誇り高き - 2/3

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 「わっしも」
 そりゃあ驚きましたよォ。老いをその年の数だけ体に刻んだ男は、泡の一切入っていない氷が溶ける音を聞きながら、そう隣の髪の毛が大層膨らんでいる海軍本部における唯一の上司に向けてそう告げた。年配の人間は指を折ればそれなりにいるが、彼の上官に当たるべき人間はこのアフロヘアーの男、海軍総大将、海軍本部の元帥であるセンゴクという男のみであった。
 ウイスキーグラスの縁を持った指先が緩やかに動き、その液体に波紋を作る。唇に縁を添えたものの、センゴクは液体を食道へと落とすことはせず、グラス底を机の上に戻した。茶が恋しく思えた。現海軍大将、かつては中将であった、それよりももっと以前は当然の如く下位であった男はすぼめた唇で小さく笑い、対照的にウイスキーを味わい飲む。酒に飲まれるような失態は起こさなかった。
 現在二人の間で交わされている酒は内密のものでもなければ、かといって愚痴を吐くようなものでもなかった。ただ、どちらともなく酒を飲み、そして過去の記憶を引きずり出し、どことなく懐かしんでいるだけである。それもこれも、宴の場の空気を壊した男が零した名のせいであったのか、双方共に答えを出すことはしなかったが、ただ、その行為に浸っていた。
「死んだ、なんてェ。ね。正直な話、わっしは信じられませんでしたよォ」
 それでも、あの男が喜々としてその首を地面に転がし踏んだ瞬間にはそれを認めざるを得なかった。あのモノクルのレオル、あるいは海狂いが悪魔の実を食していないことは周知の事実であった。それこそ世の海賊が目を皿にして欲しがっている悪魔の実を差し出したところで、かの男がそれを拒絶したことは想像に難くない。あの男は、海に嫌われればそれこそ窒息死しそうなほどであった。海に狂っている男だった。
 ボルサリーノはセンゴクの、ほんの僅かにだけ減ってしまったグラスにウイスキーを注ぎ足し、自分のグラスの縁にもその口をつける。澄んだ氷の頂点から液体が滑り落ち、広がる液体に入り混じる。
「まーそんなこと言っても、死んじまったモンは、やっぱり弱かったんでしょうかねェ」
 顎髭を撫でさすりながら、ボルサリーノは両肘を机の上につけた。センゴクはその隣で、ようやく半分ほどを一気に飲み干した。焼けるような感触が胃の腑に爛れ落ち、しかしそれはまた何とも言えぬ酔いを体に回した。海の男を思い出すには、それで十分である。ロジャーや白ひげとほぼ同等の力を持っていたわりに、あまり凶悪視されていなかったのは、小規模であるがが故と、加えて気まぐれに海兵を助けるきらいがあったからである。海賊など理解したくもなかったが、それでも理解の範疇にはいない男であった。センゴクはそう振り返る。
 わっしが、ボルサリーノが肩を揺らし、そうして笑う。
「初めてあの男にあったのは、最悪に面倒な事件だったんですよォ。センゴクさん」
「天竜人、だったか」
「おや、覚えていらっしゃったんですねェ」
 そうですそうです。ボルサリーノは相槌を打ちながら頷いた。
「大した事件じゃあありませんでしたよォ。ただね、ただ。やっぱり海賊は海賊なんだなァと改めて認識させられましたねェ。わっしは、少し、勘違いしてたんですよォ」
 酒のせいなのか、舌がよく回る。そうでなくとも、常日頃からよくよくボルサリーノは話す男であった。だが、それは常に他愛のない話ばかりでのらりくらりと、彼の心の内を明かすようなものではなかった。
 センゴクは眼鏡の奥で視線だけ動かし、ボルサリーノの話を黙って聞いていた。まだ口を挟むところでも茶々を入れるところでも、話を切り上げる場面でもなかった。指先でグラスの縁をなぞる。相手が自分の話を催促しているのを空気で感じ取り、ボルサリーノは顎髭を指先でついとなぞる。
「海賊はみィんな海のクズじゃないですかァ。わっし、それでもまあ昔はそれでも凶悪なクズとそうでないクズがいると思ってた節もあったんですよォ。ほんの少し。ほんの少しですよ、センゴクさん。特にモノクルは海兵を気まぐれに助けたりするモンだから、憎めないところもあったワケですねェ」
 机の上に置いていたグラス底がテーブルと重なり、音を立てた。叩きつけるようにではなく、小指を挟み、優しく置いたため、その音は非常に小さいものであったが、それでもその音は鼓膜を震わせるには十分であった。
 ボルサリーノは首を僅かに傾げる。そして同じ言葉を繰り返した。
「海賊は海賊なんですよォ」
「海の屑に変わりはない」
「ふふ、わっし。わっしもやっぱり若かったんでしょうねェ、センゴクさん。悪い海賊と良い海賊なんて、ふふ、海賊なんてものは、皆同じだっていうのに、何を勘違いしてたんでしょう。目が覚めたんですよォ」
 そう笑い、ボルサリーノはグラスの縁を指先でゆるりとなぞった。
 その場に飛び散った光景は、紛れもなくそれはもう、言い逃れのできないほどに死罪に等しいものであった。割れたガラス玉。散らばる破片。足元を汚す赤い液体。ぶよぶよに膨れ、贅沢の極みと怠慢の限りを尽くした体が転がっており、それは生命活動をしていなかった。そこに立っていた男は、何事もなかったかのように、それは男にとっては些事だったのかもしれない。変わらず挨拶をした。よう、海兵。ボルサリーノはその声を今でも鮮明に思い起こすことができる。若かりしあの日、そこには年老いた男が居たのである。それから死体と彼の海賊たる仲間と。転がる死体は言わずもがな、天竜人のものであり、つまるところ、眼前の海賊は一生、もしくは死してもその罪を問われる身となったのである。驚いている自分を他所に、男は手にしていた刀を鞘に丁寧な仕草でおさめた。一度目を瞬かせ、しかし動揺は面に出さずに切り返した言葉もまた、ボルサリーノは同様に覚えていた。
『殺したのかい、こりゃあ困ったよォ』
 そう言ったように、記憶している。そして男はこう答えた。
『おれの前で、こいつはやるべきでないことを、したのさ。そりゃまあ、おれも許すわけにはいかん』
『海賊如きが何を言うのかねェ』
 伸ばした語尾に、男は大層愉快そうに笑い、そして口端をゆっくりと持ち上げ、続ける。
『海賊だから、言うのさ。小僧』
 それから、その後はただの戦いであった。それでも至極あっさりと逃げられてしまったのは、相手が強かったのか、それとも当時の自分が弱かったのか、定かではない。どちらにしろ逃げられた。そうして残ったのは、踏み潰されてしまった天竜人の死体だけである。おかげで、かの男の賞金は随分と跳ね上がった。それでもその海賊は少しも変わらなかったし、変わる様相を見せなかった。ただ一つ変わったことと言えば、まともな挨拶を交わすことがなくなったくらいのことである。
 指先の動きを止めたボルサリーノの隣で、センゴクはいつの間にか飲み終わっていたグラスにウイスキーを注ぎ足した。耳に透き通るような氷の溶ける音が流れ込む。ボルサリーノは片肘に体重を乗せ、体を僅かばかりに前方に押し出した。ゆるやかに流れる音楽が耳に心地よく沈んでいく。
「ハルバラットに首を取られたと聞いた時は本当に驚きましたよォ。老いというのは、そこまで人を弱らせるモノなのかと。わっしも、少なからず思いましたねェ」
「それを聞くと、私も老いたと言われているようだな」
「…今でもわっしは、あの男が生きているような気がするんですよォ。だってそうでしょう?少なくとも、あの男は彼ら相手に負けるほど弱くはなかったと、思うんです。例え、いくら老いたとしても」
「だが現実は変わらない、黄猿。あの海賊は死んだし、生き返ることもない。ハルバラット少将はそれ以来、天竜人に気に入られているという事実も、変わりない」
「わっし、ああいう海兵は好きじゃないんですよォ。何の信念も正義も持たず、ただ保身のためだけに羽織られている正義は、ああ、センゴクさん。見苦しいんですよねェ」
 しかしそれをどうこう追及している暇などどこにもないことを双方とも承知であった。組織であれ、それが人の集合体である以上、どうしようもない部分は出てくるのである。怠慢とある程度の腐敗は見逃せたとしても、形骸化だけは見逃せない。尤も、ハルバラットがしていることは結果的に海賊を討伐しているという行為に成り立っているわけであるから、それを詰問する必要性もない。
 上質な氷が半分ほど溶けて、ウイスキーを僅かに薄めた。センゴクはそれを舌で味わい、けれどもまだ十分に美味しいと感じる。結露をなぞり取る。
「手足もなくなったようだし、暫くは大人しいようだとは思いますけどねェ。ところでセンゴクさん」
「何だ」
「あの、ハルバラットに蹴られてた女将校は誰でしょうねェ。一度、わっしの部下に配属されましたかねェ」
 ボルサリーノの言葉に、センゴクは自身の記憶を探り、しかしどうにも見当たらないのでいいやと首を横に振る。否の答えに、ボルサリーノはそうでしたかと首を軽く傾げた。でも、と続ける。
「わっし、どこかで見たような気がするんですよォ」
「まあ…彼女も海軍に在籍して長いからな。どこかで会ったということは、考えられんことでもないが」
「そうじゃなくて、ですねェ」
 センゴクさん。
 そうではないのだとボルサリーノは唸る。どこかで、確かにどこかで見たような顔なのである。あの目の色は、なかなか拝めるようなものではない。物珍しいものを好む、天竜人の奴隷か何かかと思い直し、ボルサリーノはわっしの記憶違いでしたと笑う。
 時計が時刻を知らせる鐘を低く鳴らす。それにセンゴクは顔を上げ、壁にかかっている時計の針を見、すでに就寝時間になっている事実に気付いた。もうこんな時間だと立ち上がり、カウンターに二人分の料金を乗せる。ボルサリーノは隣から、ご馳走様でしたと笑いながら同様に立ち上がる。すらりと縦に長い体は、頭が天井に届きそうなほどであった。