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「最悪だ」
盛大に舌打ちをしたミトの隣でクロコダイルはかぷりと呆れ返った表情で葉巻の煙をくゆらせた。そしてその正面で、爪がマニキュアで煌びやかに飾られた手を、ポケットに突っ込んでいる腕に絡めている女、を、同伴させている頭が二つ以上高い男が、鳩が豆鉄砲を食らったようにサングラスの下で目を瞬かせ、口をあんぐりと開けていた。
そんな表情の人間の口から零れるのは、えてして疑問であり、この場合もその例外ではなかった。
「おい、何でおめぇ」
ドフラミンゴの隣で胸と尻の主張が激しく髪の長い、一般的に見れば十分に美人の部類に入る、女は男の名を呼んだが、男はそれを意にも介さぬ様子で無視をした。ドフラミンゴにとっての優先事項は、隣の女を如何にベッドに連れて行くかという事柄よりも、眼前の女が何故男を伴ってこの劇場に訪れているかの理由を尋ねる方へと動いていた。
ミトはドフラミンゴへと向けていた不愉快極まりないと言わんばかりの視線を外し、クロコダイルの腕を軽く引っ張った。行こう、とその後に続けられる。断る理由もなく、クロコダイルはドフラミンゴの脇を通り過ぎようとした。が、しかし、半ば恥をかかされたような男は絡みついていた女を突き飛ばして、なあなあと高い上背を屈めて関心を引くように話しかける。後ろで女が泣きそうな声を上げていたが、ドフラミンゴにとってそれはもう過ぎたことだった。代わりに、男が興味を引きたい女の足が止まる。そして振り返り様に、侮蔑に彩られた瞳で睨みつけられた。開口一番何を言うのかと思えば、しかしミトが選択した行動はドフラミンゴの脇を再度通り抜けるといったものだった。意表を突かれたものの、ドフラミンゴは急いで視線を後ろに戻す。クロコダイルは何食わぬ顔をして、まるで女の行動は十分に想定内であるかのように、ただ葉巻をゆったりと吸い込み、そして吐き出した。一連の、クロコダイルの慣れた動作はドフラミンゴの癪に障り、口をへの字に曲げる。向こうへと追いやった視線の先では、女が倒れた女に手を差し出し、しかし弾かれて女はこちらを一つ睨んで行ってしまった。考えてみれば、感情的に見ても、何ら不思議のない行動である。
そして、クロコダイルの傍へとミトは戻り、すまんと一言待たせた分の謝罪をし、ドフラミンゴを、まるでいないものでも扱うかのように無視をした。それが気に食わず、ドフラミンゴは通り過ぎようとした腕を掴んだ。強めに握ったので、青痣の一つくらいはつくかもしれない。答えろよ、と命令する前にドフラミンゴが欲しがった答えをミトは蔑みの視線を向けながら口にした。
「誘われたからだ。ちなみに、お前の誘いを断ったのは、お前と行きたくなかったからだ。お前と話すことも、お前の顔を見ることも。全く、嫌で嫌でたまらん」
「…ムカツク野郎だ」
「お前にそう言われると心躍るな。鳥野郎」
「そーかよ」
「おい」
割り込んだクロコダイルの声に、ドフラミンゴは舌を打ち鳴らし、邪魔をするなとばかりに睨みつけたが、幾らか年嵩の男はその視線を受け流して、咥えていた葉巻を人差し指と中指で挟み、取り除く。そしてミトへと声をかけた。軽く曲げた指の節で腕時計を叩く。金でできた、主張ばかり激しい、しかしデザインも作りも十分に良い時計の文字盤の針の動きを見るように向けてやった。
低い声が、その場を離れるための単純明快な言葉を紡ぐ。
「開演時間だ」
「ああ、そうか。席は何処だったか?」
ボックス席だとミトの問いに答え、クロコダイルは葉巻を咥え直すと、ドフラミンゴへと女の腕を放すように視線だけでそれを告げた。言葉など、クロコダイルには必要なかったし、対するドフラミンゴもそれを言葉にしなければ理解できないような察しの悪い男でもなかった。
骨を折らんばかりに腕を一周していた手を放す。ミトは一払い、ドフラミンゴが触れた部分をする。その無礼千万な仕草にドフラミンゴは口角を引き攣らせたが、ミトはそんな男の表情の変化を気にすることは一切なかった。無神経で、尚且つ意地の悪ささえ彷彿とさせる女であったが、しかし対して、ドフラミンゴはそうでなければ、ある意味面白くないとも、そのように思えた。遠ざかっていく二つの足音を聞きながら、指先に未だ残る女の腕の感触を思い出す。海で鍛えられた、潮の香がする固い肌であった。
「あーフッフ」
思い通りにゃなんねぇもんだ。
しかしそれがまたよいのだと、ドフラミンゴは身に着ける羽毛を耳元でざわめかせた。
ポケットに突っ込んでいたために、くしゃくしゃになってしまったチケットを取出し、指先で引き裂き丸め、ごみ箱に放り捨てる。餌を待ち侘びていた無機質な物体は、男が放った食い物を旨そうに平らげた。胃袋の底にたどり着いたそれは、からりと乾いた音を立てる。全く旨そうに食いやがる。胃液の中にその言葉を放り込み、溶かした。爪先がついと持ち上がった靴で床を踏み叩く。全く面白くはないが、全くつまらないわけでもなく、サングラスのために、眼球を覆う水分を乾かさずに顔の横を通り過ぎていく風の、なんとも表現しようのない生温さにドフラミンゴは肩を揺らした。
いつかおれに向けた牙を全てへし折ってやる。
腹を小さく痙攣させながら、ドフラミンゴは背を震わせた。いつかやがてその時がやってきたとすれば、地面に這いつくばり、顔を手で覆った女が一体何をするのか、想像するといきり立ちそうである。牙を折れば爪で、爪を剥げば拳で、拳を砕けば、兎にも角にも女は抵抗するには事欠かない武器を持っている。そして、一つ一つそれらを奪っていったところで、最後に残るのは決して奪えぬ女の武器である。一般に言う涙ではない。そんなものは、自分と他者との間に何の意味ももたらさないことを、あの女はよく知っている。自分が「そういう」部類の人間でないことを、女は十分に、それこそ言葉など必要ないほどに知っていた。むしろ、己が女の涙に心を解きほぐす時が来るとするならば、それは自分の死ぬ時だとドフラミンゴは思っている。
折角予約した劇場の中を覗く気には到底なれず、チケットも細切れにして捨ててしまったので、ドフラミンゴは並び立つ石柱の合間を通り抜ける。顔を吹き付ける風は程好く涼しく、大きく開けられた胸元には心地よく吹き込んだ。羽毛が固められたようなコートが風を内側に孕み、その下を持ち上げる。ドフラミンゴは両手をポケットに突っ込んだ。短髪の隙間をすり抜け通る風の音に合わせて口笛を吹く。男の想像以上に柔らかな音は夜の闇にゆっくりと溶け込んでいった。
上手くいかないのは世の常である。今頃、二人して仲良く椅子に座り、演劇を鑑賞している光景を思い浮かべ、ドフラミンゴはその長い舌で上唇を一舐めする。そして同時に、黒色の男を思う。そこに、いつまで座っていられるのか、高みの見物をしていろと。余裕を見せているお前が悪いのだと、したり顔で桃のコートを纏った男は高らかに笑った。