14:亀裂 - 3/5

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 広い廊下をかけて、東眞はようやく台所にたどりつく。そして目の前の状況に脱力した。
「…何を…?」
「もうもう!東眞!聞いて頂戴…!!」
 ルッスーリアは部屋の隅に逃げて、身を強張らせている。先程の悲鳴の原因は一体何だったのだろうかと、疑問に思いつつも東眞は足を中に踏み入れた。視線の先にはルッスーリアとベルフェゴールの二人しかいない。そしてルッスーリアは部屋の端で震えている。
 東眞はどうしたことかとルッスーリアに近寄って手を伸ばした。その動作にルッスーリアは情けない声を上げながら東眞に抱きついた。大柄の背丈に押しつぶされるようにしながら抱きつかれて思わずこけそうになるのを踏ん張って耐える。ルッスーリアはわんわんと泣いていて会話が出来ない。そんなルッスーリアの背中をなだめすかすように背中を優しくたたきながら、東眞はベルフェゴールに助けを求めた。その視線にベルフェゴールは何でもないことのように告げる。
「ゴキブリ」
「…ああ、ゴキブリですか」
 成程、と東眞は頷いた。確かにあの扁平系の黒く脂ぎった生き物は好きか嫌いかと言われれば嫌いの部類にはいる。ルッスーリアも例外ではなかったということだろう。
 しかし肝心の黒い物体の姿は―――――――――足を奇妙な具合で動かしながら腹を出して転がっていた。足は不気味に動いているものの、その腹には銀色の貴金属が突き立って、その動きを完全に封じている。もう暫くもすれば生命活動は断たれるだろう。これが誰の仕業なのかは言わなくても分かる。
「…殺したんですか?」
「だってキモイ」
「後始末は…ル、ルッスーリア、ほ、骨が軋んでます!」
 いやぁ!と叫んで腕の力がさらに強められたので、胃の内容物が一気に出そうになる。呻きながらさすっていた腕でぱしぱしとその背中をたたく。流石にこの腕で締め付けられれば本気で三途の川が拝めそうである。
「えー何で王子が後始末なんてしなきゃいけねーの」
 王子片付けたんだから、そこのオカマの仕事だろ?とベルフェゴールはルッスーリアを指差す。尤もな言い分ではあるのだが、この調子でルッスーリアが片付けられるとは到底思えない。
「じゃぁ、私が片付けますから」
 放して下さい、と東眞はやんわりとルッスーリアの腕を解き、ポケットティッシュを一枚取り出してナイフを引き抜いた。そしてそれを包み、ゴミ箱に入れようとしたが、また悲鳴が響いた。
「東眞!!だだだだ駄目よ駄目!一体何しようとしてるの!」
「え…ゴミ箱に…」
「や、ややややいやいやいやいやいやよ!やめて頂戴!跡形も残さないで消滅させて頂戴!」
「…それは…ちょっと…無理です…」
 人にはできることとできないことがある。燃やしてもいいのだが、流石にわざわざ燃やすのも面倒くさいし、それに燃やしたくない。生理的に拒否したい。
「…レヴィさんに頼んでみるとか」
「それだったらボスに頼んだ方が手っ取り早くね?」
 東眞はそうかもしれませんね、と苦笑しながら結局ゴキブリを包んだティッシュをゴミ箱に放り込んだ。
 そのボス、と言う単語にルッスーリアはぴくりと反応した。そして先程とは打って変わった態度でめをきらきらと輝かせ、東眞の両肩を掴む。
「で!?どうだったの?」
「何がですか?」
 質問の意味が分からずに東眞は首をかしげる。しかしルッスーリアは肘で東眞をつつきながら、恥ずかしがらなくてもいいのよ?とウインクを飛ばす。
「ボスから、言われたんでしょ?」
 その一言に東眞はかっと顔を赤くする。改めて人に言われるとこう恥ずかしいものがある。
「…その、ええ、まぁ」
「もーおめでとう!今日はパーティーね!ぱぁっとやりましょっ!!」
「何が何が?」
 ベルフェゴールは話の展開についていけずにルッスーリアの背中を殴って説明を求める。その行動にぷぅと頬を膨らませながらもルッスーリアはベルフェゴールに、婚約よ!と簡潔に説明した。しかし東眞は慌ててそれを訂正しようと両手を上げた。
「う゛お゛お゛ぉおい!!さっきの悲鳴は何だぁ?」
「げ、うるせーのがキタ」
「てめぇ!」
 殴り合いを始めようとしたスクアーロとベルフェゴールをルッスーリアはまぁまぁと止めて、嬉しそうに告白する。
「そんなことしてる場合じゃないわよ!」
「何がだぁ?」
 手をおさめたスクアーロはルッスーリアの言葉に眉を顰める。首をかしげたそこに、ベルフェゴールが、ボスが東眞と婚約した旨を続けた。スクアーロはその言葉にぱっと表情を明るくさせて、その両手でばしばしと東眞の肩を叩く。
「とうとうかぁ!長かったぜぇ!!今日はパーティーか?」
「いえ、あの」
 ひどく冷静な言葉に、スクアーロたちは騒ぐのを一旦止めて視線を向ける。集中したそれに東眞は言うのを一瞬ためらったものの、はっきりと続けた。
「実は、保留という形で」
 東眞の言葉にその場の空気が一瞬で凍りつく。そしてスクアーロはがしっと東眞の肩を掴んで、馬鹿野郎!と叫んだ。
「てめぇ、俺が言ったこと覚えてなかったのかぁ!!」
「覚えてはいたんですが…」
 東眞は言葉尻を濁した。しかし、次にすぐさまルッスーリアの心配そうな声が台所に響く。
「ボスに何もされなかったの!?」
 何も、と言えば確かになにもされなかった。敢えて言うならば、サインをするまで部屋から出さないと脅されたことくらいだろうか。大したことではないので、特に何も、と東眞は言っておく。
「ボスが…しし、信じらんねー」
「修矢にも報告をしたいので、三日期間を貰いました」
 その言葉にルッスーリアとスクアーロの表情から力が抜ける。
「了承はするんだなぁ」
「よかったわぁ…」
 二人がそこまで安心する理由は分からないが、東眞ははいと答えた。そして、スクアーロが話を悲鳴の件に戻して、台所はまた騒然とした。

 

 何時間も何時間も、気が遠くなるほどの時間を冷たい椅子の上で過ごした。それも終り、デュリオは紙に描かれたマリアに己の血をなすりつけた。マリアに火がともされる。そして奇妙なほどに静かな空間で言葉が跳ねる。
「俺は紙のあなたを燃やし、聖人のあなたを敬慕します。俺がコーザ・ノストラを裏切ることがあれば、この紙の焼かれるが如く――――…我が肉体を焼きたまえ」
 神妙な宣誓に辺りはさらに静まり返った。手に落とされ、右手から左にわたって燃えていくマリアは少しずつ灰になっていく。熱さが指に伝わってくる。そしてとうとうそれが燃え尽きた。
 デュリオはほうと息をついた。これでもう自分はコーザ・ノストラの一員なのだと。泥水を啜り非難と軽蔑の目を浴び続けた日々との別れなのだ。
 デュリオは抱擁を祝福を新しい仲間から受ける。そして懐にはご祝儀が入れられた。その重みと悦びでデュリオは新しい人生が始まったのだということを泣きだしたいほどに実感した。
 祝いの晩餐会が催され、うまい料理と酒が振る舞われる。酒を片手に喜びをかみしめるデュリオの肩に手が乗せられた。それが誰なのか分かると、デュリオはぱっと顔を輝かせた。
「ウリッセ!」
「よくやったな、デュリオ。これでお前も俺たちと同じだ」
 にっと笑った兄貴分のウリッセにデュリオは破顔する。しかし、ウリッセは一瞬だけ冷たい炎をその瞳に灯した。
「―――――分かっているな、お前はもうこの世界から足を洗うことはできない。お前が去るにはお前がもたらした血以上の血を流すしかない」
 デュリオはその言葉にマリアに血をなすりつける前に聞いた言葉を思い起こし、ごくりと唾を飲んで頷いた。それから後のボスの言葉もしっかりと耳に残っている。
 しっかりと頷いたデュリオにウリッセはにっと人の良い笑みを浮かべた。
「しっかりしろよ。でなけりゃお前を推薦した俺が恥をかいちまう」
「任せてくれよ、ウリッセ!」
 冗談とも本気ともとれる、けれども朗らかな会話に全身を楽にしてデュリオは笑う。ウリッセがそんなデュリオを肘でつつく。
「大体今日、まさか俺はお前がそんなにめかしこんでくるなんて思わなかったぞ?カフスボタンなんてしてきやがって」
 驚いた、と笑ったウリッセにデュリオの顔がぱっとトマトのように赤くなる。それにウリッセは気付いてにやぁと口元を歪めた。
「何だ?お前、生意気にもう女がいるのか」
「あ、いや、まだ…俺の女じゃない」
「まだ?そっちの女なんだろう?」
 そっちの道、というのがどの道なのかもうデュリオにはよく分かる。しかしデュリオは一拍置いた後首を横に振って、今日のことをかいつまんで説明した。その説明にウリッセはへぇ、と酒を片手に眉尻を僅かに下げた。
「それで俺は無事に時間通りに来られて儀式も受けられた。なんというか…凄く、あったかい女だったんだよな」
「あんまり女に入れ込むなよ」
 釘をさしたウリッセにデュリオは苦笑した。そして周囲の目を気にしながら、こそこそと耳打ちをする。その内容にウリッセは顔を顰めた。しかしデュリオはそれに気付かず、笑って話し続ける。
「いや、こういう特権があるんだってのはついさっき知ったばっかだけど」
「それは特権じゃねぇよ」
「そうか?俺は特権だと思うぜ?」
「…デュリオ、別に俺はお前の女の問題にとやかく口を挟むつもりはねぇが…」
 考え込むようにしてウリッセは息をついた。そして、すっと浮かれ気分の弟分に酒を持った手で指をさす。
「よくよく考えて行動は起こせ。いいか、決して浮ついた頭で迂闊に行動をするな。間抜けな馬鹿はすぐに死ぬ」
「分かってるさ。それはあんたに嫌と言うほど教わった」
「そうだったか?」
「口が酸っぱくなるほどに言われたよ」
 二人の間に笑い声が上がる。そして、一時は不機嫌そうにしていたウリッセも、表情を柔らかくして話を戻した。
「日本人かぁ…俺が教えてやった日本語役に立ったろ?俺たちははボンゴレ傘下だから覚えといて損はないと思ってたけど、まさかこんな所で使い道があるとはなぁ」
「俺も驚いた」
「で、美人なのか?」
 美人、という言葉にデュリオは言葉を詰らせ、そしていいやと首を横に振った。その返事にウリッセは首を傾ける。
「じゃぁなにか、スタイルがいいのか?」
「いや…そういう外見的なとこじゃなくて、こう、器量良しだ。今時針と糸を常に持ち歩いてるなんて信じられなかったぜ。それで俺のこのカフスボタンをひょいひょいっと止めちまうんだからさぁ」
「ふぅん…。名前は?」
「東眞って言ってた。桧東眞」
 デュリオが繰り返した名前を反芻しながら、ウリッセは聞いたことがないな、と頷いた。そして、デュリオは笑って続けた。
「絶対に俺のものにしてやる」
 そんな元気一杯の弟分の頭を兄貴分はぐしゃぐしゃと撫でまわした。そして一言、変わらずの忠告をした。慎重に、と。