15:沈黙の掟 - 4/6

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 服がはがれて、喉が引きつる。
 ああもう、もう駄目なのだろうかと心がぽっきりと折れそうになる。現状況において東眞が取れる打開策は一切無い。
 筋弛緩剤、口内の布、力の差、手元にない相手の命を奪う道具。全ては不利な状況下。不利、などという言葉ではまだ足りない。絶望的。
 ふ、と鼻から二酸化炭素がこぼれる。
 ならば涙だけはこぼすまい。一言もあげるまい。痛みに呻くまい。全てが終わったら、おわったら、おわ、
 いやだ。
 投げ打つにはまだ早い。絶望などは、望みが絶たれる、それだけだ。望みを絶たなければ絶望とは呼べない。考えろ、と思考を回す。悲鳴を上げるには、全てを諦めるには早すぎる。
 腕に力を込める。ゆっくりとだが、震えつつ指先がシーツをひっかきながら持ち上げられる。のろのろとした動きで男の頬にまで辿り着く。デュリオはそれを認めてくれたのかと勘違いしているようで、頬に触れた指先に己の手を添えて優しく微笑む。それを東眞ははっきりとした敵意を持ってその両眼で睨みつけた。
 少し、ほんの少し指先をのばしてそのまま、ぷつりと糸が切れたように腕を進行方向にめがけて振るう。添えられていた手からそれは離れ、そのまま瞳に食らいつこうとした。
「ぉ、と」
 外れた。
 意思とは無関係に動かない体を必死に上にずり上げる。逃れようと必死になる。少なくともベッドから落ちれば少しはましになる。これからの行為を避けるために、自分ができる最善を尽くす。裏切るな、という言葉は耳に残っている。それが体を動かす。口内に詰め込まれた布を舌で押し出そうと、口を動かす。
 諦めることは裏切りだ。XANXUSに対する最大の。
「まだ…動けるのか…凄いな、君は」
 驚嘆の意がはっきりとそれに含まれている。しかし、すぐにデュリオは手をのばして東眞を再度ベッドに強く押しつける。上から直接かかる重みに肩が僅かばかりに悲鳴を上げた。肌と肌の接点に怖気が走る。放せと東眞は目でそう語った。拒絶の意志のこめられた瞳にデュリオは優しくキスをする。
「すぐに終わる。終わったら、君は俺の妻だ」
 大きな手のひらが太腿を撫でて、下着にかかる。体が強張った。だが
「―――――――――あ…、ぁ?」
 デュリオの体がぐらりと揺れた。
 ぴちゃりと東眞の頬に生ぬるい液体が付着する。鉄錆の臭いがするそれ。そして次の一瞬には東眞の視界には汚れた天井が広がっていた。落ちていた黒い影はない。
 動かぬ体を動かす。どうにか布を吐き出して、上半身を横にし、腕と肘で少しばかり体を持ち上げた。
 そこに広がっているのは倒れた男とそれを見下ろす男。見下ろす男には、XANXUSの手には未だ硝煙の香りが強く残る銃が握られていた。その銃口はまっすぐにデュリオに向けられており、右肩に空いた穴の次に、左に穴が開く。状況把握をようやっと済ませたデュリオの体は、痛みを認識し悲鳴を上げる。
「あ゛、ぁ、あぁ!!」
 血が拍動と同時にぴゅっぴゅっとテンポよく飛び出す。XANXUSは静かに男を見下ろしていた。瞳に光る赤は恐ろしいほどに静かな―――――――怒りを放っていた。それはデュリオの体を一瞬で恐怖に縛り付ける。
「な、」
 何で、誰だ、と尋ねようと必死のデュリオに低い声が紡がれる。それはイタリア語で東眞には理解できない。それはデュリオもつい先日耳にした言葉だった。
「(コーザ・ノストラの掟を心して聞け)」
 たん、と銃声が響く。それは左太腿を貫いた。
「(盗むな、売春に関係するな)」
 音が弾けて、右太腿から血が飛ぶ。痛みを伴った声が上がる。
「(やむを得ない場合を除き、他の名誉ある男を殺すな。必要ならば手を差し伸べろ。弱者は守れ。部外者の前でコーザ・ノストラの話をするな。他の名誉ある男の前で自分から名乗り出るな)」
 銃声がはじけて悲痛な叫びを東眞の耳が捉える。
「(警察のスパイとなるな、名誉ある男同士で争うな。常に態度は誠実で礼儀正しくあれ)」
 あ、あ、と強い腕で引き絞られている銃が僅かに跳ねあがるたびに声が開けられた口から零れる。XANXUSはそれを上からただ引き金を絞り見ていた。そして間を置いて、赤い瞳がデュリオを静かに見下した。殺意が空気を澱ませる。しかしその怒りだけは純粋なほどに恐ろしくはっきりと、その空気の中に存在した。
 決定打のように言葉が告げられる。

「(他の名誉ある男の女に手を出すな)」

 だん、と銃が跳ねた。びくりと倒れ伏した体が大きく揺れる。そして明らかな恐れを持った瞳がXANXUSに向けられる。
「お、俺はしら、し、しら、な、知らなかっが、ぁ!」
 XANXUSはその足で銃弾が貫いた傷口を踏みつける。そして、初めて東眞に視線を向けた。東眞の体からは安堵からか、どっと力が抜ける。しかし、踏み出された足音にその体が一瞬で緊迫した。
 筋弛緩剤でまともに動かなかったその体に銃を持った手が乗せられる。冷たい感触と人のぬくもりが当たる。ぐ、と固いベッドに体が押し付けられた。視界には赤い瞳と黒い影が広がる。ぞわり、と全身に恐怖が走った。
「ぃ――――――――――、ぃや」
 返事はない。
 XANXUSは白い肌につけられた赤い華に食らいつく。痛みに東眞は喉を逸らす。がり、と肌が食い千切られるのを神経が過敏に感じ取った。かちり、と歯が鳴る。
 床ではいまだデュリオが痛みに呻いている。ぎしりと人一人分が乗り、古びたベッドが悲鳴を上げる。
「いゃ、」
 拒絶の言葉は届かない。体に残った筋弛緩剤はまだ動きを奪っている。体に散らされた華の分だけ、痛みが体を駆け廻る。無言の行為は恐怖を煽りたてる。喉からあふれる言葉は震えたもので、名前を呼ぶことも敵わない。
「―――――――――――っ、ぅ…!」
 噛みついた部位をざらついた舌が通る。僅かに血が滲み、ひどく染みた。傷を抉るように舌が押しあてられる。泣くまいと思っていた箍が外れて、目尻からあふれ落ち、米神を伝う。
 怖い。たまらなく。何か言ってほしい。一言かけて欲しい。優しく抱きしめて欲しい。もう大丈夫だと――――言って欲しい。
 求めるものは何一つ与えられず、赤い瞳で怒りを突き付ける。
「ふ、ぅ」
 しゃくりあげて、喉が震える。やめてくれの意味を示し、動かない手をどうにかしてXANXUSの胸に置く。シャツがくしゃりとよれた。だがその手は振り払われ、縫いとめられる。
「い」
 や、と最後の意思表示を示そうとした。
「う゛お゛ぉおおい!!!ぶ」
 声が、その緊迫した空気を割った。だが、それは空気の重さゆえに最後まで続けられず途中で止まった。スクアーロは視界に飛び込んだ風景に絶句する。
 まだ男は生きている。痛みと出血でのたうちまわっているが。そして東眞はどうにか無事なようで、ボスは、XANXUSは―――――――――――今。
「う゛」
「出て行け、カス」
「ボ」
「聞こえねぇのか」
 赤い瞳に凄まれてスクアーロは呼吸を止める。XANXUSはスクアーロを睨みつけたまま、付け加える。
「そこのゴミも持って行け。生かせ、『まだ』殺すんじゃねぇ」
 この場においてスクアーロが選べる選択肢は一つしかない。
 血の臭いが充満する部屋で、痛みに呻く男をかつぎあげる。床には血溜まりができていた。部屋の片隅には、東眞の銃が転がっている。す、と視線をベッドに移す。黒い隊服から、東眞の瞳が垣間見えた。しかしそれはすぐにXANXUSの僅かな動きで見えなくなる。
「何してやがる」
「…何でも、ねぇ」
 行かないで、と東眞の瞳は言っていた。だが、スクアーロにその権限はない。スクアーロにとってXANXUSの命令は絶対服従なのだ。ただ、後ろ手で閉めた扉が異常なまでに重く感じた。そして扉の向こうで、いやだとそんな声が、薄い扉を震わせたような気がした。
 銀色のカーテンがスクアーロの顔を覆い隠し、その表情は一切見えなくなった。