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 車は走るが、車内は嫌というほどに無言である。哲は車を運転しながらちらちらと助手席に座っている修矢の方を確認する。その視線に気づいたのか、修矢は多少申し訳なさそうに口を開く。
「もう大丈夫だ。心配すんな」
「…」
「な、何だよ、その疑り深い目は!」
 サングラスの下から修矢を見る目にたじたじとなりながら、修矢は言い返す。しかし哲はそうですか、と返してアクセルを踏んだ。  東眞はまた眠ってしまっているXANXUSを横目に見て、本当に尊敬した。
「本当によく寝ますね…寝る子は育つといいますけど」
「それ以上育ってどうすんだぁ。巨人になっちまうぞぉ」
「…そ、そういうものですか」
「そういうもんだぁ」
 自信満々に言うスクアーロに東眞は何とも言えない曖昧な返事をして誤魔化す。どう考えても巨人にはならないと思うが、何故だか彼がそれを盲目に信じているような気がする。
 そこでスクアーロははっとXANXUSの方を警戒した。どうやらまたの暴力を想定したらしいが、しっかり眠っているようで今回は耳に届かなかったようだ。それにスクアーロはほっと息を吐く。それならどうしてそういう発言をするのか不思議なところだが、それが彼なのだろうと東眞は一人納得した。
 そうこう考えているうちに、きっと車が止まる。
「到着しました。時刻は間に合いそうですか?」
「だいじょーぶよぉ。もう心配しないでチョーダイ」
 うふと小指を立てながらルッスーリアは哲に返事をする。それに哲は僅かに口元を引きつらせて、そうですかとやはり当たり障りのない返答をした。哲は先に降りて後部座席の扉を前、後という順番で開く。流石に手を差し出すのは躊躇ったのか、そのままの姿勢で待つ。
 ルッスーリアとベルフェゴールはひょいとおり、スクアーロ、東眞も後部座席から降りる。が、XANXUSは停車で目をあけたものの、動く気配がない。どうやら寝ぼけているようだった。スクアーロが痺れを切らして怒鳴るようにして声をかける。
「う゛お゛おぉい!下りろぉ、着いたぞぉ」
「るせぇよ…」
 ちっと舌打ちをしてXANXUSは後部座席から降りる。下りざまにスクアーロの頭を鷲掴み、そして車に頭を激突させる。毎回の展開に驚く者はもう誰もいない。
 ジェット機なので、飛行場から直接乗る形になっている。一行は飛行場のコンクリートの上をかつかつと歩く。他愛のない会話をしながら。暫くも歩けば、すでに離陸準備を整えたジェット機が階段を下ろして待っていた。
 黒いコートが風にはためき、音を激しく立てている。東眞はXANXUSの少し後ろを歩きながら、その音をじっと聞いていた。

 

 一番初めの出会いは眼鏡を落としたことだった。大切な大切な眼鏡をなくしたことだった。二番目の出会いはあげたはずのマフラーを返しに来てくれたことだった。三番目の出会いは窓のない暗い部屋に手をのばしてくれたことだった。二番目から三番目の出会いの中に、とても素敵な思い出をつくってくれた。
 彼はとても我儘で傲慢でけれどもとても子供っぽいところもあって寡黙で乱暴者で。それでもその綺麗な赤い静かで深いところで煌々と燃えている瞳に吸い寄せられた。振り回された、そう表現するのかもしれない。それか望んで振り回された、そう表現するのもいいのかもしれない。
 どちらにせよ、自分は彼に不思議な感情を抱いている。尊敬思慕、それとも恋情。あの一言が、赤い瞳の一言が耳にしっかりとこびりついている。

 大空は、彼だ。

 私の空を彼は彼だと言い、私にその空で飛べと目で言った。彼の言葉が果たして冗談なのかそれとも真実なのかどうなのか、区別はちっともつかない。ただ、その時にあの時において私は彼の魅せた大空に焦がれた。
 尤も彼が今まで自分に与えた言葉が冗談であろうがなかろうが、今ここでの答えは―――――唯一つである。
「おい」
 ジェット機の前でXANXUSは立ち止まり、当然のように東眞に呼びかけた。そしてポケットの中に手を突っ込んで、東眞にそれを差し出す。東眞はその手に自分の手を差し出した。XANXUSは手の中のものを東眞の手の内の落した。
「…これは」
「かけていろ。てめぇはいつでもそれを見せに来れるだろうが」
 それは眼鏡だった。東眞が母の墓の前に置いて来たはずの、それだった。XANXUSの言葉の意味を東眞は理解してはっと顔をあげた。赤い瞳が、やはりこちらを見ていた。
「――――はい」
 東眞は眼鏡をかけ直して、ゆっくりと微笑んだ。やさしく、やわらかく。その笑顔にXANXUSは告げた。来い、と。
 一歩、東眞は踏み出して止まる。静かに、口を開く。スクアーロは勿論、ルッスーリア、ベルフェゴールも答えは一つしかないと考えていた。
 長い黒髪が吹きつける風に揺れていた。東眞は髪をかきあげて、XANXUSの瞳をしっかりと見た。
「ショッピングモール、また付き合ってくださいますか」
「手が空いたらな」
「お菓子、一緒に作ってくれますか」
「気が向いたらな」
「母の墓参りに、行ってくれますか」
「付き添いはしねぇ」
 それもそうです、と東眞は笑った。そしてXANXUSはくると踵を返した。否、返そうとした。
 次の言葉に、動きを止める。

「イタリアまた行きますから、その時に」

 スクアーロたちはその言葉に目を見開く。東眞はついて来て、連れて行って当然だと思っていた。それが、この言葉。
 東眞は動きを止めて、僅かな驚きをもって見つめてくる瞳をまっすぐに受け止める。
「大学を卒業したいんです。私は私の生活をこんな中途半端なところで捨てたくはありません。大学を卒業したらお金を貯めて、それからイタリアにまた遊びに行きます」
 だから、と東眞はXANXUSに手を差し出した。
「本当に、有難う御座いました」
 周囲はその光景を焦りを含ませながら眺める。とりわけ、スクアーロたちに至っては東眞が殺されるか否かの所である。
 XANXUSという男は、所謂そう言う男なのであった。気に喰わないものは潰す、意志にそぐわないものは殺す、言うことを聞かないものは焼き尽くす。いくら東眞を気に入っている(ように見えた)とはいえども、殺されるだろうと目を細める。
 XANXUSは東眞の差し出した手を握り返そうとはしなかった。
 スクアーロたちはすっと目を閉じる。これから起こるであろう、赤い血の海に。
 けれども、XANXUSの手は東眞の胸倉を掴んだ。そして、強く、強く強く引き寄せる。
「あ」
 東眞の体勢が崩れて、とんとんと地面を踏んでXANXUSの傍に寄る。そして、視線が交わった。赤い瞳と黒い瞳が嘘のように近くにある。
 噛みつかれた。口付けというには荒々しい。ぽかんと呆気にとられて開いていた口に熱い舌が差し込まれ、口内を蹂躙する。
「――――っ、ふ…」
「あ、て」
 修矢の震える声でスクアーロたちは目を開き、そしてその光景を目の当たりにする。
 信じられない光景に瞬きを繰り返す。俗に言う、キス。口付け。接吻。
 一体どれくらいの時間がたったのだろうか。短かったのか、それでもそれは異様に長い時間に感じられた。XANXUSは少しだけ距離を置いて、東眞を見下ろす。驚きで、まぁるく大きく見開かれた瞳。く、とXANXUSは小さく口元に笑みを刻んだ。勝ち誇った、笑み。耳元に口を添えて小さな一言を残す。それから胸倉を掴んでいた手を放して、踵を返した。コートがざらざらと揺れていた。
「卒業式だ」
「?」
 肩越しに向けられた瞳に東眞はぽかんとしたまま、上手い言葉を返せない。XANXUSは階段前で足を止めて、告げた。

「卒業式に迎えに来てやる――――――――――首を洗って、待っておけ」

 そして返事を聞かずにその階段を上がり、ジェット機の中に消えた。
 スクアーロたちはその言葉を聞いて、ふと思う。それは少し意味が違うんじゃぁ、と。
「男が惚れてる女に言う言葉じゃないわよねぇ」
「使いどころが違うんじゃねぇかぁ」
「ボスかっきー…」
 そうぼんやりとしていると階段が上がりだして、三人は慌てて駆けだす。
「また会いましょーねっ、東眞!」
「またなぁ!!」
「王子にサヨナラの言葉はいらないっしょ」
 あっという間にしまわれつつあるジェット機の階段を駆けのぼり、三人の姿は機内に消えた。窓から手を振っているのが分かって、東眞は手を振り返す。
 危ないので、いくらか下がって飛行機の離陸を見送る。飛んで行って空に消えてしまった飛行機を眺めながら、東眞は唇に触れる。一体先程のは何だったのだろうかと。
 隣では修矢が怒りでわなわなと体を震わせていた。
「…っくそ…あの野郎…次、次会あったらただじゃすまさねぇ…っ」
「…ファーストキス、だったんだけどなぁ…」
 そう言えば、と東眞はぼんやりという。未だ衝撃が強すぎて、うまく考えを整理できていない。ぽけとしている東眞に哲がふと尋ねた。
「そう言えば、先程何か言われておられましたが、何を?」
「え、えーと、セイミアです」
「せいみあ?…刺身屋とでも言いたかったのでしょうか」
「そう言えば、鱈美味しそうに食べてましたよね」
 刺身は食べたことがないんでしょうか、とにこにこと東眞はテンポを取り戻して微笑む。一方修矢と言えば、姉貴の唇が、と拳を痛いほどに握りしめている。 東眞はその肩をぽんと叩く。顔の上がった義弟に微笑みかけた。
「帰ろうか」
そう笑顔で言われて、修矢は何だかそれでもういいような気になって、笑ってそれに頷いた。

 

 どうせ伝わりもしない言葉を言ったものだ、とXANXUSは頬杖を突きながら考える。だがどうせ伝わろうが伝わらまいが、それは関係がない。
 騒がしい機内の中で、グラスにテキーラを注いで氷を鳴らす。喉に流して、ちらりと窓の外を見下ろした。下に見えるのは雲ばかり、上に見えるのは空ばかり。

「Sei mia(てめぇは俺のもんだ)」

グラスを揺らせば、氷がかちんと音を立てて溶けた。