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じりと喚いた電伝虫を泣き止ませる。受話器を取れば、電伝虫の顔はそれを掛けてきた人間の顔に酷似した。それを常としてもう受け入れてしまってはいるが、よくよく考えてみれば随分と奇妙な電話である。誰もそれを気に掛けないために、その不思議な光景を説明しようというものはいない。
受話器を取られた電伝虫は静かな声で男の声を伝えた。
『おい』
「おれおれ詐欺か」
『何くだらねぇこと抜かしてんだ…』
「くだらないな」
全くだとミトはクロコダイルの言葉に同意する。薄い笑みを口元に乗せ、額を大きな手で押さえた。返事がないことを気にしたのか、電話向こうから少しばかりトーンを落とした声が響いた。何があった。そう、男の声は言った。
「何も」
そう答えた女にクロコダイルは電話の向こうで落胆にも似た溜息をつく。
『今、そっちに行く』
「来なくていい」
『そんなことは聞いちゃ』
いねぇよと続けようとした言葉をミトはもう一度、来なくていいと同じ言葉を繰り返すことで止めた。時計を見る。後15分もすれば、部下が巡回から帰ってくる。書類も片付けてしまわなくてはいけない。最初の山から半分にまで減った紙を視界に入れ、ミトはペンを指先で器用に回した。くるり。
「どうした、電話なんか」
『晩飯、暇ならどうかと思っただけだ』
「今日はこっちに詰めるんだ。明日も早い。また今度」
『酒なんざいくら入ってもてめぇにゃ関係ねぇだろう』
からかうような言葉を使いながら、その実口調は酷く重たい。まるで傍で自分の姿をクロコダイルが見ているかのようだとミトは思った。電話一つで驚くべきほどに様々なことが伝わってしまう。それはクロコダイルが単に鋭いのか、それともどこかに監視カメラでもつけているのか。後者はありえないので、正答は前者であろうことは簡単に知れた。
「酒、飲む気になれないな」
『そうか』
「クロコダイル」
零された名前に電話の向こうが、何だと重みをもった声で答える。ミトは人差し指で軽く皮膚を叩き、そして呟いた。
ごめんな。
口にされた謝罪の言葉に電話の向こうに頭を抱えたくぐもった溜息が電伝虫を通して相手に伝わった。クロコダイルの重たい息にミトは困ったように眉を八の字に下げた。返す言葉は無く、しかしそれでも、思いは息となって受話器に落ちる。お前を巻き込んでしまって済まないと、それでも付き合ってくれているお前に迷惑をかけてすまないと。それを悟られないよう、口元にある受話器の上に掌で蓋をした。軽く眩暈がした。
目付きの悪い電伝虫の目が二つ、じぃとミトを見ていた。尤も、その電伝虫が見ている映像が相手に知らされることはない。それでも何故だか見られている気分になり、ミトは額から手を放して電伝虫の目を見た。眉間の皺をほぐすように、軽く拳を作った指の関節を押し当てて動かす。受話器に被せていた手を放し、そして最も大切にしている友人の名を呼んだ。沈んだように響いたその名前を呼ぶ声を、電話向こうの男は静寂の合間に聞く。
「すまない」
『…謝ってんじゃ、ネェよ。てめぇの馬鹿さ加減なんて十分に分かってんだ』
「すまん、色々と」
『飯、用意しとけ』
ちょっと待て、とミトが制止をかける前に電話はぶつんと綺麗に切られた。呆然と目を丸くしながら、受話器を眺め下す。今日は帰れないと言った矢先に飯を用意しておけとの言葉に何を言えばいいのか分からない。体重を背凭れに預けながら天井を見上げる。切れてしまった通話音が一人しかいない部屋に単調に響ていた。腕を伸ばし、掴んでいた受話器を電伝虫の体に戻してやれば、それは満足したかのように目を閉じた。睫が、落ちる。
騒がしい声が廊下から届いてくる。鍵の掛けられていない扉が内側に押し開けられた。見慣れた面々がぞろぞろと室内に入ってくる。大佐お帰りなさいと反対の言葉が、部下が入ってくる度にかけられる。会議からお帰りなさいという意味であることは汲み取れたが、その前に言うことがあるだろうとミトは小さく口端を持ち上げた。列の最後尾に海兵の帽子を被っている男が扉をくぐり、開いていた扉は閉められる。男は室内に入ったことで帽子を取った。額には傷が見える。
「ただ今帰りました。そちらの守備はいかがでしたか、大佐?また喧嘩吹っかけられました?」
「馬鹿を言うな。私はそこまで好戦的じゃない」
その言葉に部屋がどっと沸く。不服そうな顔をすると、大佐が好戦的じゃないなんて嘘でしょう、や大佐は十分好戦的ですよと明るい笑い声が壁を叩いた。タオルで浮かんだ汗を拭う者、余程喉が渇いていたのかボトルを逆さまにして水を飲む者、疲れ果てて机に突っ伏しているもの、様々である。
「ほら」
「何が、ほら、だ。勝ち誇った顔をする前に報告をせんか」
「だ、そうですよ。お願いします、トラさん」
「了解であります、中佐殿」
怒鳴られるのを恐れてか、ひょいとギックはミトの前で踵を返し、椅子を回すとなれた仕草で席に着いた。そして引き出しを楽しげに引くと、大層楽しそうな顔をしてポルノ雑誌を取り出した。周囲の者は、新刊ですかとわらわらと上官の周りに集まっていく。ミトは頭痛を覚えて米神を押さえた。怒鳴るのも面倒になり、歯軋りをその代りにする。それに机の前に立っていた准尉は笑った。
ふとミトはその准尉に尋ねる。
「明日に回せる書類はあるかな」
「あります。そちら、そう、その赤紙を敷いているよりも下の部分は明日でも問題なくあります。本日はご帰宅されますか」
「ん…ああ」
「おっと、大佐!我々に酒でも奢ってくださるおつもりで!?だとすれば、可愛くてセクシーな踊り子がいる店がいいんですけど…あ、リストアップしてますから今」
「見んぞ。奢りもせん」
「たいさぁーけっちーですねぇ゛おふ!」
語尾をだらしなく伸ばしたギックの側頭部にペン立てが激突する。上官のポルノ雑誌につられていた部下は床に落ちたペン立てを一度見ると、そそくさと自分の席へと戻っていった。それを横目に准将は苦笑を浮かべる。中佐はポルノ雑誌に顔を埋めて気絶していた。
そしてミトは本日の晩御飯をどうするか、准尉の報告を聞きながらそんなことを考えた。