劇場にて - 1/3

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 豪奢な装飾に覆われた指輪をはめた指が、長方形の紙片を二枚、揃えて女の方へと差し出していた。その行動は男にとっても女にとっても他意はなく、それ故に、紙を二枚、正しくはチケットを二枚差し出された女は差し出されたチケット二枚が何であるかを、広げていた新聞から視線を挙げて問うた。その声は、好奇心と呼ぶにはいささか足りず、無関心と呼ぶにも相応しいものではなかった。
 男は居住まいを直し、チケットの詳細を尋ねた女に答えてやる。
「ミュージカル」
「はあ」
 成程。だからそれで、と素っ気ない答えが返されるものの、それは常日頃のことであるので、男は臍を曲げることをせず、そして女は声を荒げることをせず、二人の会話はただ穏やかに進むばかりである。
 男は人差し指と親指で挟んだチケットを風の抵抗で泳がせながら、女の求めてきた疑問を解消すべく、最も適当な答えを返した。余ったのだ、と。つややかな黒髪を撫でつける。
「取引先から二枚、送られてきたんだが。一枚余った」
「引く手数多だろうに」
 お前ならと付け加え、女は新聞を畳みながら、肩を揺らして豪快に笑う。しかし、男はそれもそうだがと女の言を否定することはせず、薄く笑って見せた。
「きゃんきゃん喚く女と一緒には行きたかねえな。暇か?」
「いつ?」
「今日の晩」
「空いてる」
 とんとん拍子に予定がスケジュール帳に記載されることなく埋め立てられていく。そのまま、そうかと男が頷き、女が腰を上げるかと思いきや、しかし女は新聞を膝の上で軽く叩き、そうだがなと渋面を作った。片眉が持ち上げられる。
「何だ」
 今度は男の方が問うた。それに女は、一度膝を叩いた新聞を机の上に滑らせた。いくらか滑って、摩擦で止まる。
「ミュージカルにはとんと縁がない」
「期待なんざしちゃいない。てめえの頭が理解できる文化とも到底思えねえ」
 通常、女に言えば、頬を一つ二つ張られる程度のことを軽く述べながら、男は片肘をつき、咥えていた葉巻の煙をくゆらせた。たなびき、それは天井に薄く溜まると、すぐに拡散してしまった。灰を落とさず、男は葉巻を味わう。
 女は葉巻を吹かせている男に、まずは意見を申し立てた。不服そうな色はあからさまであった。
「演目くらいは分かるさ」
「どうせてめぇは二言目には、歌は海賊の歌が一番だとか何だとかぬかしやがって、まともな歌も聞いたこたぁねえだろうが」
 男がそう言うと、女は男の口から葉巻を掻っ攫い、太めのそれをがっつりと咥えた。葉巻の香りは好みでも、吸うのはあまり得手とはせず、女は最初数度咳き込んだ。煙を味わうように含み、細い煙を男の顔に彫り込まれている傷の溝を滑らせるように吹き付ける。そして男は眉間に二三本、皺を寄せる。
 時計の針が時刻を打つ。女は葉巻を咥えたまま、両の口端を軽く上へと持ち上げた。笑う。
「失礼な奴だ。音楽に疎いわけじゃあないんだぞ」
「野郎が肩組んでの合唱、の話じゃねえんだがな」
「上手いか下手かくらいは私だって聞き分けられるさ。それに、本当に素晴らしい歌なら感動もするだろう。な?」
「それで」
 もう一度、男は手にしていたチケットを小さな動きで波打たせた。女はチケットへと、そして男へと視線を移し、それからようやく男の指が挟んでいるチケットを一枚手に取った。
「行くよ」
 太めの、女の、女にしては大きなそれだが、その口でもいささか合わない葉巻を男は奪い返し、中毒者のように吸った。それを見た女は、からからと声を立てて笑う。明るく笑った女へと男はその笑みの理由を問うた。なになにと女は、膝を叩いて男の質問に答える。
「葉巻がないお前は何か物足りないなと思っただけだよ」
「そりゃあれか、お前はおれを葉巻の有無で確認してんのか」
「かもしれん」
「結構なこった」
 軽口を叩き合う中で、女は男の指から取ったチケットを今度はしっかりと内容を読む。女の片眉が奇妙に下がったのを見逃さず、男はどうしたと口にする。女は視線を男へと戻し、抓んでいたチケットを指差した。
「何だ、観たことでもあったのか」
 お前が、と女が観ていたと仮定することは到底不可能であるとでも言わんばかりの口調で男は続けた。男の皮肉はいつものことなので、その部分は軽く聞き流し、質問された部分には本日中に起こった出来事を思い出して、渋面を浮かべた。女の表情に、男はある程度の想像を巡らせる。答えは一択か二択だが、どちらにせよあまり追求したくない回答では、少なくとも男にとっては、だったが、ではあった。
 葉巻の煙をゆっくりと吐き出し、男は報告を一寸面倒だと思ったであろう女の回答を待つ。ぽつり。と、話は切り出された。
「チケットは、見たことがある。誘われたんだ」
 暗に、断ったことを示唆している女に男は、小さく鼻を鳴らした。誰にと聞かずとも、正面に座る女を誘う人間など、男はたった一人しか知らない。勧めるのは二人であるが、誘うのは一人である。思い出すだけが頭痛がするような、もっと言えば眩暈がするようなけばけばしいどぎつい色をした桃色のコートが視界をちらつく。
 成程、男はそう返した。女はそれにそうなんだと返す。
「まあでも、お前が誘ってくれるなら」
「不安に思わなくても、おれかあいつ以外にてめえみたいな奴を誘う奇特な野郎はいねぇから安心しとけ」
 男の嘲笑を笑って女は受け応える。
「お前はならなんだ?私に持ってきたってことは、悉く断られたってことか?」
「馬鹿言え」
 尚も男は笑いながら、葉巻の煙を吹かした。
 これで、と女は新聞の上に肘をつき、チケットの広告になっている面をまじまじと眺める。そして、ありえる可能性は限りなく低く、しかし0ではない話を口にした。
「あの鳥野郎と対面したらある意味最悪だな」