Looking Glass - 2/2

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 ミトは眉間に深い皺を刻んでいた。深すぎる皺はもうそのままこびりついて離れないのではないのかと思われる程に、深く深く、眉間に溝を掘っている。何故そんな顔をしているのかと言えば、もしも側に誰か、誰でも良いから、海軍でも海賊でも構わない、誰かその状況を目の当たりにする者が居たのならば、その原因は即座に理解できるはずである。早押し大会でも開催されれば、一斉にボタンが押されたことだろう。
 ドンキホーテ・ドフラミンゴの腕の中、膝の上にミトは座っていた。投げ出された腕にはうっすらと青筋が浮かんでいる。吐き出された細く長い息にはもはや怒りと、その単語がぴったりの感情しかこもっていない。
「放せ。良い加減にしろ」
 本日何度目になるか分からない単語を、ミトは唇と歯、舌、喉、吐息を使用して作り出した。腹に込める力加減一つで感情の色も大きく変わって聞こえるのだから、声と言うものは大層面白いものである。
 自由の利かない体で、あからさまに苛立ちを立ち昇らせているミトにドフラミンゴはにやにやと舌を出して笑う。心持ち人よりも少しばかり長い舌はミトの頬をしっとりと舐め上げた。その動作に青筋ではなく、鳥肌を立てて、ミトは顔を蒼白にした。怒りを通り越したそこにはただただ嫌悪が広がるばかりである。
「もーちょっと」
「今放せすぐ放せ即刻放せ。私の堪忍袋の緒が切れていない間に放せ」
「そんな事言って、すでに切れてるんじゃねェの?」
 フッフフ、と楽しげにサングラスの奥で目を細め、ドフラミンゴは不敵な笑みをその口からこぼした。ドフラミンゴの返答に、ミトはさらに青筋を際立たせる。目が据わっている女の姿は、どうにも男の膝の上に乗るには不釣り合いのように思えた。
 ミトは一つ息を吐くと、軽く指先に力を込めて動かそうと試みたが、やはりどうにも動かない。動かすことを放棄して、ミトは腕から力を抜いた。腕の力は腹の怒りへと回す。
「分かっているなら、放したらどうだ。フラミンゴ野郎」
「放したら放したで、放した瞬間におれの首が飛びそうだぜ。おっかねェ」
「お前の血でシャワーなんぞ願い下げだ。良いから放せ!耳を噛むな!怖気がする!」
 盛大な舌打ちと共に弾かれた言葉にドフラミンゴは口元の笑みを深いものにして、その長い舌で嬲るようにミトの耳を舐め上げ、軽く食む。背筋の中心を駆け抜けた寒気にミトはぶるりと体を本能的に震わせた。
 全身に鳥肌が立っている。気持ちが悪い。
 流石にコトに及ばれることは無いだろうと踏んではいるが、どう考えても現在の状況は不愉快以外の何物でもない。三秒以内に放してはくれないものだろうか、とミトはかなり真剣にそう考えていた。最近は部屋を訪れても大人しく椅子に座っているだけなので、油断したのがまずかったのか、それとも自分が迂闊だっただけなのか、ミトは盛大に後悔をした。後悔したところで、今更な事柄ではあったが。
 いつからこの男を部屋に入れることを諦めたのだろうか、とミトはざらつく舌に怖気を覚えつつ、頭の隅で考える。眉間に皺を寄せても、出て行けと扉を指差しても、しまいには刀で脅しても平然とした様子で椅子に座るものだから(結局こちらが手を出せないことを知っているかのように、否、知っているのだろう)最終的に折れるのはこちらとなる。黙って座っているだけならば、なんら害もないので放置していたのが不味かったのか。ミトにはもう良く分からない。
 相変わらず、この、ドンキホーテ・ドフラミンゴという男はいけすかないが。何が駄目か、というのは、これまでも、そしておそらくこれからも繰り返される問いであり答えなのだろう。理由ならば山程あるが、決定的な理由は口にできない。したくないのではなく、口にするまでもないことのなのである。口にしても詮無いこと、と言うのが一番正しい。言ったところで、この男が理解できるとは到底思えないし、また何よりも、気に食わない意見は捻じ曲げる人間なのだから意味がない。
 ふ、とミトは諦めの息を吐いた。
「お前の欲しいものは、私は何一つとしてお前にやることはできない。早々に諦めろ」
「いやだね」
 フッフと笑い、ドフラミンゴは楽しげに口元を歪める。愉悦にも似た表情には吐き気しか覚えない。
「おつるさんと同じ言葉をお前が言ったところで、何の効果もねェよ」
「中将と同等に見てもらえているとは思っていない。それに何より、私はお前を『よい子だから』などとは死んでも考えられん。お前がよい子なら世界中のよい子は天使だろうよ」
「フフ、フッフッフ!!言ってくれるぜ!ならご期待通り、おれは『悪い子』で居た方が良いか?」
「私には関係のない話だな。黙って、いい加減に、その手を、放せ。この、鳥頭が」
 青筋をはっきり浮かべて睨みつけられたドフラミンゴは暫しの沈黙を保つ。口元からその不敵な笑みが取り除かれ、二人の間に奇妙な沈黙が落ちる。先程まで楽しげなドフラミンゴであったが故に、その沈黙は少しばかり気持ちの悪い雰囲気をそこに醸し出していた。
 黙っている暇があるならば、早々に手を放せと心の底から思っていたミトの耳に、ドフラミンゴの声が落ちる。その声は音程に揺れを持たされ、笑い声にも似たそれを持っていた。
「おれのこと、名前で呼んだら放してやるよ。ワニ野郎みたいに」
「ドフラミンゴ」
 間髪いれずに弾かれた自分の名前にドフラミンゴは至極つまらなそうな顔をした。ミトは、満足だろうと言葉に続け、ドフラミンゴに己を放すように要求した。だが、締め付ける腕はさらに力を増して、体を強く束縛した。
「そうじゃねえなァ。もっとこう、愛情をこめて」
「当初の要求にそんなものは含まれていなかった。今すぐ放せ」
「何言ってやがる。おれは言ったぜ?ワニ野郎みたいに、ってな」
「あいつとお前を同列に扱うなと何度言わせれば分かる。お前のその穴だらけの脳みそでは理解不可能か?」
「フッフッフ!立てついてくれんじゃねぇか…」
 体を揺らして笑った男に、ミトは舌打ちを一つしてもう一度同じ名前を繰り返した。だが、どんなに頑張ったところで生理的本能的嫌悪と言うものは、どうしても声に現れるものである。繰り返された声は、やはりどこか単調で、苛立ちしかふくまない。愛情や友情とは疎遠そのものであった。
「ドフラミンゴ」
「違う」
「ドンキホーテ・ドフラミンゴ」
「ナァ、そんなにおれのことが嫌いか?」
「ああ、嫌いだ。できればお前の顔を見たくない程には嫌いだな。顔を見るたびに歩く方向を180度転換したくなる」
「つれネェ」
「分かり切っていることだろう」
 ああまたその目だ、とドフラミンゴは見上げてきたミトの目を見てそう感じた。表情、眉一つの動きからでさえ自分を厭うているのが良く分かる。
「そんなにワニ野郎が良いか?」
「比較にすらならない。あいつは私の唯一無二だ」
「唯一無二、ネェ」
 ドフラミンゴはサングラス、瞳の見えないそこで目を深くゆるく歪めて行く。
 そんな顔をしてそんな目をして、そんな声で。
 お前は、あの男を友だと言う。
 理解しがたい。度し難い。
 フッフ、と口から笑みをこぼして、ドフラミンゴはミトの体を膝から下ろした。そして、指を軽く動かして自由を奪うのを止める。自由を再び手にしてもなお、女のこちらを見てくる瞳は冷たい。氷などよりも、もっとずっと。深海の奥深く、それ以上の冷たさで見据えてくる。
 私は、と女の唇が動く。薄い、紅を刷いていない唇の血色はそこまで良くは無い。ふっくらともしておらず、どこかかさついている印象さえある。リップクリームがあれば是非ともプレゼントしてやりたい。
「お前が私に与えるものが、とても、嫌いだ」
「だが、おれはそれをお前に与えたい」
「だから私はお前が嫌いだ」
「交渉決裂、だな」
「交渉なんて単語がお前の頭にインプットされていたとは驚きだ」
「おいおい、おれはこれでもビジネスマンだぜ?」
 踵を返し、その背中を見せたミトにドフラミンゴは軽く手を振って笑う。まだ居座るつもりなのか、と背中から苛立ちを発しているのが良く分かる。ドフラミンゴは分かりやすいその背中に笑い声を零した。
 自分からしてみれば、その細く小さな背中は、決して自分に凭れかかることは無い。手に入らないからこそ渇望するのか、ドフラミンゴはその背中を見ながらそんな事を考える。口からこぼれる笑みでさえ、あの女にとっては不快以外の何物でもないことも理解しながら。
「ナァ」
「何だ」
 それでも律義に返事をしてくれる辺り、彼女は自分を人としては見てくれているのだろうなと再確認をする。
「今度食事に行かねェか?」
「お前のそのコートにでも食べさせろ」
 がつんと弾かれた音の冷たさに、ドフラミンゴはつれねえなァと、本日二度目の言葉を繰り返し、そして大きな体をソファに完全に預けた。部屋の主はもう既に居らず、吐き出した息は閑散とした部屋に広がる。
 視界の端に映った、日光を弾く板状のものを目に止め、ドフラミンゴは預けていた体重をのっそりと起こす。そして、そちらに向かって歩幅大きく進む。ピンクのコートがその板に映し出された。大きく開けている胸元には均等に鍛えられた腹筋が並んでいる。フッフ、とドフラミンゴは笑う。
 そして、鏡を叩き割った。
「あーあー」
 怒られちまう。
 床に散らばった鏡の欠片には沢山の世界を映しだしていた。しかしながら、そのどれもがこちらの世界を寸分違わず正確に映し出す。一欠片二欠片を、僅かに先が尖った靴で踏みつぶす。
 粉々に砕いたそれは、もう何も映し出さなかった。