劇場にて - 3/3

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 物語も中盤に差し掛かり、豪華絢爛なシャンデリアを伴う劇場のボックス席、特等席であるそこで鑑賞をしていたクロコダイルは、大口を叩いていたミトを横目で見た。そして、案の定と言うべきか、うつらうつらと舟を漕いでいる姿を確認し、それ見たことかと薄笑いを浮かべた。断続的なリズムを取り、女の頭は退屈な子守歌に任せて揺れて動く。次第に下がっていく頭部はとうとう動きを止めた。
 どんなに高評価されている劇もこの女の手にかかれば、子供の演劇と大差はなかったようである。しかしそれは、十分に想定内であり、クロコダイルは目蓋を落とし、穏やかな寝息を立てているミトの頭を指先で突いて戻す。垂れそうになった涎を、女は半開きの目で拭い取ると、慌てて舞台へと視線をやるが、やはり眠いようで、瞼はすぐに落ちそうになる。クロコダイルはククと笑い声を零しながら、ミトの眠気を覚ます意も含めて言葉をかけた。勿論、劇の妨げになるような声量で話すことはしない。厚めの濃い赤のカーテンの金の紐が床へと垂れ下がっている。問い掛けた言葉は、この場においては悲しくなる程には、一般的なものであった。
「ご感想は?」
「開始五分で寝た人間に対する皮肉か、それ」
「ああ、そうだな」
 そんなもんだ、とクロコダイルは随分と灰になってしまった葉巻を灰皿に置くと、新しい葉巻を取出し咥え、火をつけて煙を吸い込む。細く長く、吸い込んだだけの煙を吐き出した。
「面白かったのか?」
「まだ終わってない」
「クッ…クハ、何も見ちゃいネェ奴が一体何言ってやがる。もう終わったようなもんだろうが」
「開始五分で?」
「開始五分で」
 からかう響きを含んだ会話の投げ返しに、ミトは多少不満げに口を曲げたが、寝てしまったのは自身なので反論もできずに押し黙る。一度はその後、反論しようと口を開けたが、上手い言葉が見つからずにまた閉じた。
 そんな沈黙に、クロコダイルは尚も楽しげに言葉を乗せたが、ミトはそれに少し悩んで答えた。
「そんなに退屈だったか」
「…別に、そこまで言うほどつまらなかったわけじゃない。ただ、私には合わなかっただけの話だ。ここの、歌は陸のニオイだ」
「海が恋しい、か。四六時中いる癖に、まだあの水溜りがいいのか。理解に苦しむな」
「水溜り、に、お前には見えるのか?」
 あの広大な海が。
 ミトは目を開け、視線は舞台へ、しかしその見るところは全く別のものを映してそう呟いた。尤も、クロコダイルのその表現が、ただの嫌味に近いそれであることには本人も重々理解していたので、取り立てて憤慨もせず、ただ呟くにとどめる。
 言葉を静かに止めてしまったミトに、クロコダイルは手を伸ばすとその頭をまた小突く。軽く握られた拳で突かれた頭は、殴られた方向へと僅かに傾いた。視線が移り、自分を映したことを確認すると、クロコダイルは視線を同様に部隊へと戻し、葉巻を吹かせる。白煙は一様に彩られた天井にて四散する。
「正直を言うと、詰まらない」
「そうか」
「海に、今度行かないか」
「てめぇがおれを突き落さなけりゃな。考えてやってもいい」
「気持ちがいいのに」
「少なくとも、泳げネェ奴に仕掛けることじゃねえってのは、お前もいい加減に学んだらどうだ。頭蓋骨に詰まっている海水に浸る脳味噌に、少しは学習能力機能をつけろ」
「溺れるのだって」
 ミトは一拍間を持たせ、そして驚くほどに柔らかい声と目で、続けた。
「たまらない」
 見たことがないのか、とミトは続ける。
「海の中から見上げた水面は、まるで宝石の原みたいだ。…ロジャーはラフテルにこの世の全てを置いてきたと言ったが、どうだろう。私にとっては、いや、海賊にとっての全ては、この広大な海であり母だろう。海があれば、海に、あれれば、私は他に、何も欲しくなかった」
 最後の過去形にクロコダイルは目を細め、しかしそれを追及はせずに煙を一吐きした。そう、とミトは眉を軽く寄せた。
「なにも、いらなかったんだ。何も、な」
「…贅沢になったもんだな、てめえも」
「も?お前もか」
「そうだな。人間ってのは、欲望の塊じゃねえか。やりてェことをやりたいようにやる。そのためなら、手段すら問わねえ」
 ミトの問いかけにクロコダイルは軽く葉巻を噛んで答えた。男の言葉を、女はありのままに受け止めた。そして、拳を作ったその手で、ワイシャツに落ち着いている男の肩をそっと触れるように殴る。
「お前がそうあるなら、私もまたそうあるだけだ。覚悟は、しておけよ」
「…てめえになんざ、おれは一生捕られねえよ。その足りない頭をちったぁ詰めてかかってこい」
「真面目な話だ、クロコダイル」
 体を椅子から僅かばかり乗り出し、視線を真っ直ぐにぶつけてきたミトにクロコダイルは瞳を寄せた。首を軽く傾ける。紅の乗っていない唇が動く。
「お前という海賊を、他の誰にも捕えさせたくない。捕まえるなら、」
 私が捕まえる。
 告白にすら聞こえる言葉である。クロコダイルは表情を変えず、ミトの顔に煙を吹き付けた。そして顔を舞台へと戻し、百年早えと葉巻を咥えた口で呟く。本気で言われた言葉を煙に巻いたことに、クロコダイルは多少の居心地の悪さを感じたが、隣の女の眩暈がする程に真っ直ぐな言葉はいつも心臓に悪い。本気で言っているんだ、と隣で不機嫌そうにぼやく声は耳に届いたが、そんなことは百も承知である。で、あるからこそ、このようにむず痒い。
 思う。この女にであれば、自分の腕に海楼石を嵌めることを許しても構わないと。無論言うまでもなく、それは戦い敗北を期した時にのみ、許される行為ではある。完璧に引かれた青写真がミトに崩せるとはクロコダイルは欠片も思ってはいないものの、そのような心持は多少は持ち合わせていた。
 クロコダイルは心情を誤魔化すように、会話に軽口を混ぜる。
「返り討ちに遭わねぇようにな」
「そっちもな」
「てめぇなんざ片腕で事足りる」
「お前既に片腕じゃないか」
「揚げ足を取るんじゃねえよ」
 丁度それを言い終わると同時に幕が下りていく。最後の一番いいところを見逃したことに気付き、クロコダイルは難しい顔をしたが、欠伸をしながら立ち上がったミトを見れば、何故だかもうどうでもいいような気がした。
 閉塞的な空間に閉じ込められるのは、思えば好みではない。夜の海も悪くない。
「おい」
「んん?」
 海に行くか、男はそう問うた。それに女は、応えた。