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フォークにパスタを巻く。柔らかな色をしたクリームが皿に残る料理に丸く落ちた。口の中にパスタごとフォークを突っ込み、中途半端なアルデンテは口の中に僅かに残り、パスタを咀嚼する際に少々普段よりも力を使う。プロではない人間が作った料理であるから目をつむる、という行為をクロコダイルは好まず、行儀も悪くフォークを料理を作ったミトに軽く振った。
「何だこりゃ」
「鮭とほうれん草のクリームパスタ」
「そんなこたぁ見りゃ分かンだよ。何でパスタがこんな中途半端に固ェンだ」
「私が固い方が好きだから。アルデンテよりもちょっと固いくらいの方が噛み応えがあって美味しいと思うんだが。何だ?もっと柔らかい方が好みか?だったら、今度はお前が作れよ。私はちょっと固めでいつも茹でてるんだ」
「客人に飯作らせる主人がいるか」
フォークで皿を叩いたクロコダイルにミトは顔を顰めて見せ、お前は客じゃないとむすくれた。くるくると器用にパスタを多くとり、残り半分ほどのパスタを三口で平らげてしまう。最後のクリームは添えておいたパンにつけて口に放り込み、完食する。顎を上下に動かし、量の指で十分に足りるほどしか咀嚼せず、あっという間に嚥下してしまったミトに、クロコダイルはフォークを振った。顔の前で軽く振られたそれは、まるで指揮棒でリズムを取っているようにも見える。
机に置かれていた赤ワインをグラスに並々と注ぎ、一気飲みする姿はそれが食後酒だとは到底思わせなかった。食前酒ともどう考えてもとれはしない。クロコダイルは臍をすっかり曲げてしまった女に頭を弱らせる。二杯目に取り掛かったミトを、溜息交じりにクロコダイルはその手からボトルを奪い取る。拭かれた机に赤い玉が転がった。
「おい」
「人の話を聞く前にがぶがぶ飲んでんじゃねぇよ」
「お前が食べるのが遅いのが悪いんだ」
「大体酒飲む気分じゃネェとか抜かしてたのはどこのどいつだ」
「急に飲みたくなったんだ」
返せとミトはクロコダイルの義手からボトルを颯爽と奪い取り、そしてボトルごとラッパ飲みをする。こうなるともはやグラスなど必要ない。そもそもこの女に酒を飲む際にグラスを要求することが間違っているのではないかと、ミトの常日頃を知っているクロコダイルは真剣にそう思った。色のついたボトルの中身、逆さまのラベルよりもラインが下へと移動する。男と異なりせり上がってはいない喉が液体を食道に通していく度に上下に動いた。
こぽん。と、最後までボトル内の液体がミトの胃袋へと消えた。しかし女の顔色はちとも変わらない。酒に弱すぎる女も滅法困りものだが、反対に酒に強すぎる女というのも可愛げがない。クロコダイルは眼前の女に、もとよりそんなことを望んではいなかった。望む方が筋違いであることを、よくよく知っている。浴びるように酒を飲み、酒というよりももはや水のような扱いで酒を胃に零していく。こうも酒好きならば、将来的にたたるものでもあるのではないかと疑いたくもなる。肝臓が悲鳴を上げるまでのカウントダウンは今から取った方がよいのかどうか。悩むところだろう。
机にワインボトルの底が落とされた。
「飲みたくなったんだ」
眉間に寄せられている皺はきつい。先程の言葉とは別の意味をそれが持つことにクロコダイルはすぐに気付く。どちらにせよ分かりやすい女である。反対に女もすぐにクロコダイルの視線に気付き、気まずげに視線を逸らす。すまん、と空になったボトルの口を人差し指でなぞりつつ、ばつが悪そうに謝罪を口にした。クロコダイルは食べかけのパスタを横にずらし、一本は女が飲み切ってしまうことを承知で置かれていたもう一本のボトルを手に取る。ミトとは異なり、ワインはグラスに注がれた。内部の液体は内に空気を食べつつ、外にワインを零してく。ビロードのような液体は、丸いワイングラスの中を半分ほど満たしたところで止められた。
ワイングラスで中身をくるりと回しながら、クロコダイルはそれを舌の上でそっと転がした。悶絶するほどに不味くはないが、しかし感激するほどに美味くもないワインである。この女が買う酒とくれば大抵がラム酒か、海賊が好んで飲むような酒ばかりであって、お偉い方が飲むような上質なワインではない。本来であれば、グラスに入れて飲むのもあまり好きではないように思えた。それは、かつての彼女の生活に起因しているものである。海で愉快に酒宴を囲んでいた女の明るい笑顔を思い出しながら、クロコダイルはグラスに収めてしまったアルコールを眺め見た。ワイングラスの中に浸っている液体の中に、その過去が垣間見えたような気がしたが、所詮それは幻想に他ならない。そしてその時の顔を今の女で見ることは、今後一生叶わない事実をクロコダイルは承知していた。酒をラッパ飲みした女の目はいつもその奥に暗く澱んだ色を抱えている。それがなかったころの目は、こんな色であったろうかとクロコダイルはワインを揺らす。
ただ海を愛していた少女の目は、
グラスのワインを一気に飲み干し、中身を空にした。そしてミトがそうであったように、クロコダイルもボトルを掴んで逆さにする。乱暴に飲めばワインの味など到底わからない。ただ、体を酔わせるための液体に成り果てた。元より甲乙つけがたい味のそれも、このように飲めば、ただ体と心を浮き立たせるそれに変わる。何よりももっとも、酒の味を引き立たせるものが何であるか、クロコダイルは知りながらしかしそれに蓋をした。くだらない。
二本のワインボトルが絨毯の上に転がされる。ミトは空になったパスタの皿を眺め下しつつ、ソファに全体重を預けて四肢を放り出す。片付けは後ですればいい。
「すまん、クロコダイル」
「…言ったろうが、謝ってんじゃネェ」
クロコダイルの返事には答えず、ミトは繰り返し名を呼んだ。唇と舌に、十分に馴染んだ音である。
「お前と酒を飲んでいると、船長たちを思い出す」
「一人何役こなしゃいいんだ」
「お前の雰囲気も言葉も何もかも。海の、香りがする。潮騒がする。目を閉じればそこに、感じるんだ」
女の独白を男は止めない。ただ、聞く。
「ここは陸で、海の上で、一軒家で、窓から海は臨めるけれど、でもそこは、そこから先は私には、踏み込めない場所だ。軍艦に乗って海を走っても、海王類を仕留めるために海に飛び込んでも。触れても溺れても何をしても…でも、私が溺れなければならない場所は、そこじゃない。いや、溺れたい場所はそこじゃない」
私が。
しかしミトの声は途中で途切れた。反対側にいたはずの男がいつの間にか隣に腰を下ろしている。大きな指輪を嵌めた掌が髪の毛を掴んで回す。ぐしゃりくしゃり。
「もう、いい」
「卑怯だな、私は」
顔を皮肉に塗りたくり、歪める。ああ卑怯だとミトはもう一度繰り返した。ひどく自虐的な言葉は聞くに堪えない。
「お前を利用している」
「おれもてめぇを利用してんだ」
もう触れることを望まない海の色を求めている。
クロコダイルは視線を自身の義手に落とした。額に浮かんだ皺が僅かに緩む。信用も信頼も仲間も、何もかもが下らないと全く笑い話になるその中で、ただ一人、自分の隣で項垂れ苦しんでいるこの女だけは信用している矛盾に、クロコダイルは葉巻を取出し口に咥える。火はつけない。それが何故なのかと聞かれれば、クロコダイルにも本当のところ理由はわからない。旧知の仲であるからか、あるいは女が自分以外の誰も信用していないからか。分からなかった。信頼はする。けれども、
信用はしない。
それははたから見ていても分かる事柄だった。この女は、海軍という組織を信用はしていない。信頼はしても、信用しない。女の過去がそれをそうさせるのかどうなのか、分からない。海軍に限らず、海賊に関しても女は似たようなところがある。尤も、海賊という存在を信用することの方がいささか問題があるようにすら思える。それでもまだ、海賊の方が信用という言葉をかけるに足りているのかもしれない。海賊はそもそも無法者であり、法の統治の及ばない存在である。故に、あらゆる前提を考慮して信用することが可能なのである。裏切られることもまた、信用の内に入る。
葉巻に火をつけ、煙を吹かす。長く吐いた煙は天井の高い室内にはっと白く拡散した。喉に出かかった勧誘の言葉を無理矢理嚥下する。それは、一等この女には必要のない言葉である。勧誘などと、馬鹿げている。断る可能性は十割であるし、何よりこの女が海兵であることをクロコダイルは覚えている。
海兵なのだ、誰よりも正義の二文字が似合わない。いつか、その二つに潰される印象さえクロコダイルには思えた。あの二文字がこの女に似合っていると思っている奴の目はどう考えても節穴である。海賊を捕える度に身を斬られるほどの苦痛を味わうのだから始末に悪い。自由を海賊から乱暴に剥ぎ取る仕草は、生皮をはいでいる気分にさせるのではないかと、クロコダイルはそう思う。口には決してしないけれど、それだけは、よく分かっている。
空になっているボトルを足裏で踏み、ごろりと絨毯の上で一回転させた。中にはまだほんの少し残っていたのか、ボトルが回るに従い、その内容物は下で波を作った。ガラスの内側を這い上がり、そして落ちていく。
葉巻はゆっくりと、緩慢に灰へと姿を変えていく。灰皿は机に当たり前のように置かれていた。
「したい」
零されたミトの言葉をクロコダイルは正しく変換した。間違えようもない言葉である。死体。女にとって、その言葉はほかに何の意味も持つことはない。ただ、肉体的な死を指し示すだけの単語であり続ける。
「お前が、か」
頭から項へと掌を滑らせ、その位置からまた刈り上げるように指先を上へと持ち上げる。まるで犬でも撫でるかのような仕草と言っても不自然ではない。
クロコダイルの質問にミトは一度視線をずらし、そして元に戻した。
「ああ、そんな話を、したよ。全く笑い話だ。分からんよ。私は所詮死に損ないだ。いや、言うなれば運よく生き残ったと積極的に捉える見方もあるかな。どちらにしろ、今の私は殺すために生きているに過ぎない。…白ひげや、ヴィグたちの言っていることも分かっちゃいるのさ。私だって、うん。でも、できないんだ。この体に生きる意味というのを与えるのは、私が耐えられない。動く意味なら、いくらでも与えてやられるんだがな。私は、」
私は、と今にも泣きそうに女の瞳が歪む。
「死人とかわりゃしない。でも、動いてる。まだ動かなきゃならない。どうして、」
どうして。
「まだ、還れないんだ」
両立しない感情を掌から零しがちに女は呻く。鳴らされた喉はまるで獣のようだった。そこで、人も獣かとクロコダイルは考え直す。
ただ天井の高さのある部屋にソファと机、それから料理がぽつぽつんと置かれている。壁際にはある程度の家具も添えつけられていた。高価なものではないが、安物でもないので、それなりに長持ちはしそうな木目の品が揃っている。半分ほどは自分が選んだのだったかと思いつつ、最後の言葉以降、一言も口にしない女の頭を肩口に押し付けた。泣いてはいない。海水が、女の心から落ちているのだ。
ミトのしっかりと筋肉がついた背をクロコダイルは慰めるように撫でる。慰めるつもりなど毛頭ないが、居心地が悪いのでそのようにしている。そもそも、泣きたくなければ、哀しみたくなければ、単に女は海に帰ればいいだけなのである。海軍の正義など脱ぎ捨てて、海賊旗を代りに掲げればいい。ただ、それだけの行為がこの女にはできない。馬鹿なのであろう。復讐など下らないにも程があることを、律儀に遂行している女である。けじめでもなんでもない、ただ己が気を晴らしたいだけに行われるその虚しい行為に一体何の意味があろうか。ないのだ。どこにも。
許さないと吠え、全身の筋肉を強張らせる。緊張した体はただ殺気を放つばかりである。無意味だ。笑い飛ばせるくらいには、全く馬鹿馬鹿しい限りである。仇の謝罪も懺悔も一切の慙愧を不要とする。その存在そのものが単純に許せない。己から奪い取った者を、裁くなどと耳触りの良い言葉を女は使わない、殺すのだと言う。天誅でもなければ人誅でもない。如何に虚しいことか本人が理解しているからこそ、誰も女を止められない。人の心というものは、どの場においても最も警戒すべきものである。
ミトはぐりとクロコダイルの肩に額を押し付けた。湿り気はなく、単に押し付けているだけである。動いている両腕が、生きていない義手と、温もりのある右手を片方ずつ手に取った。頭の上に乗せていた手は膝の上に下ろされ、上に手を被せられる。手の甲と、掌が互いの体温の差を教え、クロコダイルの方が若干冷たいことを示した。
「私の方が、あたたかいな」
それでもミトはそう言った。その言葉の意味するところを、クロコダイルは悟る。いかに温もりがあっても、血液が通っていても、女にとって体というものは死んでいるものに他ならない。死体だ。
脈打つ体はクロコダイルの傍らに確かに存在した。しかしやはり女は、
死んでいるのだと。
クロコダイルはそう思った。