、と答える。その言葉には不気味なほどに感情がこもっていなかった。
「後片付けよ」
 告げた言葉は地に落ちた。

 

 XANXUSは東眞を柔らかな布団の上に一度横たえさせて、バスタブに湯を張る。それから散々汚した体を綺麗にした後で、バスローブを身につけさせた。
 顔の血の気は引いたまま、まだ戻らない。そして目も覚まさない。まるで目を覚ますのを拒否しているかのように。綺麗になったその頬を撫ぜて、濡れた髪に指をからませ唇を落とす。
 目が見たい、と思った。声が聞きたい、と思った。笑顔が見たい、と思った。早く目を覚ませ、と思った。
 この一室には全てのものがそろっている。バスタブもトイレも洗面所も棚も机もベッドも。全て。不自由させることなどない。敢えて言うならば窓がないことくらいだろうか。ただし空調管理は完璧なので問題は一切無い。
 指にはめた指輪に触れて、それを撫でるように指を動かす。
 籠の中に空があるのだから、鳥が飛ぶのに困ることはない。この空の中で命ある限りの幸せを与えてやろうと思う。ただ少しばかり心に影を落とすのは、やはり待つのではなかったという後悔。待ったためにこんな事態が起きた。
「――――――――…Sei mia.」
 呟いた言葉は届くだろう。もう双方を塞ぐ壁は何一つない。自分は名誉ある男として、コーザ・ノストラの一員として、そしてボスとして何よりも正しい。
 青白い額に唇を落として、顔を上げる。XANXUSはゆっくりと上半身を起こし、座り直す。そしてポケットに入っていた携帯を取り出し、ボタンを押して耳に当てた。

 

 薄暗い部屋に銀色が古びた椅子の上に座っている。投げられた長い脚は綺麗に組まれていた。銀糸のカーテンから、研ぎ澄まされた殺気を持つ瞳が覗いている。その視線の先には、一人の男が椅子に座らされていた。両足首は紐でそれぞれの椅子の足に縛り付けられてある。男は小刻みに震えていた。後ろには古ぼけたバスタブが置いてある。
 音のない部屋でスクアーロは静かに待っていた。誰を。男を。
 そしてそれから暫くしてから扉がぎ、と壊れかけの音を出して開かれた。一瞬だけ外の酒場の喧騒が紛れ込んだが、扉が閉められてそれはすぐに消えた。震えていた男の瞳があがって、初めて口元に笑みが添えられる。
「ウリッセ…――――――っ!」
 今にも泣き出しそうな顔で助かったといわんばかりの表情のデュリオ。それに入ってきたウリッセはひどく静かな目を、否、軽蔑を込めた視線を向けていた。返事もしない。その対応にデュリオの笑顔が強張る。かちり、と歯が鳴った。
 スクアーロはゆっくりと椅子から立ち上がり、ウリッセに視線を向ける。
「来たかぁ」
「はい」
「ウ、ウリッセ?」
 媚びるような声にウリッセの瞳が完全なる軽蔑で彩られる。向けられた瞳をデュリオは見たことがあった。それは街で盗みをしていて生きていた時に投げ捨てられた瞳だ。それが何を意味するのか、瞬間的に理解した。唇が震えて弁明が喉を震わせる。
「俺は!お、俺は本当に何も知らなかったんだ!!!東眞が、ぁ…っ」
「その名はてめぇが呼んでもいい名前じゃねぇ」
 スクアーロはデュリオの髪をひっつかんで無理矢理上を向かせてそう告げた。銀からのぞく殺意のこもった瞳にデュリオは喉を引き攣らせる。ウリッセウリッセとデュリオは助けを求める。この場で助けを求められるのはただ一人しかいない。俺を見捨てないよな、と視線で訴える。
 しかしウリッセは静かに告げた。
「お前はもう我々の友人ではない。このインファーメが」
「そ、な…」
 今までの口調とは正反対のお固い口調。もう自分とお前は知り合いでも何でもないという宣告だ。インファーメ、即ち沈黙の掟を破りし道徳心を持たない人間。もうマフィオーゾではないという、意味。断絶。
 たったこれだけのことで、終わりを迎えなければならないのかとデュリオは絶望する。ウリッセはそんなデュリオに侮蔑の視線を与えた。
 スクアーロは思う。
 XANXUSもある意味酷い罰を与えたものだ、と。おそらく一目見た時に気付いたのだろう。このデュリオが新参者であることを。 そして彼はちんぴら上がりのマフィオーソであることも。いや、であった、ことも。そういった男に限りない絶望を与える方法が一体何であるかも。
 とぷん、とバスタブで液体が揺れる。
 ウリッセは懐に手を入れて中からナイフを取り出す。太めの、ナイフ。そして無言のままデュリオに近付いて、下着に手を伸ばした。東眞との行為でズボンは脱いでいた。
 一体何をされるのか、分からない。分からないがそれだけに恐怖が襲う。恐怖のためか縮こまった性器の根元にウリッセは糸をきつくきつく巻いた。そしてデュリオはそこで何をされるのか、理解した。あ、と口から悲鳴がこぼれる。
「やめ、や、いやだ!やめてくれ!!それだけは、いやだ!いや、
「てめぇはそういう東眞に何をした」
 スクアーロは叫ぶデュリオに凍えるような声で続けた。そんなのはデュリオの知ったところではない。賠償結婚は普通だ。コーザ・ノストラの権利なのだ。嫌がる女を押さえつけ犯し、そして己のものにする。こんなのはあんまりだ。
 デュリオは情けないほどの涙と鼻水で顔を汚す。
「やめてくれ!ウリッセ!ウリッセ!俺たちはいい友人だった!!助けてくれ!本当だ!俺は何も知らなかったんだ!あの東洋の魔女にそそのかされたんだ!信じてくれ!俺は、違うんだ!掟を破るつもりなんてなかった!!!」
 聞き苦しい言い訳を叫び続けるウリッセにデュリオは視線を上げた。しかしその視線はどこまでも冷たい。深海の温度よりももっとずっと。ウリッセは告げた。
「残念だ」
 そしてデュリオの悲鳴が部屋に充満した。想像を絶する痛みなのは間違いがない。プライドも何もかもかなぐり捨ててデュリオは悲鳴を上げる。断続的な悲鳴。だんだんとそれが弱くなっていく。
 しかしスクアーロはデュリオが気絶するのを許さなかった。頬を殴ってその眼を無理矢理こじ開ける。
「起きてろぉ、最後までなぁ」
 デュリオは体を痛みと恐怖で引き攣らせながら、だらだらとよだれを垂らす。それでも弱弱しく続ける。助けてくれ、と。
 スクアーロはそれを聞いて、目をすっと細めた。侮蔑の色が濃い。その口を開き、そして告げる。
「てめぇがもし命乞いをした場合の伝言をボスから承ってる」
 それに救いのかけらを見つけたのか、デュリオは必死にそれに縋りつく。スクアーロは告げた。XANXUSからの言葉を。一言一句違えることなく、冷静に冷徹に。電話からでも身震いするほどの怒気を伴ったその言葉を。

「『命乞いならてめぇが燃やした聖母にしろ』」

 燃やしたマリア、デュリオの思考にその姿が一瞬だけ脳裏をよぎる。薄暗い部屋の中で燃えていくマリアをその手に持ち、誓いの言葉を告げたあの瞬間が。
 スクアーロは落ちた性器を拾って、デュリオの口に突っ込む。もう吐き出す力も残ってはいない。デュリオはふぐ、ふぐ、と鼻をすすりあげ、XANXUSの言葉に頭を完全に支配される。
 燃やしたマリアは堕ちた男を救わない。
 ゆっくりと首に回された紐にも気付かない。そしてウリッセは首に回した紐の両端を一気に引く。デュリオの体がビクンと跳ねて暴れる。が、両手は後ろで固定され、足は縛られている。びくんびくんと紐の下の体が動き、酸欠で開かれた瞳が白く濁っていく。弛緩した体の穴からは、体内のものが溢れる。五分十分、痙攣していた体は静かに、動きを止めた。
 ウリッセは紐から手を離して、デュリオが縛り付けられたままの椅子の背を引っ張る。がたがたと人一人分の重さを持ったままの椅子が引きずられていく。それはバスタブの前で止まった。バスタブの中の液体が揺れる。
 そして、ウリッセは虚ろなデュリオを一瞥すると、椅子の背を支点にしてそのまま椅子ごとバスタブに突っ込んだ。ぱちゃり、と液体が跳ねる。死体と椅子が中の液体に浸かったその瞬間、じゅわじゅわと音がはじけていく。バスタブの中に張られていたのは希硫酸。溶けていく死体から視線をそらした。
「ご迷惑をおかけしました」
 ウリッセは頭を下げる。それにスクアーロは、若いものからは目を離すな、との釘を一度刺した。
 不始末を犯した者に手を下すのはそれに尤も近しいもの。掟を破ったものであれば、即座にその場で殺されてもおかしくはなかったが、XANXUSはそれをしなかった。それでは意味がないと踏んだのだろうとスクアーロは見当をつけている。
 純粋なる暴力よりも、もっと残忍に残酷に相手を絶望に突き落とした。それほどまでに怒っていたのだ。XANXUSは。
 暫く立つと死肉が溶けていく音が止んだ。ウリッセはバスタブの中をのぞいたが、まだ中には完全に溶け切っていない死体が残っている。どうやら硫酸を薄め過ぎたようだった。そうではない。始めから少し薄めにしておいた。
 これ以上中に放置していても仕方ないのでウリッセは棒などを使って、死体を引きずりだす。そして自身の手も焼かれぬように特製の手袋をはめてその一回り小さくなった死体を開いたトランクに折り畳んで詰める。口の中につっこまれた性器が滑稽にも見える。
 ぱたり、とその蓋が閉じられる。
 それの行きつく先がどこなのか、スクアーロはよくよく知っている。どうせどこかのどぶ川なのだろう。そしていつかは警察か市民がそれを発見して中の惨状を見、悲鳴を上げる。そしてその無残な死体の意味を知る。名誉ある男も新聞でも手に取ってそれを知るだろう。
 死体の残すメッセージ。
 この男が一体何をしでかしたのか。そして名誉を汚した男の末路を。
 随分と軽くなった人一人のトランクを引きずって、ウリッセはその部屋から出て行った。スクアーロも誰もいなくなった辛気臭い部屋を後にした。
 部屋に残ったのは、血の跡と、紐と、そして中身の随分減ったバスタブだけだった。

 

 XANXUSは携帯を閉じた。そして横たわる東眞の頬に優しく、また触れた。