死体 - 1/3

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 波立たない水に血を垂らしたような色である。
 ドフラミンゴは温度を持たない眼球を視界に収めながらそう思った。常日頃からそのように思ってはいた。口にする機会はとんとなかったものの、女の目を顔を見る度にドフラミンゴはそう思い感じていた。その目を見れば、荒野にすさぶ白骨死体でも垣間見たかのような、そんな印象に囚われ、そしてその都度心の臓が激しく揺さぶられた。平和平穏死んだように緩慢に流れる時間に堪え性のない男はその瞳が好きだった。刳り貫きたいほどには、好んでいた。確実に、絶対的に退屈を吹き飛ばす女をドフラミンゴは気に入っていたのである。正しくは、気に入っているのである。
 正義の二文字を刻んだコートが、革靴と固く冷たい床が叩き重ねるに合わせて風を纏い膨らみ揺れる。肌を擽る柔らかな羽毛を大きくし、ドフラミンゴはコートの二文字を追いかけた。長く、外に開きがちの足はコンパスの差から、あっという間にその背に追い付いた、ものの、コートを羽織る人間は男を完全に無視した。ひょっとすると、ドフラミンゴという男は幽霊か何か、それこそ科学的に目に映ることのない存在であるかのようにすら感じられる程の対応であった。この場合、意識に上らないということを考えれば、対応と表現するのにはいささか問題がある。対応ではなく、対応するという仮定にすら至らないのである。けれども、ドンキホーテ・ドフラミンゴという七武海の一席を占める男は確かに存在し、また死んでもいなかった。故に男は確かに女の視界に入る、仮に入らなかったとしても、大きすぎる体と微塵も隠そうとしない気配を海軍将校である女が気付かないはずもなかった。無論その仮定は、女の階級が見せかけのものでない場合にのみに成立する。そして、女はその実力でもって有無を言わさず海軍本部大佐の階級に座する人間であった。
 面白おかしく、ついついドフラミンゴは笑った。噛み合わせている歯の隙間から音がとんてんころりんと転がり落ちる。その笑いすら耳の鼓膜を叩かないよう、女は歩みを止めない。笑い声に基本メロディーを教えるように靴音が高く鳴る。
「海軍本部大佐、絶刀のミト」
 最初から最後までの正式名称でドフラミンゴは呼びかける。鬱陶しい。そう言わんばかりの視線がようやくドフラミンゴへと向けられた。
「鬱陶しい。消え失せろ」
 目で語り、口にもされた。余分なものを一つつけて。
 ドフラミンゴは歯の隙間から空気をこぼしつつ、あまりにもおかしくて腹を押さえて笑う。片腹痛いとはまさにこのことであろうか。腹筋を引き攣らせ、横隔膜を持ち上げることで肺内部の空気を排出して笑うという行為を男は成立させる。一度は振り向いた視線がすぐに進行方向へと引き戻され、女は大きめに足を踏み出した。尤も、大人と子供程の身長差がある状態でのそんな踏み出しは些細なものに過ぎない。あってもなくても同じものである。ドフラミンゴも同じだけ大きめに足を踏み出し、女の横に体をつける。猫背をさらに屈曲させ、女の顔を横から眺め見つつ、ドフラミンゴは他愛もない会話を口の中から転がした。始まりは、ナァ。話し掛ける言葉としては、男の中では十分に上等なものであった。そうでなければ、口を突く言葉と言えば、世間的にあまり褒められたものでないことが多い。ビジネスではそれを抜きにして。
 男のが話し掛けてきたことに、女は一度対応してしまったが故に残念ながら無視することは叶わなかった。ひどく億劫そうに、自身の横に立つ男を佞悪醜穢とでも思っているかのような視線を投げつけた。実際にこの女は自分のことをそれくらいに思っているのだろうとドフラミンゴは思う。しかしその反面、自分の容姿はそこまで貶められるべきものではないとドフラミンゴは同時に自負もしていた。清廉高雅とまでは言わないけれども。
「傷つく」
「パーソナルスペースというものをお前は知っているか」
「ああ、おれだけの専用スペース、ね。ありがてぇこった」
 パーソナルスペースとは。俗に他人に近づかれると不快に感じる距離であり、パーソナルエリアとも呼ばれる。それを承知の上で、ドフラミンゴは高慢にそう言い放った。男の言葉が信憑性皆無の事実であることは、女の表情から誰しも単純に見て取れる。女のパーソナルスペースは決して広いわけではないが、ドンキホーテ・ドフラミンゴという男に関しては視界に入るだけで不愉快になるという徹底ぶりであった。
 それが、ドフラミンゴにとっては堪えられない。愉快で堪らないのである。しかし拒絶されたり抵抗されたりするのは男の好むところではない。そういった抵抗は見ていて腹が立つ。言うことを聞かない様は、殴り捨ててやりたくなる衝動にすら駆られる。と言っても、ただ従順に首を垂れたYesmanほど退屈なものもない。抱くだけの女であれば、それで事足りるのであるが、手に入れることを前提にした場合は色々と難癖をつけたくなる。飼われるだけの女は駄目である。自分の言うことに愚盲に頷く女も受け付けない。判で押したような女も勿論煩わしいだけである。抱くだけの女は締まりがよくて、胸もデカくて、化粧がきつすぎるのは御免であるが、くびれた、煽情的なそれがよろしい。
 不快を露わに隣を歩く女を眺めながら、そんな考えをふつんふつんと沸騰しかけの泡のように次から次へとドフラミンゴは浮かべては割っていた。最後の気泡を割るかのように、ひときわ大きな靴音が叩き鳴らされ、女の足が突然止まった。血で濡らしたような瞳がサングラスの奥の瞳をねめつける。心臓を一突きにしそうなその眼光の鋭さにドフラミンゴはついつい口元を吊り上げた。たまらない。たまらない。体の芯が、乱暴に叩き起こされる。
「なンだよ、ミトちゃん」
「…お前が私に関連する案件を持つとは到底思えない」
「いや?あるぜ。聞きたいか?」
「そうだな、とっとと聞かせろ。一秒で解決してやるから、私の視界から消えろ」
「おれの女になれよ」
「断る」
 けんもほろろに女は返した。それがまた愉快で男は嘲り笑った。そして聞かれてもいないのに流暢に語りだす。
「気にならネェか?おれがどうしてお前がいいのか。お前に執拗に付きまとう理由は」
「そんな胸糞悪くなる回答を私は必要としない。聞こえたか?お前の女になんぞ、死んでもならん。私はお前が嫌いだ。生理的嫌悪にすら近い。今ここで、お前と同じ空気を共有していることすら、私には耐えがたい事実だ」
「…言ってくれンな」
「これ以上聞きたくなければ、巣に帰ることだ。お前の言うことを聞く女を侍らせて愉悦に浸っていろ」
「嫉妬、と、ぉ」
 ドフラミンゴの返答を待たずに歩き始めた女の背を男はひょいひょいと軽い足取りで追う。女はそれ以降男がいくら話し掛けたところで反応することは一切なかった。しまいには、女が存在しているのか、それとも男が存在していないのか、どちらなのかよく分からない構図が廊下に広がってしまった。女が男を無視し、存在しないものとして扱っているのか。あるいは、男が居もしない女に喜々として語りかけているのか、要するにただの独り言なのか。
 しかし、男はそんなことは一等気にせず、女に声をかけ続ける。他愛もないことから、思わず耳を塞ぎたくなるような卑猥な話まで。女は一言も発さず、まるで壊れた蓄音機でも回しているかのような男の言葉を右から左へと完全に流し、無視を決め込む。それをいいことに、男は構わず話し続けた。
「この間の女は最高だった。締め付け具合から、ナカの感じもたまんねぇな」
 ようやく目的地までたどり着いた女は閉められている扉、ドアノブに手をかけて押し開く。そして、それにさも当然のように同伴しようとした男の足が敷居を跨ぐ前に強烈に扉を閉めた。耳に痛い音が誰もいない部屋に響く。部下は皆パトロールに出ており、帰ってくるのは大体一時間程後である。女はそれを見越して後ろ手で内側から鍵をかけてしまった。大半の用事は電伝虫を経由されいるために、この部屋を訪れる人間とくれば、女の部隊に所属している人間か、もしくはクロコダイルくらいのものであった。
 低い音がドアを叩くが女はそれを聞かなかったことにする。煩わしい羽虫を部屋に入れることなどない。女はそう思い、結論付け、そして椅子に座ろうと机に手をかけようとした。しかし、それはドアを乱暴に叩く最中に響いた声によって、ほんの僅かな隙間を開けて止まる。
「ドア、壊されてぇか?」
 海軍本部ということもあり、各所の扉は随分と頑丈にできている。しかしそれでも、扉を叩く男にはそれが十分に可能な能力も腕力も備わっていることを女は知っていた。そうでなければ七武海の一角など担うことは叶わない。だが、一瞬は止めた手も女は刹那考え、机につけた。そして椅子を回して大層ゆっくりとした動作で腰を落ち着ける。右に積まれている書類を一枚に手に取った。扉を叩く音は酷くなるばかりである。本来であれば、耳栓の一つでも欲しくなる騒音であったが女はそれを全く気にしない。むしろ騒音に慣れきっている傾向が垣間見える。
 徹底的に無反応であれば相手も諦めると踏んでいたことが功を奏したのか、十枚目の書類を右から左へと移動した時に漸く騒音がぴたりと止んだ。ペンを滑らせていた手が一瞬止まり、そして息が一つ吐かれ、楽になったかのようにペンを再度滑らせ始めた。黒い文字が白い紙の上で踊りだす。しかし、その安息も刹那的なものであった。
「…ところでよぉ」
 扉を、今度は拳ではなく軽薄な声が叩く。女の眉間に縦皺が一本増える。軽い舌打ちがかまされたが、女は椅子に座ったまま手を止めることはなく、山積みにされている書類を片付ける作業を進めた。ドフラミンゴの口から語られる、面白味の欠片もない下世話な話を表情を一切動かずに無視する。
 しかし、男の話の欠片に出てきた名前に女は俊敏に反応した。手に持っていたペンが握力で圧し折られる。
「あのワニ野郎とは楽しい夜でも過ごしてんのか?」
 椅子を立ち、扉を開けるまで数秒とない。そして扉を開けた直後、ミトはドフラミンゴの胸座を掴みとり、拳を遠慮なくその頬にめり込ませた。あからさまな嫌悪と怒気を肌に感じ、ドフラミンゴは殴られた部分を手の甲でなぞり笑う。
「こいつは、逆鱗だったか?」
「黙れ、鳥野郎」
 どこか噛んでしまったのか、口の中には鉄錆の味が広がる。逆鱗の一言は分かって口にしたものの、こうもはっきりと態度に示されるといっそ腹立たしい。理不尽すぎる感情をドフラミンゴは腹の中に渦巻かせた。
 掴まれていた胸座を大きな手で掴み返す。男からしてみればまるで子供のように小さな体は簡単に足を宙にぶら下げた。目元にきつい皺を寄せつつ、ドフラミンゴは女との距離を縮め、吐いた息が交わされるほどに近くにまで接近した。フ、と吐き出すように笑う。
「ムキになるってのは、肯定か?」
「あいつの侮辱は、許さんぞ」
「はっ!侮辱?勘ぐっただけじゃネェか。そんなにワニ野郎が大事かよ」
「当然だ」
 女の手は、自身の胸ぐらを掴む男の一回りは違う手首にかかった。青筋が立ち、指先に一気に力が込められ、骨が軋む。爛、と鬼のように光った目にドフラミンゴは一寸、吸い込まれた。その瞬間を見計らったかのように、女は足を折り曲げるとそのまま靴底を男の胸の上、心臓にめり込ませた。露出されている肌に靴跡がへこむ。
 流石に渾身の一撃は入ったのか、ドフラミンゴはミトの掴んでいた胸ぐらを放した。女の両足が床へとしっかり落ち、たたらを踏んだ男へ、再度強烈な拳を体を曲げてがら空きになっている鳩尾へと深く叩き込んだ。普段笑みを刷いている男の口から唾液が、ほっと零れた。口内に澱んでいた血液と混じったそれは、僅かに赤色を見せていた。苦い顔をし、ドフラミンゴは手の甲でそれを拭い取った。
 それに追い打ちをかけるように、ミトは眦を吊り上げる。
「あいつを、侮辱するな」
「…そりゃ、あれか?てめぇとヤるってことは侮辱に値するって意味か?」
「私のような人間と、体を交わす程あいつは馬鹿でもないし愚かでもない。それに何より、あいつの品性を貶めるかのような発言だった。そんな男じゃない」
「なんだよ、そりゃァ」
 前半部分にドフラミンゴは肩を揺らして嗤う。顔が引き攣り軋む。頭を沸騰させていた笑える嫉妬が温度を下げた。ドフラミンゴのその表情の変化に気付いたのか、何がだとミトは顔を歪めた男に問うた。空気をかすめるような舌打ちが男の口から洩れる。
「おめェよぉ、」
「私にそんな価値がないと言った下りか」
「アア」
 同意した言葉に女は、殴り飛ばした拳を解いた。
「したい」
「あ?」
「…そういうことだ。気は済んだか」
「は?あ?おい、ちょっと待てよ。ワケが分からネェ。トチ狂ったか」
 ドフラミンゴの追及を軽く女はいなし、一度は跨いだ敷居を再度くぐる。男は廊下に、女は室内に。
「もう下らない会話も十分に済んだだろう。帰れ。お前と話すことなど何もない」
 制止をかける前に扉が音を立ててしまった。ドフラミンゴは強制的に打ち切られた会話と、そして互いの距離に目を瞬かせる。
 したい、したい。女の言葉が一体何の意味を持つのか、それは情事におけるそのような意味なのか、しかしあの女がとドフラミンゴは首を横に傾ける。いい年をした女であるが、そのようなニオイが一切ない。口さがない噂はよく耳にするものの、実際はそうでないことをドフラミンゴは知っていた。ただ、その噂の対象がクロコダイルであるということは全く面白くはなかったが、二人の関係を見ればそのような噂が流れるのも必然と考えられる。本人たちが気にしないために、それは助長し、膨れ上がっているきらいもあるだろう。否、本人たち、ではなくただ単にミトというあの女が気にしないためであるだろうか。噂の大半は女を貶めるためのものであって、クロコダイルという七武海の一角を軽視するような命知らずの真似をする連中はほとんどいない。いるはずも、ないだろうとドフラミンゴは見当をつける。海軍の人間もそこまで頭の働かない連中ではない。
 したい、肢体、慕い、姿態、詩体、四諦、支隊、死体。
 様々な文字に変換できる言葉であるが故に、ドフラミンゴにはどれが答えなのか見当もつかない。したい。どちらにせよ、もう閉ざされた扉の向こうを覗く気には、本日はこれ以上なれなかった。見つめ、視線を床に落とし、そして軽い溜息をついた。何故だか無性に気分が落ち込んでいた。