14:亀裂 - 5/5

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「どこに行く」
 掛けられた声に東眞は靴を直しながら振り返る。見上げるほどの巨体につり上がった瞳に笑って、町へ、と告げた。
「パンを買いに行くんです。今日は、腕によりをかけて」
「…」
 一旦言葉を区切り、レヴィはむぅと唇を尖らせる。見るからに言葉を選んでいる、と言う感じである。東眞は黙ってその言葉を待つ。話を区切るのはあまりよろしくない。十分に思考を回す時間を与えられ、レヴィはようやく文章を完全なものにした。
「俺は、貴様をまだボスの隣にふさわしいと認めたわけではない」
 いつも耳にしている言葉だが、東眞はその言葉の意味をよく知っていた。否、分かるようになった。レヴィにとってのXANXUSが一体どれほど大きな存在なのかを。だからこそその言葉の、今この時の言葉の重みはいつも以上である。
「だが、」
 だが、と繰り返してレヴィはそっぽを向く。そして下唇を突き出してぼそぼそと続ける。
「貴様自身を認めていないわけではない」
 それはレヴィによる、最高の褒め言葉とも言える。東眞は思わず言葉を失う。なんといっていいのか分からない。
 黙ったままの東眞にレヴィはちらりと視線をよこす。それでようやっと東眞はわれを取り戻して、そしてその表情は自然に何とも言えないほどの喜びでいっぱいになる。あまりにも嬉しげな表情をするものだから、レヴィの方が反対に戸惑ってしまった。言葉を詰まらせたレヴィに東眞は目を細め、そして微笑む。
「有難う御座います」
「―――――ふん!ボスの隣にはまだまだだ!!」
「精進します」
 レヴィはそれだけ言うと背を向けてどすどすと去って行ってしまった。それに東眞は一礼して、そして扉を開けた。

 

 机の上に置いてある小箱に指先を押しつける。おそらくそれは少し弾けば、滑らかな表面を滑って足をつけるべき床に落ちるのであろう。目を通してサインするだけの書類はすでに終わり、端に山となっている。そしてXANXUSは扉を叩く音を待っている。遠慮がちな、優しい音を。
 しかし、放たれたのは喧しくせっかちな耳障りな音だった。扉はいつも通り了承を得ずに開けられる。
「う゛お゛ぉお゛い!返事はもらえたのかぁ、ボス!!」
 返事の代わりに置いてあった万年筆を投げ飛ばす。先端を向けて。流石にそれが当たれば色々と危ないことになりかねないので、スクアーロも間一髪で避けた。机上の小さな小箱に目をやって、それからスクアーロはにたぁりと笑った。にやけたその笑みを崩さないまま五月蠅く続ける。
「まだのようだなぁ」
 その癪に障る言い方に赤い瞳がねめつけるように動かされる。苛立ちすら感じさせる(実際に苛立ってはいるが)その朱色は僅かに細められた。眉間にある皺が一本増えた。危ないと思いつつスクアーロは口を動かす。
「まぁそう気にするなぁ。てめぇがここ二日飯も食いに来なくて東眞が心配してたぞぉ。俺がこうやって持ってきてるってことは伝えてねぇからなぁ。でもあれだぁ、心配されてるってことは脈ありだろぉ?」
 それにスクアーロは東眞の答えを知っている。おそらくXANXUS自身もその答えを知っているはずだろう、とスクアーロは確信にも近い何かを抱いている。そうでなければ、XANXUSが大人しく開放するはずもない。とは言えど、保留の一言を聞いた時には驚いたが。
 ぷ、と笑いを思わずこぼしてからスクアーロは小箱の隣に食事を置く。
「しっかしてめぇに我慢っていう単語がついたことに俺は感心するぜぇ。むしろ驚愕だなぁ」
 蓮華を手にした手がふと止まる。今日は卵雑炊である。調子が悪いと思われているのかどうか知らないが、ここ最近運ばれてくるのは完全病人食である。XANXUSはふんと鼻を鳴らした。
「うっせぇ」
 口に含んで、予想以上に熱かったそれに水を掴み喉に通す。その一連の動作にまた癇に障る笑いが空気を震わせる。尤もそれはすぐに止んだが。
 三日目。
 ふぅと蓮華に掬った雑炊を覚ましながらXANXUSは時計をちらりと見る。
「なぁ」
 珍しく神妙な声にXANXUSは視線だけで応える。スクアーロはそこに立ったまま、窓の外に視線をやって息をついている。口がゆっくりと動かされ、そして僅かな躊躇いを持って言葉が発される。
「―――――――あいつで、いいのかぁ」
 視線が赤を射抜いて来る。本当にいいのか、と。
 蓮華の上の在る程度冷ました雑炊を口に運び、数回咀嚼して喉を通す。
「カスが」
 それが返事であるのは、そしてその返事がどのような意味を持つのか、スクアーロには十分だった。自分を罵倒する言葉で理解してしまうのは、いささか悲しいものがあったが。
 そしてスクアーロ自身もXANXUSの選択を間違っているとはもう言わない。もともと疑問を持っていただけで間違っているとは思っていなかったが。彼女の、東眞がどういう人となりなのかはよく分かった。
 確かに彼女は肉体的には弱者である。銃もそれなりに使えるようではあるが、一般人が武器を持っている程度だ。自分の命を守るために「躊躇なく」人を殺せる殺せないの差はあるものの。だがその精神面はこちらも頷けるほどに強く逞しい。確固たる己を持ち、それを汚すものがあるとするならば毅然とそれに立ち向かう。状況判断も悪くない。立ち直りが早い、というのとはまた違う強さだ。矜持なのだろうとスクアーロはそう思っている。彼女の弟も有しているであろうそれ。剣士としての誇り、ボスとしての誇り。彼女が持っているのは限りなくそれに近い。もしくは同等である。
 少なくともスクアーロとしては、目の前で座っている男の変化を少なからず喜ばしく思っている。惹かれたのはその比類なき怒りであるとしても、だ。
「…これじゃまるで、母親気分だぜぇ…」
 はは、と苦笑と共に落ちた声をXANXUSが聞きもらすこともなく、スクアーロの顔面には食べ終わった小さな土鍋が飛んだ。

 

 東眞はパンの入った袋を持つ。中身はフランスパンだ。いつにもまして重たい。
 しかし口元には自然に笑みが浮かぶ。どんな顔をして答えを聞いてくれるだろうか、とそう思うと心が弾む。思春期はとうの昔にすぎたし、少女漫画の主人公でもないのだが、やはり嬉しい。
 今晩はパンをくりぬいて中にシチューを詰めようと、決めた。折角ここのパンがおいしいと言ってくれたから数日前買いに行ったのに、食卓に姿がなかったので結局食べてもらえなかった。だが、今日は食べてもらえるような気がする。
「東眞!」
「チェガーニさん」
 笑顔で手を振って小走りで走ってきた男性の名前を東眞は呼ぶ。カフスを落とした男性、ということで東眞の中にはインプットされていた。
 立ち止まって東眞はデュリオと向き合う。
「デュリオでいいぜ。今、時間は平気?」
「時間ですか?」
「ああ、この間の礼がしたいんだ」
「お礼なんて構わないでください。大したことをしたわけではないですから」
 その誘いを申し訳ないと東眞は笑顔で断る。しかし、デュリオは困ったようにはにかんで、手を差し出した。
「俺に男としての恥をかかせないでくれるか?」
 デュリオの言葉に東眞は一瞬目を見開く。驚いたその表情にデュリオはふっと眼を細めて、言葉をつづけた。
「面目を立たせてくれ」
 どうしようかと東眞は言葉を詰まらせる。出来ることならば、このまま誘いを断って晩御飯の支度を始めたい。そして、それが終わったならばあの時の答えを言いに行きたい。
 困った東眞の表情にデュリオはうんと唸る。
 二人の間に夕暮れが落ちていき、多かった人通りがもうちらほらとしか見えなくなっていく。東眞は思案の末に、また今度と言おうとした。しかしその言葉は目の前に差し出された花の山に潰される。
「…あの?」
「礼。時間がないなら、今ここで言う」
 こんな沢山の花を高々カフス一つで、とイタリア人と日本人の差だろうかと東眞は驚きながら赤い花を受け取る。しかし、何故だか胸がざわつく。花の香りが体を怯えさせる。手にしたこの重みが――――――――――怖い。花の向こうに見えた瞳。
「君が好きだ、結婚してくれ」
 端的に、しかし非常に分かりやすい一言である。ぱちりと東眞は目を瞬く。
「え…あ、その」
 自分が魅力的な人間ではないのはよく分かっているので、これは何かの冗談かと思う。しかし、その眼が冗談ではないと告げている。こくりと喉が鳴った。
 そして止まっていた思考回路をONにして電流を流す。言葉を咀嚼し意味を理解する。だが勿論東眞の答えなど一つしかなかった。
「…お気持ちは嬉しいですが、すみません」
 渡された花を東眞は丁寧に差し出して返す。そして深々と頭を下げた。
「…駄目、か」
「すみません」
 だが東眞はここで一つ違和感を覚えた。相手の声に落胆の色が一切見られない。むしろ、そう、相手の意思は関係ないと、そういう。
 東眞は反射的に顔をあげた。瞳は捉えた。相手の顔を表情をそして、目の色を。ぞわり、と全身に恐怖が走り抜ける。逃げろと本能が警告をした。
 足は逃げ出すために半歩下がった。体は男に背を向けようと僅かに捻った。だが、そんな行動よりも男の動きの方が数倍早かった。掴まれた肩に握られる指の感触がめりこんだ。命の危機はない、が、東眞はほぼ自動的に備え付けている銃に手を伸ばそうとした。しかしそれよりももっともっと、男の動きの方が早い。
 視界を花が埋め尽くす。赤い、その色が。散らばる色に意識までが吸い込まれる様にしてふらつく。腕に抱えていたパンが石畳にばらける。
「―――――――――――かっ、は、ぁ…」
 腹部にあてられたスタンガン。全身を駆け廻った電流に動きが拘束される。ホルダーに後少しというところで指先から、関節から力が抜けてだらりと落ちる。意識はまだどうにかおぼろげにあるのに、体の自由が利かない。
 膝裏に手を添えられて体が持ち上げられる。そして上に行く体とは反対に、おぼろげな意識が次第に拡散していく。
 人通りは、もうなかった。