14:亀裂 - 2/5

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 落ちた影に東眞はすっと視線を上げる。少しくたびれたスーツを着込んだ、茶色の瞳が焦った様子で此方を見下ろしていた。口を開けて、貴方のですかと聞こうと思ったのだが日本語でしか言い方が分からない。あ、と一拍止まってから東眞はカフスを指差して、それから男を指差した。男は小さくそれに頷く。東眞はパンの入った袋を傍らに置いて、折っていた膝をのばして立ち上がる。その時にふと男の袖口に糸がほつれているのに気付いた。 東眞はふ、と笑ってそれから懐に手を差し込んだ。男は一瞬体を強張らせたが、東眞が取りだしたものに全身の力を抜く。取りだした裁縫キットとカフスを東眞は同時に差し出して、男の糸がほつれている所を指差した。そして手のひらを上にして男の前に差し出す。男は東眞の行動にきょとんとしていたので、東眞は男のスーツを今度は指差してもう一度手を差し出す。それから手にしていた裁縫キットを軽く開いて中身を見せて、目的を教える。僅かに男はスーツを脱ぐのを躊躇っていたが、最終的には脱いで東眞にそれを手渡した。針に糸を通してぷちんと口で切り、東眞は器用にカフスボタンをすいすいと縫いつけた。そしてタマドメを施して、ぷつんと糸を切った。カフスがしっかりとついているかどうか確認をしてから東眞はスーツを男に差し出した。
「どうぞ」
「あ、ありがとう」
 そこで日本語が返ってきたので、東眞は目を見開く。東眞の驚いた顔を見て、男はスーツに袖を通しながら、話せると答えた。そして、こほんと咳をしてから、助かったと続けた。
「日本語は話せる。習った。ありがとう」
「どういたしまして。お役に立てたなら幸いです」
 ふわりと微笑んで東眞は下に置いていたパンの袋をよいしょと持ち上げて、それではと頭を下げて男の隣を通り過ぎる。男は慌ててその背中に声をかけた。
「君、名前は?!」
 その呼びかけに東眞は足を止めてから振り返って、その質問に答える。
「東眞です。桧東眞」
「俺はデュリオ・チェガーニ!この礼はいつか!」
 構いませんよ、と東眞は手を振ったが男はまた、と言ってその場から走り去った。そして軽い足取りで走って行く男の背中に東眞は背を向けてパンの暖かさに目元を緩めて歩きはじめた。

 

「ただ今帰りました」
 ぎっと扉を肩で押し開けながら東眞は声をかける。するときらきらの眩しいほどの金色の髪が目の前に飛び込んだ。パンが潰れると東眞は咄嗟に体を反転させてそれを防いだ。代わりに背中にどすんと体が乗る。
 少しばかり身長が高いので、XANXUSのようにのしかかってくるよりかは楽なのだが、やはり体重は結構来る。足でどうにか踏ん張って東眞は突進してきた少年の名前を呼んだ。
「ベル」
「それ、今日のディナー?」
 ねぇねぇとベルフェゴールは東眞にしっかりと抱きついて尋ねる。東眞はそうですよ、と頷いた。
「今日はシチューにしようかなと思ってるんです」
「シチュー?ホワイト?ビーフ?」
「ホワイトシチューです。修矢が大好物だったんですよ」
「…ふーん」
 修矢、の名前にベルフェゴールはワントーン声を落としたが、まぁいいかと言った様子で東眞から手を離した。取敢えず、パンを置いて下ごしらえをしようと東眞は台所に足を向けた。しかしそこに声がかかる。
「東眞ー!」
「ルッスーリア」
「あらあらそんな沢山買い込んじゃって」
 持ってあげる、とルッスーリアはひょいと東眞の腕の中からパンの袋を持ち上げる。一気に軽くなった腕に東眞はふぅと息をついて、ありがとうと礼を述べる。ルッスーリアはそれにどういたしまして、と返した。そして思いだしたようにくすすと口元に手を添えて笑う。それに一体どうしたのだろうと思って、東眞はどうかしたんですか、と問うた。
「ボスが呼んでたわよ。パンはあたしが持ってってあげるから、ボスの所に行ってちょうだいっ」
「でも」
「いいわよ!ほらほら!」
 自分で持って行きます、と言いかけた東眞の背中をルッスーリアは押した。しかし、まだ躊躇いがちな東眞に、ほら行ってあげてちょうだい!と声を放って押し出した。東眞はもう一度礼を言ってその場を離れる。
 少し後ろ髪をひかれつつも、長く広い回廊を東眞は少し駆け足で通り抜けて行く。XANXUSが自分を呼び出すときは、たいていそんなに大した用事でない時が多い。否、全く大した用事ではない。ただ東眞はそう言った大したことのない用事でも関わりを持てるのを嬉しくまた喜ばしく思っている。小さな幸せ。
 息をついて東眞はようやく足を止めて、大きな扉をノックする。
「XANXUSさん、いらっしゃいますか」
「入れ」
 声をかければ、扉を挟んで少しばかりくぐもった声がその板を震わせて届く。お邪魔します、一言断ってから東眞は片側の扉を押しあけて中に足を踏み入れた。
 正面に見える大きな窓ガラスから差し込む光はだんだんとオレンジに染まって来ている。そしてそのガラスの前にある机。椅子。椅子に座っているのは一人の男。そしてその男はいつものように机に足を放り投げていた。書類は机の端によけられて、氷の浮かんだグラスが置かれていた。
 視線だけでXANXUSは東眞に来いと告げる。自然な動作で東眞は何ですか、と取敢えず尋ねながらそちらに向かって、そして足を止める。XANXUSが何かを言おうと口を開こうとしたその瞬間、扉の向こうから絹を引き裂くような悲鳴がとどろいた。東眞はぎょっとして、一体全体何事だろうかと扉に振り返る。どう考えてもあれはルッスーリアの悲鳴である。台所に向かっていたから、そこで何かがあったのだろう。東眞は慌てて、XANXUSに背を向ける。
「すみません、様子を見てきます」
 尋常でない悲鳴であったから、気が気ではない。
 取っ手に手をかけて東眞はそれを引く。が、開かない。たてつけでも悪いのだろうかと思いつつ、もう一度引く。が、開かない。東眞は不思議に思って、XANXUSの方を振り返った。が、すぐ近くには大きな影がかかっている。少し顔を上げれば、一体いつ動いたのか巨体がかぶさるようにして立っていた。
 体で作られた檻に東眞は取っ手を引くのを止める。この手で押されていれば、引いても開くことはない。しかし気持ちははやるばかりである。
「あの」
 手を、と東眞はXANXUSにそう告げようとしたが、続きの言葉は短い声に潰された。その言葉を飲むのに東眞は少しばかり長めの時間を要した。
「…」
「名前を書け」
 返事のない東眞にXANXUSはもう一度繰り返した。突然名前を書けと言われても東眞は全く理解できない。肩越しに振り返っている状態で、そんなことを言われても困る。非常に困る。言葉は理解できても、その理由が分からない。少し視線をずらせば、扉に押し付けられているその手には白い紙が握られている。
 XANXUSはその視線に気付いたのか、東眞にその用紙を渡す。東眞はそれを受け取り目を通す。が、御丁寧に全てイタリア語で書かれているために一体何が書かれているのか分からない。今までの生活上、自分が理解していない文章に迂闊にサインはしないようにしている。いくら相手が自分の知って信頼している人間であっても、サインと言うのは非常に重要なものであるから、簡単には頷けない。
「で、できません…」
 東眞は一瞬躊躇った後にそう告げた。
「書くまでは出さねぇ」
 一体どこの悪徳商法か分からないサインのせまり方である。しかも非常に真剣な目で言っているのだから、何かしら大切なことではあるのだろうが、説明がないと全く分からない。
「あ
「書け」
 書けるわけがない。
「すみません…」
「…」
 嫌な無言が二人の間に詰まってしまう。
 本気でXANXUSがサインをするまでここから出さないつもりなのを感じ取り、東眞はひやりと背中に冷たいものを感じる。説明を求めようとしたのに、あっさりと命令で潰されてしまった。これではどうしようもない。そこに東眞はふと随分前にスクアーロと交わした言葉を思い出す。必ず首は縦に振れ、との。けれども人には当然人それぞれの考え方があるわけだし、それを尊重する関係になりたいと東眞は思っている。なので、XANXUSの言うことなすことに全て二つ返事で首を縦に振るわけにもいかない。
 どちらも言葉を発さない沈黙だけが空気を沈めていった。それを先に崩したのは東眞だった。もう一度説明を求めてみる。
「これはどういった文面なのですか?」
 押しつけられた書類を東眞はXANXUSに見せる。読めないんです、と付け加えてみる。
「てめぇは黙って頷きゃいい」
 そういう問題ではないのだ。全く繋がらない会話に打つ手がない。
「XANXUSさんはご存知かもしれませんが、サインは本当に大きな意味を持つんです。書類世界である日本では余計に、です。万事口約束よりもそちらの方が重きを置かれています」
 だから説明してください、と言外に意味を含ませて東眞は再度無謀にも試みる。返事はない。強い瞳で書け、と要求している。そんな頑なな態度であれば、こちらとてサインをするわけにもいかない。
「…できません。嫌です」
 XANXUSのことは信頼も信用もしている。けれども、決断は自分でする。決定権は彼が持っていても決断だけは己の権利だ。
 東眞の強い視線を受けてXANXUSはむっと顔を顰める。
「説明がそんなに必要か」
「必要です。私はXANXUSさんのことを信じていますが…私はあなたの部下でも人形でもありません」
 ごくりと東眞は唾をのむ。XANXUSの恐ろしさ、というのは日本での一件で身にしみるほど理解している。当てつけられた怒りという名の暴威。しかしそれを再度目の前にしても、自分の矜持は譲れない。
 東眞の視線を受けてXANXUSは一言、教えた。その一言に東眞はぱちくりと瞬きをする。今の一言は一体何だったのだろうかと、脳内で反芻する。そして確認のために自身でも繰り返してみた。
「―――――――あの、こ、婚約…ですか…?」
「文句あるか」
 ないよな書け、とその後には無言だがそう続いているように思えた。説明はしたとの目に東眞は混乱をきたしている頭を押える。そして頭を軽く振って、ゆっくりと整理をしながら答えた。
「少し…待っていただけませんか」
「あぁ?」
「いえ、断るつもりはありません。ただ、修矢の答えも…その、一応聞いておきたいです」
 家族ですから、と続けた東眞にXANXUSは不機嫌そうに眉間に皺を寄せた。東眞は慌てて付け加える。
「勝手に全部決めたら、本気で怒りそうなので」
「…ふん」
 す、とXANXUSは扉か手を離し、檻を崩した。そして東眞に背を向けて椅子に座り直す。ぎ、と鈍い音がした。
「三日だ――――――――…行け」
 そう短く告げてXANXUSは東眞から視線を外した。東眞はその答えに、すみませんと有難う御座いますの謝罪と感謝の意を述べた。それにXANXUSは何も返事をしなかった。
きぃと扉が開けられ、それから閉められた音が部屋に響いた。完全に人の気配が断たれてXANXUSは、思い出したように引出しを引いた。そこに入っているのは小さな小箱。
「…」
 渡し損ねた事実がそこに転がっていた。