凶暴な生き物。獰猛な生き物。危険な生き物。アラバスタ王国における速脚ランキング第二位を誇り、海王類でさえ食べるその強大さ。人の何十倍もあるその体躯は凛々しく雄々しい。石柱が一体何本あるであろうかと考えられるそのしっかりどころかどっしりした脚は、成程、このアラバスタで速脚を誇るには納得ができる。尤も、その巨大な体で第二位という俊敏な動きを見せると言うこと自体には、全く目を見張る程に驚いてしまうのだが。
ガラス窓の向こう、広がる水の色に目を奪われつつ、その中で悠々と泳ぐ多くのバナナワニを眺めながらミトは一つ置かれているソファに腰を下ろしていた。場所はアラバスタ王国、レインベースのオアシス中央に位置するカジノ。レインディナーズ。B.W社社長の秘密の部屋。
ミトはその部屋のソファに体を預け、バナナワニをただひたすらに眺めていた。何も言わず何も語らず、ただただ、水を泳ぐバナナワニを鑑賞している。観賞用とするにはいささか問題がありそうな凶暴な生物は、外見だけを述べるのであればそう美しいものではない。ただ、その巨体に似合わずちょこんと頭の上に乗っているバナナを模したそれは可愛らしいと言えるのかもしれない。人によっては。
そしてその一部に属する人間の足音がこつんがつんと冷たい石を叩いて鳴らす。ミトはくと首をソファの反対側に垂らすようにして、砂漠には暑苦しくすら見えるそのコートを纏った人間を逆さまに見た。ニカ、と笑顔を口に浮かべた女に、大柄の男は軽く眉を顰める。
「何しに来た」
「何しにって…今日は非番だからな。遊びに。ニコ・ロビンがこっちに案内してくれた」
溜息を吐いたクロコダイルに、ミトは軽く笑いながらソファから立ち上がるとその眼前に広がる水槽へと近づいた。実際は水槽というよりも、湖底にこの一室があるわけだから、水槽と呼ぶべきはこちらの方なのかもしれない。
こつこつとガラスを叩くと、ガラス向こうに居る世にも恐ろしい巨大なワニが、小さな女をその瞳に捕えた。近付いてきたバナナワニをミトはじぃと覗きこむようにしてその瞳を凝視する。そして、その頭についているバナナの形を模した皮膚へと注いだ。ミトが瞬き一つせずにそれを見つめ続けるので、バナナワニは何かを察知したのか、すいと水中で方向を転換するとガラスから遠ざかって行った。ああ、とミトは酷く残念そうな声を上げる。
「クロコダイル」
呼ばれた名前にクロコダイルは、椅子に腰かけてワインを開けながら、なんだと返事をした。ここで無視をせずに返事をするだけの間柄であるのは、海兵と海賊である二人としては何かと珍しい光景なのだと一般的に思われがちだが、海軍と七武海と括りを大きく、そして狭くすれば、返事をする間柄なのも頷ける。尤も、彼らは海軍海賊の間柄でその付き合いをしているわけではない。
ミトが何かを調査するためにここを訪れたわけではないことくらい、クロコダイルも気付いては居た。そうでなくては、ミス・オールサンデー、ニコ・ロビンが彼女をここに案内するはずもない。
ぼんやりとミトの言葉を聞いていたクロコダイルだったが、次にミトの口から出た言葉にワインを盛大に噴き出しかけた。
「一匹食べても良いか?なんだか、旨そうだな。頭のところとか、やっぱりバナナの味がするんだろうか」
「…っげ、ほ…やめろ」
「何匹いる中の一匹だ。安心しろ、クロコダイル」
爽やかな笑みを浮かべて、ミトは腰に携えている刀を軽く叩いた。
彼女の刀は全てを切裂く刀。正しくは、絶つ、刀。もっと正確に言うならば、全てを絶ち切るのは彼女の腕だと言える。海楼石で作られているその刀は悪魔の実の能力者からすれば悪夢でしかないが、実質、彼女はその腕を振るうのに、その刀でなければならないと言うことは、断じてない。切裂ける刃があれば、彼女は何でも、そう、何であっても絶ち切ることができる。悪魔の実の能力者ではないが、資質と、そして努力とよべるそれの結果である。
クロコダイルはもう一度、やめろと続けた。
「食って旨いはずがねぇだろうが」
「食べてみたことはあるのか?食べてもないのに、旨くないと断言するのは感心しないな」
「おれのペットを勝手に食料にするな」
「ペットか。バナナワニを」
こつこつとミトはもう一度ガラスを叩く。数頭はミト、ではなく後ろでグラスを傾けているクロコダイルを目に止めて近寄ったが、先程遠ざかった一頭はミトがそこに立っていることが気に食わないとばかりに近付こうともしなかった。ミトはそれを見つけて、からからと笑う。
「おい!見ろ見ろ。何とも腰ぬけな一頭が居るぞ…さては、食われるのが分かったか?」
「食うな」
「頭をそぎ取るだけだ。あれだけでも」
「人の話を聞いてんのか、てめぇは」
「取敢えず」
どこから下りれば良い?とにかと笑ったミトに、クロコダイルはやめろと今度は顔を顰めてそれを制止した。ミトは数秒考えてから、軽く肩を竦めると、冗談だと口にしてクロコダイルが座っている椅子の斜め前の椅子を一つ引くと、そこに腰を下ろした。
「海兵として」聞くべきことは沢山あるだろう。だが、ミトは何もクロコダイルに問いただすことはしなかった。この不思議な部屋は何か。何のための部屋か。カジノの真下にどうしてこんな部屋があるのか。何故ミトが何も聞かないのか、クロコダイルは知っている。今、彼女が「正義」の二文字を背負っていない。唯それだけの理由なのだろう。媚びることもせず密告も観察も監視もしない。そこに座るのは、友としてなのだとクロコダイルは知っている。
奇妙な隣人。古くからの知り合い。
ミトを指し示すための言葉ならばクロコダイルは山程持っている。しかし、どれもこれも、ミトという女を括るためには少しばかり足りない。死ぬほどに、汚れ腐った正義は嫌いなくせに、そのくせ高潔な正義を信じて刃を取る。海賊が死ぬほど好きなくせに、海軍と言う組織に属する。
ワインを傾けて、クロコダイルは二つ丁寧に用意されていたグラスのうちのあまりにそれを注ぎ、ミトへと差し出す。ミトは嬉しげに眼を細めると、グラスを受け取りぐいと傾けた。飲み方が全くもって、これっぽっちもなっていない。クロコダイルの呆れた顔を見て、ミトはさらに笑みを深くした。そして、ワインをもう一杯と求める。
「味なんかわかっちゃいねぇだろうが」
詰った言葉に、ミトは注いでもらったグラスをもう一度傾けた。その豪快な飲み方は、彼女の元船長を彷彿とさせた。船長、というよりもむしろ海賊の飲み方、と言うべきだろうか。自身が海賊であることを思い出し、クロコダイルはやれやれと自分のグラスもくいと空ける。
クロコダイルの言葉にミトはうんとあっさり頷いた。
「大事なのは味じゃない。お前と一緒に飲むことだよ。友達と飲む酒ほど美味しいものはない。例えそれが泥水でも、私は美味しいと思うよ」
「おれは泥水なんざ飲まねぇよ」
「例え話だ。相変わらず頭が固いよな」
「…」
いっそバナナワニに食わせてやろうか、とクロコダイルはふつふつと思いつつ、溜息を吐くに終わる。どうせミトを下の階層に落としたところで、輪切りにされるのはバナナワニに他ならない。絶刀のミトの名は伊達ではない、ということだ。笑顔で輪切りの一片を持ち帰らせてくれと頼みこまれるのはどう考えても御免である。
二杯目も綺麗に空けたミトにクロコダイルは三杯目を差し出しかけて、何故自分が杯をしなければならないと思いあたり、馬鹿馬鹿しいとばかりに乱暴にボトルを机の上に叩きつけ、飲みたければ飲めと放置した。ミトはボトルを取り、自分のグラスに一杯、そしてクロコダイルのグラスに一杯注ぐ。
「ここは、砂ばかりだな」
「だからどうした」
「海が見たいな」
「勝手に行け」
「お前と海が見たい。お前と見た海が懐かしい。隣にお前が居ないと意味がない」
そう、ミトはその名前を繰り返しながら、グラスをもう一度傾けた。少しばかり強めのワインの三杯目は一気に飲み干されることは無く、半分程をその胃の腑に収めた。頬を少しばかり上気させ、ミトはグラスを割らない様に机の上にそっと置く。テーブルクロスが敷かれた机は、その小さな音を吸いこんだ。
指先にかかるワインの細い部分には人差し指と親指がかかり、そしてくるくるとそれを器用に回している。中に入っているワインが遠心力で液体の姿を変えていた。
「海が懐かしいな」
「…酔ってんのか。三杯だぞ」
「いや、酔ってない」
酔ってはいない、とミトは笑って三杯目を飲み干すと四杯目を注ぐ。
実際彼女の意識は大層はっきりとしていて、クロコダイルとしても、ミトが酔っているようには見えなかった。それに何より、かつて彼女が船の上で空けた酒樽の事は未だに鮮明に思い出せる。一樽空けてようやく酔い潰れた。信じられない、人間胃袋である。ああ馬鹿馬鹿しいとクロコダイルは鉤爪で軽く頭を叩いた。
ミトは視線を水圧にも耐えうるガラスで作れらた窓を見やる。そこには大量の水が張りつめており、美味しそうなバナナワニが悠々と泳いでいる。
「海は良い。自由だ。どこまでもどこまでも、母なる海は、全てを包む。できることならば、海で死にたいな」
「おれへの当てつけでいってんのか」
「ああ、お前は悪魔の実でカナヅチだもんな。まぁ、溺れたら私が助けてやるから安心しろ」
「余計な御世話だ」
「そう言うなよ。友達を助けるのは、当然だ」
このワイン旨いな、とミトは四杯目を空けてしまってからボトルを傾けたが、それはクロコダイルの手にあっさりと奪われる。不服気な目をしたミトをクロコダイルはぎろと睨みつけ、残りのワインを全て自分のグラスに注いだ。飲み過ぎたワインはグラスの三分の一を占めて滴を落とすのを止める。
普段であればもっと笑いながら楽しそうに酒を楽しむ女が珍しいと思いつつ、クロコダイルはミトの動向を視界の端に捕えながらワインを舌で味わう。上質の一品が喉を通り、腹を満たす。
「恋しい」
「あぁ?」
「海が、恋しいな」
「…やっぱ、酔ってんじゃねぇのか」
「酔ってない」
酔ってない、とミトは繰り返して白いテーブルクロスの上に突っ伏した。終始行動と言動が一貫していないミトにクロコダイルは眉間に皺をよせて、重たい鉤爪でミトの頭を叩いた。ごっつ、と重たい音が響き、ミトは頭を押さえる。しかし、普段のように怒鳴り返すこともなく、顔を上げることもしなかった。
反応が薄いミトにクロコダイルは肩肘をついて、盛大に溜息を吐いた。
大抵、この女がこうなっている時は、弱っている時である。海が恋しいと言う時も、海が懐かしいと言う時も、ただひたすらに海を求める時と、自分の所でこうやって終始無言になる時は八割型そうなのである。面倒臭いと思いつつ、追い出せない自分が居ることもまた否定できない。
クロコダイルは空になったグラスとボトルを少し遠ざけ、生身の手をミトの頭に乗せた。水分を吸い取ることのできる右手だが、今はその使い方をせず、唯ぬくもりを分けるためだけにその動作をする。
「ありがとう」
「とっとと帰れ」
「土産はバナナワニだな」
ふふ、と突っ伏したまま笑ったミトにクロコダイルは溜息を吐いた。ぐしゃりとその短い髪を鷲掴に留める。
今日は疲れたとは言わない。何も言わない。嫌なことでもあったのだろうかとクロコダイルは考える。思い当たる節ならば山程あるが(とりわけあの毒々しいピンクのフラミンゴの名前の前にドをつけた同じ七武海が最高峰である)今更そんなことで落ち込む女でもない。ならば何かと、らしくもなく、否、こうやってしょげて弱り果てている知人友人知己隣人の前ではどうしてもそれを考える。
普段が普段で冷たい顔をして、その二本の脚で立ち続けているからそうしてしまうのか、それとも、彼女のこの行動が自分にだけに許されている物だけなのだからなのか、クロコダイルには見当もつかなかった。ただ、こうやって弱っているミトを見るのは、好きではないことは確かであった。
「せんちょう」
ぽつりとテーブルクロスに与えられた単語。誰にも踏み込めない女の過去。椅子の横に置かれていた刀は、いつの間にか女の膝の上に置かれており、両掌で固く強く握りしめられていた。両足が椅子に上げられ、刀を抱き込むような形でミトは体育座りをする。
後ろばかりを見て、前を見ない。海が好きだ自由が好きだと言うのに、自らの足に復讐と言う二文字の枷を嵌め、歩き続ける。だからこそ、この女は海から最も近く、そして最も遠いところに存在する。どこまで行っても、彼女の目的を果たすまでは、本当の意味で海に沈むことすらままならない。
馬鹿な女だ、とクロコダイルは心底思う。
冷たい顔で冷たい目で正義の二文字を背負う。吐き気を催す程に嫌いな男の側で刀を握り続けると言う屈辱。恥辱。耐えがたい、死にも値する程の絶望。その男の背中を睨みつけ、いつかやがて刃を吸いこませる心臓をひた睨みする。
溜息を一つついたとき、ごつとガラスが鳴る。バナナワニが、腹が減ったとばかりに鼻でガラスを叩いていた。餌の時間かと思いあたり、クロコダイルはミトの頭から手を離すと、少しばかり強めに拳で叩いた。
「おい」
「…ん?」
「餌の時間だ。興味はあるか」
「あまり、ないな」
「黙って見てろ」
そう言って、ボタンを一つ押せば上からバナナワニのための餌が下りてくる。一つの餌にバナナワニが我先にと食いつき貪る。透明の水はあっという間に真赤に一部分を染められた。
腹を満たした一頭が、床から空いた穴からどっしりと姿を現す。その大きな一頭をミトは見上げた。そして、頭の上にちょこんとついているバナナの形の物へと視線を注ぐ。クロコダイルはそんなミトの隣を歩き、ぽんとバナナワニの鼻の頭に手を乗せて撫でる。そしてミトを手招きすると同じように触らせた。ごつりとした感触が、ミトの手に伝わる。
「可愛いもんだろうが」
するりと撫でるように手を動かせば、大層気持ちよさそうにバナナワニは目を細めた。ミトはバナナワニを撫でるクロコダイルを見て、そしてにぃとようやく笑った。安い笑顔だとクロコダイルは反対側の口角を軽く吊り上げ、眉間の皺を取った。
「だから食べようなんざ思うんじゃねぇよ」
「私が食べられそうになったら、食べてもいいか?」
「…おれが飼ってるんだ。勝手に、お前を食うわけがねぇだろうが」
その一言に、ミトは困ったような嬉しいような、何とも言えない笑顔を浮かべた。
「ああ、ありがとう」
ごつと額に当たった鉤爪にミトは頭を掌で押さえ、顔を笑みで一杯にする。
その笑顔を見つつ、手間のかかる奴だとクロコダイルは思う。だがしかし一方でそれを決して面倒だとは心の底からは思っていない自分が居ることも知っている。自分がこうしなければ、この女はどうなるのだろうかと思う。血反吐を吐きながら地面を這い、誰一人にも心を許すことなく爪を剥ぎ歯を折り、皮を剥ぎながら先に進むのではないかと思う。笑うことを止め、泣くことを止め。
自分と再会するまで彼女がそうやって生きてきたのは、その刀の腕を見れば一目瞭然である。かつて海であった時、ミトは本当に弱かった。自分を拾い上げた海賊に守られる存在であった。良く笑い良く泣き、良く楽しみ良く怒った。感情表現が豊かで、百面相かと思わされた。
今でこそ、こうやって笑っているものの、正義の文字を背負いなおせば、表情はすぐに消えてなくなる。狂い滾り、遠くに吠える。まるでその様子はいっそ獣のようですらある。孤独を愛するのは獣。人は孤独を愛さない。恐らくは、愛せない。孤独を愛すれば人は獣となる。もしくは、神のみか。
葉巻に火を付け、深く吸い込むと紫煙を吐き出す。
こうやって穏やかに笑う女が、一つ線を踏み越えて氷の表情になる。いっそ壊して海に沈めてやった方が良いのではないかとクロコダイルはどこか頭の隅でそんな事を考える。葉巻の苦さと女の悲しみは良く似ている。吐きだしても吐き出しても肺に溜まり続け、いつかは本人を殺す。
「クロコダイル?」
いつかと変わらぬ笑みを見せるミトをクロコダイルは見下ろした。
己を友だと豪語し、この世で最も不要な「信頼」という思いを寄せる。だがしかし、
「どうした」
「何でもねぇ」
この隣人のそれならば、あまり悪い気もしない。
クロコダイルはワニの鼻を右手で触れるように撫でた。心地良いのか、バナナワニは目を細めて、その巨大な体躯をずっしりと床に沈める。短いがしっかりとした四足の脚が、腹ばいになることで少しばかり力を抜いた。
ふと気付けば頭一つは小さなミトの姿がそこにはない。クロコダイル!と元気よく名前を呼ばれ、そちらを向けば、バナナワニの頭をしっかりと陣取っていた。まるで子供のような笑顔を顔に浮かべ、頭のバナナのような部分に触れる。もぎ取ろうとしているのか、とクロコダイルは一瞬青ざめた。
「冗談だ。食べやしない」
「程々にしておけよ」
そして、するりと鼻筋を通って滑り降りてきたミトの頭をクロコダイルは軽く小突いた。