15:沈黙の掟 - 2/6

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 柔らかい感触に体を押し付けられて、東眞はふっと落ちていた意識を取り戻す。始めはぼやけていた脳が白さに刺激を受けて形を持ち出す。状況が一気に思考に押し寄せて東眞はばっと体を叩き起した。否、叩き起こそうとした。
「安心してくれ」
 場にそぐわない優しい声音が耳に届く。
 そして今まで視界に入ってこなかった、認識を拒んでいたものがその眼に映る。男。一人の男だ。
「チェガーニ、さん」
 背中に当たる安物のベッドは体にがつりと当たる。喉が震えた。柔らかな瞳が不自然に恐怖を与える。
 東眞は視線をずらし、場の状況を把握する。古びたベッド、傾いた壁掛け、破れたカーテン。板で打ち付けられた窓からは日差しが入ってくることはない。夜。しかしそんなことよりも今は、と東眞は上に視線を向ける。
「…どうして、こんなことを」
 おず、と警戒の色を携えた東眞の頬をデュリオは優しく撫でる。それを拒絶するかのように顔を背けた。腰の背中にいつも携帯している固く冷たい感触を東眞ははっきりと感じている。
 この近距離で外すことはない。幸い眼鏡も取られてはいない。こくりと唾を飲んで答えを待った。
「東眞、君が俺の申し込みを断らなけりゃ…俺もこんなことをしないで済んだ」
「意味が分かりません。放して下さい」
 きつい瞳を愛おしげに眺めて、デュリオは目を細める。身を引こうとするが、ベッドに押さえつけられている以上動くことはない。
「俺「たち」はある決まり事がある」
 うっすらと笑ったその嗜虐的な瞳に東眞は思わず身を固めた。<安心してくれ、とデュリオは再度告げる。
「賠償結婚、という言葉を知っているか」
 賠償も結婚も、それぞれの言葉に聞き覚えはあるが、賠償結婚という二つを合わせた単語は聞き覚えがない。知っているのは結婚詐欺による損害賠償くらいだろうか。
 わからない、という表情の東眞にデュリオはまるで子供に本を読み聞かせる親の如く言葉をつづけた。
「コーザ・ノストラが…いや、マフィアの男が自分にぴったりの女を見つけて結婚を申し込んだ際、もしその申し出を断られたら」
耳を塞ぎたくなるような事実を頭に叩き込まれた。

「誘拐し、強姦する」

 その賠償として結婚するんだ、と優しい笑顔でデュリオは東眞に告げた。目を見開いている東眞にデュリオは駄目押しをするようにさらに続ける。
「君をここに連れてきたことは誰も言わない、誰も知らない。俺はコーザ・ノストラでここはイタリアだから。でも安心してくれ、俺は君に手荒なまねをするつもりは一切ない。少し順番が変わるだけだ」
 少し、という順番。それだけで東眞はこれからなされることが分かった。十分すぎるほどに。
「俺は君を大事にする。大丈夫、怖くない」
 見開かれた瞳にデュリオが映し出される。全身で、東眞はその言葉を拒絶していた。
「放して―――――――ください。私は、チェガーニさん、貴方の人になるつもりはありません」
「デュリオ、と」
「放してください。私は私が
 望む人の隣に立つ、と言おうとした口に布が詰め込まれる。その圧迫感に顔を顰める。首を横に振り、舌でそれを押し出そうとしたができない。右肩から手のひらが離れ、一気に解放される。両手を解放されても、非力な女はどうしようもないといわんばかりに。ブラウスのボタンがぷつぷつと外されることはなく、ぶっつりと音を立てて引き裂かれる。
 本気だと東眞は思った。
 ほんの少しだけ腰を浮かし、解放された片手は瞬間的に背のホルダーに入っている銃を引き抜いた。引き出す時に上手くホルダーに引っ掛けてスライドを一杯に引きながら、東眞はそれを握りしめた。ごつり、とその銃口はデュリオの眉間に引き出されると同時に添えられた。デュリオの瞳が大きく見開かれる。けれども東眞は一切躊躇することなく引き金を引いた。
 人差し指が、冷たい感覚を捉えた。

 

 ルッスーリアはパン屋を見て溜息を吐く。パン屋はもう既にしまっている。一番有力な情報提供者を失ったわけだ。
 しかもこの時間帯となると、もう一般人の人通りは一切と言っていいほどにない。これからも時間はこちらはの時間となっている。この時間で歩く馬鹿はもうほとんどいない。
「困ったわねぇ…。あら、これってパン屋の袋じゃない。中身は…ないわねぇ」
「そりゃそうだろうよぉ、餓鬼がもってっちまったんだろうぜぇ」
 食いものに困る人はこの路地裏にいくらでも潜んでいる。表にははっきりと見えないが、そういう餓鬼どもは数え切れないほどこのあたりには存在しているのだ。
「そうよねぇ…ど
 うしましょうか、と頬に手を添えたルッスーリアに幼い声がかかった。レヴィたちの視線が薄暗い路地裏に向かう。暗がりの中に不釣り合いなほど爛々と輝いた二つの目があった。目の位置から推測するにまだ子供だろう。子供は蔭から姿を現さない。
「何があったか、知ってる」
 と、だけ声は告げた。幼い声は獣のように喉を震わせて白い息を吐いていた。スクアーロはゆっくりと影に向き合った。
「何を、知ってんだぁ」
 返事の代わりに蔭からやせ細った手がにゅっと伸びた。ルッスーリアはそれに懐を探って、あったわー!と声をあげるとその手の平にキャラメルを一つ乗せた。
「まだあって良かったわぁ」
 しかし子供の手はまだ引っ込まない。寒さにかじかんで震えたまま、その位置で固定されている。
「馬鹿か、てめぇは」
 スクアーロは眉間に皺を寄せてルッスーリアをにらんだ。子供が言いたいことなど、手に取るように分かる。
「いくら、欲しいんだぁ」
「今日を生きる金があればいい」
 白い息が暗闇から吐き出される。スクアーロはポケットを探って5EURO札を子供の掌に乗せた。
「弟もいる」
 その言葉にさらに5EURO上乗せしてやった。子供の手が引っ込む。そしてその代りに答えが返ってきた。
「今日起こった不自然な事は、男が女をさらっていったことだった。スタンガンで気絶させて、何事もなかったかのように男は女を抱きあげて行ってしまったよ」
「どこに行ったかは分かるかぁ」
「分からない。行ってくれ、俺はあなたたちと言葉も交わしていないし何も見ていない何も知らない。今日はいい夜だった」
「ああ、月が綺麗だぁ」
 スクアーロの言葉を最後まで聞かず、ぱたぱたと小さな足音は遠ざかって行った。
 元よりマフィアの存在は暗黙のものであるが故に、存在しない存在であるのだ。誰も何も語らない、それこそがここイタリアでマフィアが跋扈できる最大の理由である。最近はマフィア、という存在が表舞台でも名が知られるようになったとはいえども、ここイタリア特に南イタリアでは昔のまま、マフィアの恐怖に住民が口をつぐんでいる。
「けっちぃわねぇ。もっとあげても良かったんじゃなぁい?」
「うるせぇぞぉ!」
 ルッスーリアの言葉にスクアーロは鼻白んだが、今はそれどころではない。先程の子供の言葉を思い出し、眉間の皺を増やしてスクアーロは踵を返す。こんな所で油を売っている暇はもうない。
「もどるぞぉ!急いでボスに知らせねぇとなぁ!!」
「携帯で連絡したらいいんじゃない?」
 まともなルッスーリアの返しにスクアーロは走りながら口を閉ざす。しかし、無駄だ、とレヴィの真剣な声がそれを遮る。
「俺が連絡をしても出られん。スクアーロなどが電話したところで出るわけがない」
 そう言ってレヴィは耳に当てていた携帯をしまう。その対比はどうかと思うが、スクアーロもXANXUSが携帯に普通に出てくれるとは思っていない。あのXANXUSが携帯を使用するのは、自分からかける時か、もしくは東眞からかかってきたときくらいだ。こんなタイムロスも今は惜しい、と速度を上げた。